伏見義民の碑
伏見義民の碑(ふしみぎみんのひ) 2009年1月11日訪問
御香宮神社の表門を入った左手には伏見義民の碑が建つ。伏見義民については、大黒寺の項で、木曽川治水工事の責任をとって自害した薩摩藩家老・平田靭負、寺田屋事件の薩摩九烈士とともに触れているが、ここで改めて書いてみる。
御香宮神社庭園 その2で書いたように小堀政一すなわち小堀遠州は、元和5年(1619)に備中松山藩から近江小室藩に移封されている。政一の父・小堀政次はもともと近江国坂田郡小堀村(現在の滋賀県長浜市)の土豪で、浅井長政の家臣であった。そういう事情から、政一にとって近江小室藩への移封は祖先の地に戻ることでもあった。そして元和9年(1624)伏見奉行に任ぜられている。豊後橋北詰、鳥羽伏見の戦いで焼失した伏見奉行所の地に新たな奉行屋敷を設けている。そして正保4年(1647)69歳の生涯を閉じるまで伏見奉行所の役宅で暮らしたとされている。その後、第5代近江小室藩主・小堀政峯の時代に再び小堀家は伏見奉行を拝命している。伏見奉行以外にも政峯は、奏者番そして2度にわたる若年寄を勤めるなど要職を歴任している。このことにより譜代大名並の格式を許されていたことが知れる。宝暦10年(1760)政峯は72歳で死去すると末子で七男の政方が近江小室藩主を継いでいる。
近江小室藩の第6代藩主・小堀政方は安永8年(1779)に伏見奉行となっている。安永年間(1772~1780)より天候不良や冷害により農作物の収穫が激減し、全国的な疲弊が始まっていた。さらに追い打ちをかけるように既に農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783)に岩木山、同年7月6日に浅間山が噴火し各地に火山灰を降らせた。この火山灰の降下により、日射量の低下を招き、農作物には壊滅的被害を与えることとなった。当時は田沼意次が推し進めてきた重商主義政策により、米価の上昇に歯止めが掛からず飢饉が全国規模に拡大することとなった。
幕府も財政的に余裕が無くなり災害対策を理由に諸藩に対して御用金を課した。小室藩の財政状況は既に父・政峯の時代より悪化していた。政方はこれを補填するために、繁栄していた伏見の町民よりいろいろな口実を付けて御用金を課した。そうぞう館が管理されているHP 文殊九助の会(http://www.kyoto.zaq.ne.jp/sozo/kusuke.htm : リンク先が無くなりました )に掲載されている天明伏見義民 安永・天明時代年表(http://www.kyoto.zaq.ne.jp/sozo/giminnenpyo.htm : リンク先が無くなりました )によると、事の発端は天明2年(1782)の奉行所による石銭の差し押さえによる。幕初より伏見湊も石銭、すなわち港に入津する船の積荷石高に応じた徴収が行われてきた。もともと、川浚費として船1石につき1文半を徴収していたものが、小堀政方が赴任する以前の安永元年(1772)に2文半に増額されている。この石銭を全て奉行所が差し押さえたことにより、町民は激昂し奉行所役人と乱闘沙汰になったようだ。奉行所の石銭に対する処置は改められたものの、冥加銀上納と引き換えに、淀川筋の魚類売権を京都の問屋商人に与えようとした。この時も漁民四百余人が三日三晩奉行所に座り込み計画を撤回させている。 この後も政方は御用金の仰付から七ヵ年に十万両の取立までの暴政を行うに至り、伏見町民の代表である年寄役は天下の禁を破って幕府に直訴し、小堀政方を伏見奉行罷免に追い込んでいる。これが伏見義民事件である。先の年表によると天明5年(1785)7月21日、文珠九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛の三人が直訴のため江戸に発つ。8月11日に出訴を知った政方は、翌日には三人を呼び戻す使者を江戸に出している。深川の陽岳寺に匿われた九助と九兵衛は、9月26日に寺社奉行・松平伯耆守に駕篭訴決行する。高齢であった伝兵衛は11月10日に病死している。そして小堀政方が伏見奉行を罷免されたのが天明5年(1785)12月26日の事であった。翌天明6年(1786)1月14日に九助と九兵衛は伏見に戻り、同18日には病死した伝兵衛も西郊に葬られている。
天明6年(1786)1月21日に小堀政方に替わり久留島通祐が伏見奉行所に入る。通祐は京都東町奉行所で出訴事件の吟味に入る。京都町奉行所より1月25日に九助と九兵衛の呼び出しがあった。同29日には今度は小堀家家臣5人に呼び出しがかかる。この5人は同年5月に投獄されている。そして天明7年(1787)8月、京都町奉行所は文珠九助と丸屋九兵衛の他、伏見屋清左衛門、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、焼塩屋權兵衛を含めた7人を投獄している。9月9日に伏見屋清左衛門、同月23日に柴屋伊兵衛、10月2日に板屋市右衛門、そして11月4日には焼塩屋權兵衛が牢内で死亡している。さらに12月に入り、幕府は文珠九助と丸屋九兵衛等町民9名と武士14名を江戸に呼び出している。天明8年(1788)1月3日、文珠九助が江戸公事宿で死亡。同月14日に評定所に出頭した丸屋九兵衛も1月23日に公事宿で死亡している。出訴から3年後には、伏見町民を代表して立ち上がった7人の町年寄は全て主訴事件の判決を聞くことなく亡くなってしまった。
伏見奉行を罷免された小堀政方が在職中の不正を理由に改易されたのは天明8年(1788)5月6日の事であった。政方は小田原藩主・大久保忠顕に預けられ、嫡子の政登もまた改易されている。これが伏見義民事件の終結と言ってもよいだろう。
このような事件の展開により、悪政を行った奉行に対して立ち上がった町民達の正義が幕府によって認められた事件として伏見義民事件は歴史に名を残している。しかし実際にはもう少し複雑な政治模様があったようだ。まず小堀政方は当時の権力者であった田沼意次に近い人物であったことが分かっている。
一般的に田沼意次が幕政を主導していた田沼時代は明和4年(1767)から天明6年(1786)までの約20年間を指す。その始まりとなる明和4年(1767)は第10代将軍・徳川家治の御用人へと出世した年とされている。この後、経済政策としては同業者組合である株仲間を奨励し、商人に専売制などの特権を与えて保護する。そして、運上金、冥加金を税として徴収する一方、新貨の鋳造と貨幣の統一により通貨制度を安定させている。また外交政策として、鎖国政策を緩めての長崎貿易の奨励など、海外物産、新技術の導入を図る。また蝦夷地の直轄も計画し、幕府による北方探査団を派遣し、ロシアとの交易も企画している。これらを士農工商の階級制に囚われない実力主義に基づく人材登用によって推進していった。
しかし天明時代(1781~1788)に入り飢饉が続くようになると、具体的な打開政策を講じることができなくなる。それとともに意次の権勢にも衰えが見えるようになっていく。一見、重商主義政策により都市部の繁栄は続くように見えるが、地方の困窮はついに棄農へとつながり、農民の都市部への流入が止まらなくなっていく。そして農村の荒廃は、繁栄していた都市部の治安悪化にも連鎖していく。さらに、これらの不満が一揆や打ちこわしによって現れると、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に、意次の贈収賄疑惑までが流されるようになる。
平賀源内などと親交を持ち、蘭学などの新しい思想を保護してきた意次の急激な社会改革は、身分制度や朱子学を重視する保守的な人々の反感を買ったことは確かである。それらの社会的不満が、やがて天明4年(1784)息子で若年寄の田沼意知の暗殺へとつながっていく。
そして天明6年(1786)8月25日、第10代将軍・徳川家治が死去する。死の直前から遠ざけられていた意次は、8月27日に老中を辞任させられる。さらに追い打ちをかけるように閏10月5日に家治時代の加増分の2万石も没収される。その後も意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受けている。天明8年(1788)6月24日死去。享年70。
田沼意次と替わって政治の舞台に現れたのは白河藩主・松平定信であった。天明7年(1787)12月に徳川御三家の推挙を受けて、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となっている。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指す。
この時期が丁度、伏見義民事件と一致する。先にも記したように、小堀政方が伏見奉行を罷免されたのは天明5年(1785)12月26日の事であった。既に田沼意知は江戸城内で佐野政言に斬られ、天明4年(1784)4月2日に死去している。そして徳川家治の死へと続いていく。天明6年(1786)8月27日の意次の失脚後に、小堀政方は改易されている。これらは松平定信による親田沼派の粛清の一環という見方もできる。さらに加えるならば、定信が老中に就任した天明7年(1787)12月に、文珠九助と丸屋九兵衛を伏見から江戸に呼び出し吟味している。ここに定信の親田沼派の排斥の意思が働いたのかもしれない。ともかくも定信の政治改革の象徴として伏見義民事件が利用された可能性はある。
なお御香宮神社にある伏見義民の碑は明治20年(1887)100年祭として建てられたもので碑文は勝海舟、題字は三条実美である。
「伏見義民の碑」 の地図
伏見義民の碑 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 御香宮神社 一の鳥居 | 34.9329 | 135.7663 |
02 | ▼ 御香宮神社 表門 | 34.933 | 135.7674 |
03 | ▼ 御香宮神社 鳥居 | 34.9332 | 135.7674 |
04 | ▼ 御香宮神社 伏見義民碑 | 34.9331 | 135.7671 |
05 | ▼ 御香宮神社 拝殿 | 34.9344 | 135.7674 |
06 | ▼ 御香宮神社 本殿 | 34.9347 | 135.7675 |
07 | ▼ 御香宮神社 絵馬舎 | 34.9344 | 135.7677 |
08 | ▼ 御香宮神社 明治維新伏見の戦跡の碑 | 34.9342 | 135.7676 |
09 | ▼ 御香宮神社 御香水 | 34.9346 | 135.7674 |
10 | ▼ 御香宮神社 庭園 | 34.9346 | 135.767 |
この記事へのコメントはありません。