安樂壽院陵
安樂壽院陵(あんらくじゅいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問
安楽寿院の収蔵庫から道路を隔てた西側に鳥羽上皇の安樂壽院陵がある。丁度訪問した時は陵の塀の工事中のようで、一部仮囲いが架かり、宝形の屋根のみがぽつんと見えた。
鳥羽天皇は康和5年(1103)堀川天皇と女御・藤原苡子の間に宗仁親王として生まれている。苡子は大納言藤原実季の娘で堀川天皇の中宮ではない。中宮である篤子内親王が高齢で子女に恵まれなかったため、苡子は皇子出産の期待をかけられて入内している。宗仁親王を出産したものの、苡子はその直後に28歳の若さで亡くなっている。宗仁親王は祖父の白河法皇の下に引き取られて養育され、誕生から7ヶ月で立太子されている。父の堀川天皇は学問と和歌そして管弦に才能を発揮し、廷臣らから慕われたが病弱であった。そして、嘉承2年(1107)帝位にあるまま29歳の若さで亡くなっている。僅か5歳で即位したため、政務は白河法皇が執った。永久5年(1117)白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年には中宮となっている。璋子との間には五男二女をもうけている。保安4年(1123)長子崇徳天皇に譲位するが、その後も実権は白河法皇が握り続けていた。このあたりの経緯は、既に崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵の項でも触れているのでご参照下さい。
大治4年(1129)白河法皇が崩御し、鳥羽上皇の院政が始まる。まず白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻し、娘の泰子(高陽院)を入内させている。これらは院の要職を自己の側近で固めることとなった。さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮璋子にかわり、権中納言・藤原長実の娘である藤原得子(美福門院)を召されている。類いまれな美貌の持ち主と伝わる美福門院は鳥羽上皇の寵愛を受け、第九皇子体仁親王を生んでいる。そして永治2年(1142)近衛天皇が即位し崇徳天皇は上皇となる。崇徳上皇は自分の子ではない弟に譲位しているため、実権は父である鳥羽法皇に握られ、院政を行うことのできない状況に追い込まれる。しかし崇徳上皇には重仁親王がおり、近衛天皇が即位した年に親王宣下を受けている。また美福門院も重仁親王を我が子の様に可愛がっていたため、次の皇太子に最も近い地位にあると目されていた。
もともと病弱であった近衛天皇は久寿2年(1155)7月22日に死去する。次の皇位は崇徳上皇の第一皇子・重仁親王と守仁親王の間で競われた。守仁親王は鳥羽上皇の第四皇子である雅仁親王の子であり、重仁親王とともに、鳥羽上皇の孫王にあたる。そして二人とも美福門院の養子となっていた。しかし守仁親王は既に仁和寺の覚性法親王の元で出家することが決まっていたために、重仁親王が即位するものと思われた。
そのような経緯にもかかわらず、鳥羽上皇の2人の孫王が後継天皇に即位することはなかった。守仁親王の父で鳥羽上皇の第四皇子である雅仁親王が立太子しないまま、久寿2年(1155)7月24日後白河天皇として即位する。これは明らかに守仁親王が即位するまでの中継ぎとして行われた処置である。このようなことに至った背景には、崇徳の院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、藤原忠実・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測される。
このような政権移行期の保元元年(1156)の5月に鳥羽法皇が病に倒れ、同年7月2日に崩御する。崇徳上皇は臨終の直前に見舞いに訪れたが対面はできなかった。崇徳上皇は憤慨して鳥羽田中殿に引き返し、法皇の葬儀は少数の近臣が執り行われた。
鳥羽法皇の死の直後より保元の乱が始まる。「上皇(崇徳上皇)左府(藤原頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞が流れると、9日の夜には崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出し、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入っている。後の時代から考えると、崇徳上皇は後白河天皇の方の挑発に乗ってしまったともいえるだろう。しかし、もし立ち上がらなければ何も為さないまま鳥羽の地で拘束されるという恐怖を強く感じたのであろう。重仁親王を同行しないまま、崇徳上皇が白河北殿に移動したのは軍事的な作戦と考えるよりは、自らが新たな治天の君になることを宣言する政治的な行動だったのかもしれない。しかし10日には頼長も宇治から上洛し白河北殿に入ると、軍事的な対峙に変わっていく。
そして翌11日には後白河天皇の平清盛、源義朝そして源義康が上皇方に夜襲をかける。上皇方の源為朝が強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、戦いは一進一退となる。しかし天皇方は白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放つと、火は白河北殿に移り上皇方の総崩れへとつながっていく。崇徳上皇や藤原頼長は御所を脱出するが、程なくして上皇は投降、頼長は合戦で受けた矢傷がもとで戦死する。そして上皇の投降を見た藤原教長や源為義など上皇方の貴族・武士は続々と投降し、保元の乱は7月15日には勝敗は決していた。乱後の崇徳上皇に対する淡路配流は、先の崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵の項に譲る。
保元元年(1156)に崩御した鳥羽法皇は、保延5年(1139)安楽寿院境内に三重塔の寿陵を営んでいる。そして遺詔により遺骸をこの塔下に納めた。しかし安楽寿院の項でも記したように、慶長元年(1596)に起きた慶長伏見地震により創建当初の仏堂とともに2基の三重塔(本御塔・新御塔)は失われている。本御塔は慶長17年(1612)に仮堂が建てられた後、元治元年(1864)瓦葺き宝形造屋根の仏堂として再興されている。これが現存する安楽寿院陵である。このように焼失とその後の再建を繰り返したため、所伝が混乱し近衛天皇陵が鳥羽天皇陵と誤認される時代が元禄以後幕末まで続いていたようだ。上記の修陵の際に修正され、現在のように鳥羽天皇の御陵とされている。
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