安楽寿院 その2
真言宗智山派 安楽寿院(あんらくじゅいん)その2 2009年1月11日訪問
安楽寿院の項で記したように、応徳3年(1086)白河上皇は、藤原季綱から献上された巨椋池の畔の別業を拡張して南殿を造営している。これが後の鳥羽殿の始まりとされている。しかし鳥羽殿の大部分は、白河上皇の孫に当たる鳥羽上皇の時代に造営されている。
安楽寿院は鳥羽殿にあった東殿の仏堂として造営されている。鎌倉時代の史書・百錬抄によると、その創建は保延3年(1137)のこととされ、創建当時は単に御堂と呼ばれていた。なお安楽寿院の名称が現れるのは康治2年(1143)である。
御堂は浄土教に基づいた極楽浄土を希求し、阿弥陀三尊を本尊としていた。この本尊を祀る阿弥陀堂(御堂)が建立した2年後の保延5年(1139)、藤原家成によって三重塔が建てられている。これは本御塔と呼ばれ、上皇の寿陵、すなわち生前に造る墓であった。白河上皇が東殿に自らの墓所として三重塔を建立しているが、鳥羽上皇も白河上皇の例に倣い、本御塔を第一の寵臣であった家成に造営させている。そして保元元年(1156)鳥羽上皇が没すると、この本御塔が墓所とされている。現在の安楽寿院の本尊である阿弥陀如来像は、この本御塔の本尊として造られたものと推定されている。
久安3年(1147)藤原顕頼によって九体阿弥陀堂が建立されている。創建当初に建立された御堂に対して、こちらは新御堂と呼ばれている。この九体阿弥陀如来像は鳥羽法皇の病気平癒を祈って仏師長円に造らせたものである。久安4年(1148)頃には鳥羽法皇の皇后美福門院のために別の三重塔が建てられている。こちらは新御塔と称された。しかし美福門院は遺言により高野山に葬られており、新御塔には鳥羽法皇と美福門院との子で夭折した近衛天皇が葬られることになった。
不動堂は久寿2年(1155)藤原忠実によって建てられたもので、仏師康助作の不動明王像を安置していた。なお安楽寿院の近くにある北向山不動院の本尊不動明王坐像が、この康助作の不動像であると推定されている。
この不動堂が建立された頃、安楽寿院の一応の完成を見ている。当時の寺領は、現在の関東から九州の間に散在し最盛期には32国63ヶ荘に及ぶ膨大なものであった。既に保延6年(1140)これらの安楽寿院領は、鳥羽上皇と美福門院の皇女・暲子内親王に引き継がれている。この時、内親王はわずか4歳であった。その後に生母美福門院からも所領が相続されている。応保元年(1161)暲子内親王は女院号宣下により、八条院と号している。この八条院領は歓喜光院領、蓮華心院領などの御願寺領を含む220ヵ所以上にのぼる膨大なものとなっている。この所領は順徳天皇から亀山院、後宇多院を経て後醍醐天皇に伝わっている。すなわち大覚寺統の主要な経済基盤となっていった。
その後、上記のように大覚寺統に関係していたためか南北朝の争乱に巻き込まれ寺領の多くを失うこととなっている。それでも徐々に寺の規模を縮小しながらも維持されてきた。桃山時代に入ると豊臣秀吉より近辺の500石分の寺領はあらためて保証する旨の朱印状を頂く。慶長元年(1596)の地震により創建当初の仏堂や、鳥羽天皇・近衛天皇の陵であった2基の三重塔(本御塔・新御塔)は失われる。本御塔は慶長17年(1612)に仮堂が建てられた後、幕末の元治元年(1864)瓦葺き宝形造屋根の仏堂として再興されている。この建物は安楽寿院西側に現存し、鳥羽天皇安楽寿院陵とされている。新御塔は豊臣秀頼により慶長11年(1606)多宝塔形式で再建されている。現在も寺の南側に現存し、安楽寿院陵とともに近衛天皇安楽寿院南陵として宮内庁の管理下にある。また慶長年間(1596~1615)豊臣秀頼により新御塔に付属した前松院を安楽寿院として再興されている。
続く江戸時代も徳川歴代将軍より寺領を安堵されている。そのため江戸時代には12院5坊の塔頭を要する学山として多くの学匠を輩出してきた。そして幕末の鳥羽伏見の戦いにおいては新政府軍の本営となった。今回の特別公開では、本営に戦勝の祝い酒を届けたという書付(そのような内容の説明があったと記憶しているが)が展示されていた。
現在の安楽寿院の建物は書院、庫裡、阿弥陀堂、大師堂そして三宝荒神社が東西に並ぶのみである。道を一本隔てて、重要文化財に指定されている阿弥陀如来像のための新しい収蔵庫と庭園があり、その北側には鳥羽上皇の安楽寿院陵が建てられている。
書院と庫裡は一つの建物で寛政7年(1795)に造営されている。元は塔頭寺院の前松院であった。台風の被害がもとで倒壊した堂の代わりに、本尊の阿弥陀如来像を安置するために阿弥陀堂が昭和34年(1959)に建立されている。阿弥陀堂は非常に小振りな建物であるため、書院と大師堂に挟まれて見落としてしまう。なお収蔵庫ができたことで今では本尊は移されている。阿弥陀堂の南側には、慶長11年(1606)に豊臣秀頼に建立された鐘楼がある。現在は柱、梁に当時の材を残し、梵鐘も元禄5年(1692)に鋳造されたものである。
慶長元年(1596)の大地震により新御塔が倒壊する。一時凌ぎで集められた資材により、仏様を祀るための堂宇を建てた。前記のように新御塔は慶長11年(1606)豊臣秀頼によって復興されたため、堂宇は勤行堂として使用されてきた。その後現在の地へ移築され、弘法大師像を本尊とする大師堂として使われてきた。その他に大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏像が安置されている。
そして境内の一番西側に建てられた三宝荒神社は火難消除の神として信仰されている。安楽寿院は保延3年(1137)の創建以来、幾度かの延焼にあっている。特に天文17年(1548)の火災により伽藍の大部分を失ったとされている。秀頼による慶長11年(1606)の復興の際、三宝荒神が勧請されている。それ以降、火災がないことからも霊験あらたかである。
三宝荒神社の脇にある2面の石仏には屋根が架けられている。平安時代の作で釈迦、弥陀、薬師三尊の3面の石仏が江戸時代に出土されたとされている。その内の弥陀三尊像は京都国立博物館に預けられている。安楽寿院陵の北側にある老人ホーム(清和園老人ホーム城南ホーム)の玄関脇の庭に、弘安10年(1287)の年号のある石造五輪塔が建つ。高さ3メートルもある鎌倉時代の典型的な五輪塔で重要文化財に指定されている。
残念ながら現在の安楽寿院の姿からは、上記のような鳥羽殿の御堂を思い起こすことは困難である。明治元年(1868)の神仏分離令後の廃仏毀釈により、塔頭・末寺12院5坊と伽藍の多くを失っている。鳥羽上皇ゆかりの寺院で、鳥羽伏見の戦いでも新政府軍を支援したにも関わらず、廃仏毀釈により、このような状況になってしまったということだ。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会の安楽寿院の項には以下のように記されている。
「安楽寿院は竹田の里不動院の北なり。鳥羽上皇脱離の後、城南の離宮にましく、北殿をひらきて、当院をいとなみ、保延三年十月十九日覚行法親王を導師として慶し給ふ。〔宗旨は真言にして、古義新義ともに修学す〕」
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