文書と写真・地図による「記憶」の再現

天龍寺 宝厳院

天龍寺 宝厳院(ほうごんいん) 2009年1月12日訪問

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天龍寺 宝厳院 中央に龍門滝が見える

 法金剛院の五位山と双ヶ岡の連なりを眺めながら、花園駅からJR嵯峨野線に乗車し、2つ先の嵯峨嵐山駅で下車する。駅南口に出て、京福電気鉄道嵐山線の嵐電嵐山駅に進む。駅の直前を西に折れてさらに300メートル程度進むと、京都府道29号宇多野嵐山山田線に突き当たり、その先に天龍寺の総門が現れる。今回は塔頭の宝厳院を先に訪問するため、放生池を右手に見ながら通り過ぎ、法堂の手前を南に入る。そのまま150メートルくらい進むと宝厳院の山門が現れる。

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天龍寺 宝厳院 茅葺屋根を載せた長屋門風の山門

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 雲上の三尊石
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 雲上の三尊石 詳細

 宝厳院の歴史を眺めると、はっきりしていない点がいくつか存在していることに気が付く。Wikipediaに掲載されている宝厳院の記述に従うと、寛正2年(1461)室町幕府の管領細川頼之が夢窓疎石の法孫にあたる聖仲永光を開山に迎え創建する。そして現在の上京区に創建時の宝厳院があったとしている。しかし、細川頼之は元中9年(1392)に既に亡くなっているので、寛正2年(1461)に宝厳院を創建することはできない。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 舟石
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 嵐山が借景なっている

 細川頼之は、細川氏の本家京兆家の当主として、元徳元年(1329)三河額田郡細川郷(現在の岡崎市細川町)に細川頼春の嫡子として生まれる。阿波、讃岐、伊予など四国地方における南朝方と戦い、観応の擾乱では幕府方に属する。そして正平22年(1367)2代将軍足利義詮の死の直前、管領に就任する。就任当時11歳であった3代将軍足利義満を補佐し、官位の昇進、公家教養、将軍新邸である花の御所の造営など将軍権威の確立に関わる。頼之の施政は、政敵である斯波氏や山名氏との派閥抗争、寺院勢力の介入、南朝の反抗などで難航した。元中8年(1391)明徳の乱では幕府方として山名氏清と戦う。翌元中9年(1392)死去。享年64。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 破岩の松
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 右は碧岩

 京都観光Naviに掲載されている宝厳院には、聖仲永光禅師を開山に迎え創建。もとは上京区禅昌院町にあり、細川頼之の昭堂を寺としたとしている。禅昌院町は裏千家今日庵の北側に接する町であり、本法寺、妙覚寺そして妙顕寺に囲まれた一画。細川頼之から数えて5代目となる武将の細川政国の没後、寺院にあらためて禅昌院と称するようになり、それが現在の町名となっている。政国は細川典厩家の2代当主として、9歳で京兆家を継いだ細川政元の幼少時の後見役であった。明応4年(1495)死去。なお「京都の地名由来辞典」(東京堂出版 2005年刊)にも、室町時代の禅僧景徐周麟の漢詩文集「翰林胡蘆集」に、禅昌院は細川政国の別荘を寺にしたものと記されている。すなわち細川頼之の昭堂が上京区の禅昌院町にあり禅昌院とよばれていたかは不明である。また細川政国が亡くなり、その後に禅昌院が創られたのは明応4年(1495)より後のことと考えることが妥当である。そうすると宝厳院創建の後のこととなる。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 碧岩
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 獅子岩と豊松垣

 確かに宝厳院の公式HPでは、
     室町幕府の管領であった細川頼之公の財をもって、天龍寺開山夢窓国師より三世の法孫にあたる聖仲永光禅師を開山に迎え創建されました。

という表現に留まっている。これらをまとめると、細川頼之が残した領地あるいは昭堂をもとにして、誰かが(幕府あるいは細川家か?)聖仲永光を開山に迎え宝厳院のもととなる寺院を創建したということになる。しかしこの時、上京区禅昌院か、あるいは天龍寺の山内に建てられたのか、また創建当時から宝厳院という寺名だったかもよく分からない。さらに付け加えると、細川政国の禅昌院は宝厳院の創建の歴史とは直接的には関係していないのかもしれない。このような多くの疑問が残る。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 獅子岩
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 鑓水

 いずれにしても寛正2年(1461)の宝厳院創建からしばらくして応仁の乱(1467~77)が始まり、宝厳院も焼失している。天正年間(1573~85)豊臣秀吉により再建され、江戸時代は徳川幕府の外護により幕末まで守られてきた。昭和47年(1972)より天龍寺塔頭の弘源寺境内にあったが、平成14年(2002)現在地に移転し再興されている。現在地は天龍寺塔頭妙智院の旧地で、近代以降は個人の別荘となっていた。従って、宝厳院の庭園・獅子吼の庭は旧妙智院庭園であり、寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会に掲載されている図会にも
     妙智院 天龍寺塔頭
     天龍寺塔頭 妙智院 林泉 策彦和尚所作

と記されている。画面中央には「しし岩」と記された伏せた獅子を思わせる巨石が置かれている。また、この図会には庭園の他に、遠景の嵐山とともに策彦和尚開山堂も描かれている。この開山堂の手前に広がる庭は、現在宝厳院に入るとすぐに現れる苦海と雲上の三尊石の庭に似ている様にも見える。獅子岩と嵐山との位置関係から境内の西側に開山堂があったと思われる。その後山荘に改められた時にかなり建物の配置が変わり、平成20年(2008)に新たな本堂が建立されている。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 策彦周良の座禅石
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭

 旧妙智院の庭園を作庭したとされている策彦周良は、文亀元年(1501)室町幕府管領細川氏の家老井上宗信の三男として丹波に生まれる。永正6年(1510)京都北山の鹿苑寺の心翁等安のもと仏門に入る。永正15年(1518)18歳で天龍寺にて剃髪、具足戒を受け、諱を周良とする。大永2年(1522)師の等安が入寂すると、天龍寺の塔頭妙智院の住職となる。
 天文6年(1537)勘合貿易船の明への派遣(遣明船)において、副使に任命される。勘合貿易は室町幕府によって行なわれてきたが、寧波の乱以降の日明貿易の主体は大内氏に移っていた。天文8年(1539)3隻に分乗した460名の船団を率い五島列島を出帆し温州府に到着。翌年に北京に入城、朝貢任務を果たす。北京を離れて寧波へ向かい、風待ちの後、帰国したのは同10年(1541)のことであった。
 二度目の渡明を命じられたのは、天文16年(1547)のことであった。今度は正使として4隻630名あまりを率い、途中海賊の襲撃を受けたものの入明を果たす。翌年(1548)になってようやく寧波上陸を許され、北京入り。再び朝貢任務を果たし、同19年(1550)大内氏の山口へ3年ぶりに帰着する。この翌年に陶隆房の下克上により、大内氏が滅亡したため最後の遣明船となった。
 弘治2年(1556)今川義元主催の詩歌会に招かれ、駿河へ下向する。翌年にかけて、武田信玄に招かれて甲斐に赴き、恵林寺住職となって滞在する。周良は正親町天皇からの信頼も篤く、織田信長をはじめ、五山の碩学として多くの公家・武士らと交流したが、あまり世に出るのを望まず、妙智院で隠棲し天龍寺の護持に務めた。天正7年(1579)入寂。享年79。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭 茶室無畏庵
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭
茶室無畏庵 面白い敷石のデザイン 奥に蓑垣が見える

 現在の宝厳院の庭(旧妙智院の庭)は、獅子吼の庭とよばれ、嵐山を借景とした回遊式庭園となっている。宝厳院の拝観の栞において以下のような説明を行なっている。

     獅子吼とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴くことによって人生の真理、正道を肌で感じる。これを「無言の説法」というが、心が大変癒される庭である。

としている。茅葺屋根を載せる長屋門風の山門を潜ると、苦海と雲上の三尊石が置かれた庭が拝観者を迎える。まず手前には僅かな苔地と石組みが築かれている。これを此岸と見立て、その先に広がる灰色の栗石を敷き詰めた空間を苦海と見る。苦海の前方には海の源流を表現するために、登龍門の故事となる龍門滝と鯉魚石を築いている。苦海の右前方に広がる苔地は彼岸の世界を表わし、その中央には大きな三尊石が据えられている。苦海に浮かぶいくつかの石組みは、此岸から海を渡り仏の世界に向かう舟石や獣石である。
 獅子吼の庭は、時計回りに順路が作られている。庭園内には、獅子岩、碧岩、響岩そして破岩の松などの巨石や奇石が配され、豊丸垣や蓑垣などが奇観を引き立てている。この庭は北端に建てられた書院風の建物から眺めることが適しているようだ。恐らく、山荘であった頃に建てられたものであろう。宗教建築の雰囲気が見られない。

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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭
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天龍寺 宝厳院 獅子吼の庭

 今回は日が沈み、撮影した写真も印象も暗い庭になってしまった。改めて明るい日中に訪れてみたいと思う。

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天龍寺 宝厳院

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