双ヶ丘
双ヶ丘(ならびがおか) 2009年1月12日訪問
法金剛院の山門を潜り出ると、たちまち交通量の多い丸太町通という現実の世界に戻る。横断歩道を渡るとJR山陰本線の花園駅の駅前広場が迎えてくれる。1996年に二条城駅とともに高架化され、駅舎も改められている。ホーム上部には木造構造の屋根が架けられ、街中の駅舎とは思えない特徴的な外観を作り出している。この花園駅から嵯峨野線に乗車し天龍寺に行く予定であるが、次の電車が来るまでにまだ少し時間があるようだ。ちなみに山陰本線のうち京都駅から南丹市の園部駅までの間は嵯峨野線と呼ぶ。花園駅のホームで次の電車を待ちながら、双ヶ丘から仁和寺方向を眺める。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会では、双岡を以下のように簡潔に説明している。
双岡は妙心寺の西にあり、一二三岡相並たり。
そして、双ヶ岡と法金剛院を描いた図絵を掲載している。距離感と方向があっていないように見える図絵であるが、必要と思われるものを記載したためであろうか。Googleの航空写真を見ても分かるように、嵯峨野から鳴滝、御室そして衣笠山、大文字山から船山にかけての山地から離れた南の平地の中に突如双ヶ岡が出現している。これは、東山山系から離れた地に真如堂や金戒光明寺のある吉田山が現れ、大徳寺の南の船岡山が唐突に現れる驚きに似ている。さらにこの地が異なっているのは、3つの美しい形状の丘が重なり、1つの山を形成していることだろう。
高架化工事で法金剛院の遺構が確認されている
上記のように双ヶ丘北から南に向かい、次第に低くなる三つの丘から構成され、北側から一の丘、ニの丘、三の丘と呼ばれている。一番北側に位置する一の丘の頂上には、双ヶ丘1号墳がある。何度も盗掘されてきたため被葬者はもとより造成の時期も不明とされているが、昔より法金剛院の地に山荘を築いた清原夏野あるいは広隆寺の開基である秦河勝の墳墓とされてきた。石室を構成する石材の規模は奈良の石舞台にも匹敵する。さらに一の丘には石室に用いられた石材はなく、三の丘には同じ石材が取れることから、石室を建造する際に三の丘より一の丘の頂上まで運び上げたものと推測されている。このことからも被葬者は有力氏族の首長以外はないと考えられてきた。しかし築造時期は6世紀末から7世紀初頭と考えられているため、河勝よりはやや古い時代のものと思われる。1980年に行なわれた双ヶ丘一号墳の発掘調査現地説明会の資料が財団法人京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに残されている。これによると、双ヶ丘一号墳の規模は羡道部:長さ約8.5m、幅2.4m、高さ2.5m 玄室:長さ約6.1m、幅3.6m、高さ5.0mであり、蛇塚に次ぐものであったことが分かる。
1号墳以外にも双ヶ丘には、規模の小さい古墳は無数に散在している。一の丘と二の丘の狭まった鞍部に5基、三の丘一帯に13基、計19基の古墳が双ヶ丘で確認されている。上記の京都市埋蔵文化財研究所にも1号墳を含め19基の古墳の位置が図解されている。ただし、現在の埋蔵文化財研究所の地図には24まで番号が振られていることから、さらに発見は続いているようだ。しかし延暦13年(794)桓武天皇が京に都が移すと、このあたり一帯は天皇が禁野の地となる。さらに風光明媚な地であったことから、貴族の別業が建てられて行く。法金剛院の前身となる清原夏野の山荘は天長7年(830)頃に建てられている。そして文徳天皇が崩御され、夏野の山荘の跡に建てられた双丘寺で追善供養が行なわれたのは天安2年(858)のこととされている。また双ヶ丘の北側に、光孝天皇の勅願で仁和2年(886)仁和寺の造営が始まっている。
そして南北朝時代に吉田兼好がこの丘に隠栖し、徒然草を著わしている。兼好は弘安6年(1283)頃に吉田神社の祠官卜部兼顕の子として生まれている。正安3年(1301)後二条天皇が即位すると、六位蔵人に任じられる。従五位下左兵衛佐にまで昇進した後、詳細な時期や理由は定かでないが、30歳前後に出家遁世する。はじめ洛北修学院に隠栖したが、のち木曽に遊び、帰洛後は双ヶ丘の麓に庵を結び閑居している。また
契り置く花とならびの岡の辺に 哀れ幾代の春をすぐさむ
とうたい、死後は骨を双ヶ丘に埋めるつもりであったことがわかる。
現在双ヶ丘の東麓、長泉寺の境内には兼好の墓と歌碑があるが、これは兼好を偲んで江戸時代に移されたと考えられている。山城名勝志の巻八に、兼好法師旧跡として次のように記されている。
元在ニ岡西麓、近世其墓移岡東長泉寺、兼好伊賀国卒
これを信じるならば、二の丘の西に在った墓を宝永2年頃に移したこととなる。
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