文書と写真・地図による「記憶」の再現

臨川寺

臨済宗天龍寺派別院 霊亀山 臨川寺(りんせんじ) 2009年11月29日訪問

画像
臨川寺 山門

 桂川の左岸に建てられた琴きき橋跡の碑から、三条通を東に50メートル余り進むと、臨川寺の山門が現れる。
 現在の臨川寺は臨済宗天龍寺派の別院で、山号は天龍寺と同じ霊亀山となっている。天龍寺嵯峨南陵でも触れたように、天龍寺の大伽藍が建立されるまでの嵯峨野の中心は亀山上皇の離宮であった。原田正俊氏の「中世の嵯峨と天龍寺」(「講座 蓮如」第4巻 平凡社 1997年刊)に掲載されている「山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図」(197.2×214.5センチメートル)には、当時の嵯峨野の姿がよく表現されている。この天龍寺が所蔵する指図は元徳元年(1329)に作成されたもので、やはり同じく天龍寺が所蔵する重要文化財に指定されている「応永鈞命絵図」(絵本著色 240×272センチメートル)と比べ、古い時代のものであることは明らかである。なお応永鈞命絵図はその添状より応永33年(1426)9月に4代将軍足利義持の命によって臨川寺住持月渓中珊が作成したものである。いずれの絵図も木村拓生氏の「中世嵯峨の都市的発展と大堰川交通」(都市文化研究3号 2004年)に転載されているので、こちらを参照すれば見ることができる。ただし、山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図は南を上にして描かれているので、両者の位置関係の比較を行なう上で注意を要する。
 後嵯峨上皇が亀山の東麓に亀山殿の造営に着手したのは、建長年間(1249〜56)であったと考えられている。そして最初の移徒が行なわれたのは慶長7年(1255)であった。亀山殿の周辺には浄金剛院、寿量院殿、薬草院、芹河殿跡そして河端殿御所など多くの建物が建ち並び、惣門前路・朱雀大路・作路などの道路が築かれたことは、山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図を見ると分かる。この図の上部に社と書かれているのが現在の大井神社とすると河端殿御所が臨川寺の地となる。

 亀山殿が天龍寺に改められたのは、後醍醐天皇が崩御された延元4年(1339)から3年経た康永元年(1342)のことであった。そして康永4年(1345)後醍醐天皇七回忌に落慶供養が行われている。
 これに対して河端殿は亀山上皇の皇女昭慶門院の御所となっている。嘉元4年(1306)この地で出家している。また昭慶門院は後醍醐天皇の皇子世良親王を養育したため、河端殿は世良親王にとって幼少時代の棲家でもあった。元亨4年(1324)昭慶門院は55歳で死去する。昭慶門院が亀山上皇より譲与された甲斐国、大和波多小北荘、越前小山荘、備後殖田荘などの多くの荘園は、女院の遺領として世良親王に継がれている。
 しかし優れた資質を備え、父である後醍醐の期待を一身に受けた親王は、元徳2年(1330)に20歳前後の若さで病没する。生前より夢窓疎石から教えを受けていた世良親王は、河端御殿を禅寺とする予定であった。乳人を委ねられていた北畠親房は親王の急逝を嘆き38歳で出家し、河端御殿は元翁本元を開山として禅寺に改められている。さらに建武2年(1335)後醍醐天皇は夢窓疎石を開山として臨川寺を建立する。すなわち臨川寺の創建は天龍寺より凡そ10年遡ることとなる。

 観応2年(1351)夢窓疎石が臨川寺三会院で寂する。遺骸は本堂内の開山堂に葬られる。臨川寺も応仁の乱で焼失するなど、度々の火災を被る。現在は再建された三会院(本堂)、客殿そして中門が残る。中門に掲げられた三会院の額は第3代将軍足利義満の筆によるとされている。三会院には夢窓国師像を安置し、その床下蓮華形自然石の下に夢窓の遺骸を納める。本堂背後東寄りに世良親王の御墓がある。なお山折哲雄監修・槇野修著の「京都の寺社505を歩く 下」(PHP新書 2007年刊)によると、三会とは本尊である弥勒菩薩と世良親王そして夢窓疎石のこととしている。

 臨川寺は、自派に限らず他派からも住持を選ぶ十方住持制をとらず、門様相承制を認められた度弟院であった。そのため臨川寺の事務、寺領の一切は夢窓およびその一派の手によって行なわれてきた。康永元年(1342)に五山十刹の制度が整えられると、十刹の第2位の寺格となる。そして永和3年(1377)にはついに五山に列し、東福寺下位の席次となる。五山では十方住持制がとられていたため度弟院としての特権を放棄しなければならなかった。度弟院制を継続するためか、あるいは五山昇格の働きかけを行なってきた管領細川頼之が康暦の政変で失脚したためか、2年後の永和5年(1379)に寺格を再び十刹に戻している。
 その後、応仁の乱で焼失するなどの打撃をうけ、次第に独立寺院としての機能を喪失して、天龍寺の傘下に組み込まれていく。焼失した建造物の再建が明応5年(1496)頃から始められ臨川寺の再興となる。明治維新後は政府の方針により各寺院の輪住制を廃止する独住制が命じられ、塔頭が独立に運営されるようになる。臨川寺は後住が決まらず廃寺寸前となったが、明治20年(1887)西堂の地位にある者が本末の差別なく位階の順序により満一カ年宛輪住交代し、各自が課出金を納めて維持費を捻出することを取り決めている。

 安永9年(1780)に刊行された都名所図会には以下のように記されている。
霊亀山臨川寺は渡月橋の東にあり、禅家十刹の第二なり。三会院の本尊は弥勒仏にして坐像なり。仏殿の額。
〔三会院〕足利義満公の筆とぞ。此地は旧亀山法皇の仙居にして、建武二年十月後醍醐天皇より開山夢窓国師に賜ふなり。〔当寺の庭は夢窓の作なり〕

 また天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には臨川寺の図絵が残されている。この江戸時代中期の図絵には、現在では失われている方丈、開山堂前庭の方形の池泉そして開山堂東側の池泉が描かれている。なお現在の三会院南庭は、昭和期に造られた枯山水式庭園で龍華三会の庭と呼ばれている。白砂の砂紋に正面に三尊石、その周囲に十六羅漢が配されている。 残念ながら現在の臨川寺は拝観謝絶のため、山門内の様子を窺うことができない。

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