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大徳寺 塔頭 その12



大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その12 2009年11月29日訪問

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大徳寺 塔頭 雲林院 2011年6月18日撮影

 大徳寺の歴史は、開祖宗峰妙超が洛北の紫野に大徳庵を結び移り住んだことに始まるとされている。沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」によると、これは34歳の正和4年(1315)のことであったとされている。また臨済禅 黄檗禅 公式サイトも、この正和4年(1315)を開創の年次としている。宗峰自筆の敷地証文案より元亨4年(1324)5月には大徳寺敷地として「雲林院辺菩提講東塔中北寄弐拾丈」の地の寄付を得ていたことが確認されている。またWikipediaでは、花園天皇が大徳寺を祈願所とする院宣を発した正中2年(1325)を採るなど、開創年次については諸説ある。 この大徳寺の開創時期に紫野に既に存在していたと考えられる寺院について見て行くことで、大徳寺の発展の歴史が分かる。

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大徳寺 塔頭 雲林院 観音堂 2011年6月18日撮影

 大徳寺の塔頭 その3では、宝永4年(1707)第291世江西宗寛が、かつてこの地にあった名刹を再興し、龍泉庵の寮舎としたため記した。雲林院の歴史は大徳寺の創建よりも古く、淳和天皇の離宮紫野院に遡る。 天長6年(829)には既に紫野院に公田4段100歩の土地を充当し、翌7年(830)紫野院に行幸し釣台にて魚を見たことが「類聚国史」に残されている。当初、紫野院と呼ばれた離宮は雲林亭となりやがて雲林院と改められたようだ。天長9年(832)にも北野に行幸して鷹狩を双岡から陶野にかけて行ない、さらに雲林院に行幸を行なっている。天長10年(833)に兄の嵯峨天皇の第2皇子正良親王(仁明天皇)に譲位した後にも行幸は続けられている。承和7年(840)に上皇が崩御されると、雲林院は仁明天皇に伝領している。承和11年(844)には、仁明天皇が北野に行幸し雲林院にて池を見ており、群臣に宴を賜った後、日暮れに宮中に還御している。
 紫野町雲林院町の玄武神社の北側には、パークシティ北大路というマンションが建っている。この建設工事の際に行なわれた京都文化博物館の調査によると、直径30メートルの園池と上記の釣台と思われる遺構が発見されている。(「京都文化博物館調査研究報告 第15集 雲林院跡 : 京都市北区紫野雲林院町」(京都府京都文化博物館 2002年刊)

 嘉祥3年(850)病に罹った仁明天皇は、3月19日に第一皇子の道康親王(文徳天皇)に譲位し、同月21日に崩御している。雲林院は第七皇子の常康親王に伝領される。幼少時より沈敏な性格であった常康親王は父帝の寵愛を受けていた。親王は仁明天皇の崩御を悲嘆し、仁寿元年(851)落髪して僧となる。斉衡2年(855)には光定を戒和上として比叡山戒壇院にて受戒している。このような経緯のもとで雲林院の寺院化は進み、貞観10年(868)には文徳天皇の第一皇子惟喬親王によって母紀静子の追善のため法華経と観普賢経が納められている。
 貞観11年(869)常康親王は、雲林院を遍照に付嘱し、これを寺院として天台宗の教義を習学することを希望している。遍照は良峰安世の子で桓武天皇の孫にあたり、すなわち仁明天皇(常康親王の父)とは従兄弟にあたった。遍照も常康親王同様、仁明天皇の崩御に際して出家しており、常康親王の遍照に対する親近感などが醸成されたとみられる。親王は雲林院を遍照に付嘱した貞観11年(869)5月14日に崩御している。

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大徳寺 塔頭 雲林院旧地 玄武神社とパークシティ北大路 2011年6月18日撮影

 元慶8年(884)9月10日、遍照は朝廷に対して、雲林院と常康親王についての事因を述べた上で、雲林院を元慶寺の別院とし、院中の雑事については遍照の門徒中から仕事に堪え得る者を選んで担当させることを願い出ており、その通り裁可されている。元慶寺は遍照が陽成天皇の降誕に際して建立された寺院であり、先に年分度者を受けている。さらに仁和2年(886)4月3日には勅によって、雲林院にて毎年3月21日の仁明天皇の忌日に金光明経を転読させるとともに、夏安居の期間中は法華経を講じることとなる。これも遍照の奏上に依ったものであり、経済的な支援が目的ではなく、勅を奉じることで将来的に祭祀を継続していくことを願ったためであろう。

 応和3年(963)には村上天皇御願の多宝塔が造立されている。また延喜18年(918)には、雲林院の近くには知足院と称する寺院が造営され、寛和年間(985~7)には、雲林院の境内に念仏寺が設けられ、菩提講が催されていたとされている。11世紀になると雲林院の境内、あるいはその周辺には、藤原道長も参詣した慈雲堂や藤原実資が参詣したとされる大弐寺や貞光寺、さらに西院や吉茂堂僧房などの寺院や堂宇が現われている。
先にも記したように、宝永4年(1707)第291世江西宗寛が客殿、玄関、庫裏、観音堂そして門など建設し、再興している。しかし寛政9年(1797)客殿と庫裏を取り壊して孤篷庵に移建している。これは寛政5年(1793年)の火災により孤篷庵が焼失し、松江藩主の松平治郷(不昧)が古図に基づき寛政9年(1797)に客殿を再建しているのに一致する。現在は観音堂と門のみが、元の院敷地の西端に残されている。

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大徳寺 塔頭 雲林院 パークシティ北大路での発掘調査 2011年6月18日撮影

 「宝山外志」には、

     円融寺は昔雲林院の地に在り、円融帝永観元年勅して之を建つ、帝退位の後落飾して此れに住す

と記されている。円融寺は円融天皇が永観元年(983)龍安寺朱山に創建された御願寺で、一条天皇の円教寺(長徳4年(998))、後朱雀天皇の円乗寺(後冷泉天皇により天喜3年(1055)に完成)、後三条天皇の円宗寺(延久2年(1070))と合わせて四円寺と称される御願寺のひとつ。永観2年(984)に花山天皇に譲位し、朱雀院上皇と称さられる。上皇は寛和元年(985)に出家し、以後円融寺に居住し続け、正暦2年(991)同寺にて崩御される。上皇の陵墓は円融寺に営まれたことより、円融院と追号されている。
 上皇の崩御後、円融寺は次第に衰退していき、平安時代末になると藤原実能が同寺址に山荘を建てている。山荘内には徳大寺または得大寺という寺院が創建されたことより、実能の子孫は徳大寺家を称するようになる。室町時代の宝徳2年(1450)細川勝元は徳大寺家から山荘を譲り受けると、同地に龍安寺を創建している。
 この円融寺は現在の龍安寺の地に創建されたため、一見して紫野院や大徳寺とは無関係のように思われる。竹貫元勝氏の「紫野 大徳寺の歴史と文化」(淡交社 2010年刊)でも「宝山外志」は、円融寺と梶井門跡にかかわる円雄院の由緒を混同していると指摘している。

 梶井門跡は青蓮院、妙法院とともに天台宗の三門跡寺院の1つ。最澄の時代に比叡山に建立された円融房に起源をもち、のちに比叡山東麓の坂本に移され、度重なる移転を繰り返し、明治4年(1871)に現在の大原来迎院町に移り、それ以降三千院あるいは三千院門跡の名称が使われるようになる。元永元年(1118)堀河天皇第二皇子最雲法親王が入寺したことにより門跡寺院となる。以後、歴代の住持として皇室や摂関家の子弟が入寺している。
 梶井宮とは、坂本の円融房には密教の修法に用いる井戸・加持井があったことから、寺を「梶井宮」と称するようになっている。保元元年(1156)最雲法親王は天台座主に任命さ、同年、比叡山の北方の大原に梶井門跡の政所を設置している。これは、大原に住みついた念仏行者を取り締まり、大原にそれ以前からあった来迎院、勝林院などの寺院を管理するためである。

 貞永元年(1232)の火災をきっかけとして坂本の梶井門跡は京都市内に移転する。洛中や東山の各地を転々とした後、船岡山の東麓に寺地を落ち着かせ紫野坊を成立させている。その時期について、竹貫元勝氏は建長2年(1250)に円雄院が船岡山の東麓に造営され、元弘初年(1331)に焼失しているのに対して、川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、尊胤法親王の門跡管領時代と考えている。つまり康永3年(1344)3月に尊胤の入室弟子承胤が紫野坊で天台座主の宣命を受けている。この時期は大徳寺の開創の正中2年(1325)と比較すると、やや後の時期となる。この後、応仁の乱で罹災するまで紫野坊は存在し、乱の後に大原の政所が本坊としている。
 元禄11年(1698)徳川綱吉は当時の門跡の慈胤法親王に対し、京都御所周辺の公家町内の御車道広小路に寺地を与えている。このため、以後近世を通じて梶井門跡は公家町の一角であるこの地にあった。かつての寺地には京都府立医科大学と附属病院が建つが、上京区梶井町と地名に名残を残す。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の梶井宮園融院梨本坊には以下のように記されている。
     当院むかしは東坂本にあり、梶井の芝とて今に旧跡のこる。
     夫より舟岡山の麓にうつし、近代此地へうつすとなり

 白毫寺についてその創立の事情や由緒を明らかにする資料は不足している。「園太暦」の文和2年(1353)7月19日の条に、

     四条大納言並山名軍勢数百騎差西北発向云々、
     大徳寺白毫寺乱入取資財

とあり、南北朝時代に遡って大徳寺に近く所在した寺院であったことが分かる。また「太平記」によると、元弘3年(1333)梶井門跡尊胤法親王が元弘の乱において、近江より京に帰住した際に、白毫寺に入っている。このことからも鎌倉時代末期には白毫寺は存在していたと推測される。またこの時期には梶井門跡と白毫寺の間に本末関係があったとも見られている。「宝山外志」では、白毫寺は円融院の枝院にして天台の道場であったとしている。

 龍翔寺の項で記したように、龍翔寺の旧地、すなわち現在の三玄院の敷地は、もともと白毫寺の寺地であった。龍翔寺が山内に移転する際にその用地を白毫寺から取得したことを示す天文8年(1539)6月2日の文書「大徳寺文書之ニ 白毫寺領証文案」が残されている。これにより東は大徳寺伽藍、南は興臨院に隣接していたことが分かる。龍翔寺は同年11月24日にさらに西隣の土地を白毫寺から取得している。
 龍翔寺に用地を売却する以前の天文6年(1537)頃より、白毫寺は意北軒や三淵晴員から祠堂銭の借入れや知行地の分割契約を結んでいる。恐らく経営的に逼迫した状況に陥っていたと推測される。そして永禄4年(1561)に数年知行していた山林を大徳寺に売り渡している。東限を如意庵の堀、西限が若狭川、南は龍翔寺に接した東西43丈(130メートル)、南北22丈(66メートル)の土地と龍翔寺の西隣の南北15丈(45.5メートル)、東西19丈(57.5メートル)の土地が白毫寺領であった。若狭川とは鷹峯の釈迦谷山を水源とし、谷口の手前で尺八池に堰かれたあと一ノ井町へ出てくるが、以降は暗渠となっているため、かつての流路は定かではない。今宮神社の幼稚園の西に残る微妙に曲がった道は、この川のかつての流路であると謂われているが、むしろ北山通を越えると上野通のほうが、かつての流路のようにも見える。芳春院の北から大徳寺の山内に入り大徳寺通の堀に連なり堀川に注いでいたと思われる。
 これらの所有権は大徳寺本坊に移され、如意庵の西、龍翔寺の北に位置する分の東半分が栽松軒の敷地に売り渡された後に、聚光院が創建されている。また龍翔寺の西隣の土地は、永禄11年(1542)に龍翔寺の所有に移管されている。そして天正17年(1589)に三玄院が創立している。このようにして白毫寺の土地は大徳寺に買い取られ、増加して行く塔頭の用地となっていったと考えても良いだろう。

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大徳寺 塔頭 雲林院 紫野院の説明 2011年6月18日撮影

「大徳寺 塔頭 その12」 の地図





大徳寺 塔頭 その12 のMarker List

No.名称緯度経度
34   大徳寺 紫野院・雲林院旧地 35.0401135.7489
34  大徳寺 雲林院 35.0403135.7477
35   大徳寺 円融院旧地 35.0401135.7466
36   大徳寺 白毫寺旧地 35.0436135.7453

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