松尾大社 曲水の庭
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ) 2009年12月9日訪問
上代の磐座・磐境をモティーフとした「上古の庭」に続いて、「曲水の庭」について見てゆく。
「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に掲載されている重森三玲の日記によると、上古の庭を設計した昭和49年(1974)4月28日に大体の設計で終わり、5月10日に門弟の斎藤忠一氏による清書が完成している。これを同月25日に河田宮司に披露し、5月29日の大安の日に松尾大社造園工事着手の奉告祭を執り行っている。この庭の施工は上古の庭が完成してからとなる。昭和49年(1974)8月1日に磐座磐境の石組が完了した翌日の2日朝より着手し、この日だけでなんと47石を組んでいる。まさに神業とよぶべき超人的な作業力である。ほぼこの日一日で完了したと日記には記されている。さらに8月21日午前中より曲水遣水の地割を縄張し、更に小石36石を夕方までに配石している。
この後、9月2日の夕方に松尾大社を訪れ、曲水の庭と磐座を一覧している。9月22日には宝物殿と儀式殿の間の中庭の石組に取り掛かり6石を組み、翌日の23日に残りの6石を組み完了している。ここの部分は「即興の庭」と名付けられている通り、あっという間に作り上げている。
昭和49年(1974)10月は上古の庭の土塀に用いる平安瓦のデザインを行い、土塀の高さを確認している。紋には平安の三つ巴と唐草を描いている。そして12月9日・10日と再び四国に渡り板石40個を見つけている。そして12月20日に大社を訪れ、土塀と回遊道の仕上げを指示し、曲水庭の水の流れを一覧している。この翌日の12月21日に発病しているため、前日の訪問が最後となっている。
重森三玲が松尾大社の庭を造園する際、「この石組は天津磐座だから、あくまでも無心に組む必要があり、更に又無技巧の技巧といったやり方でこそこそ神の立場で組むということより外ない。」という心情で臨んだことは、すでに松尾大社 上古の庭 その2で書いた。確かに磐座・磐境は美的に造形するものではなく、上代の人々が崇拝した対象を表現したものである。そのため人間を離れて神的な存在でなければ成し得ないという境地に辿り着くことは十分に理解できる。曲水の庭においても、ほとんど迷うことが無く短時間に決定して行ったことより、ほぼ同じような心構えで作庭したように感じられる。 「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年刊)に掲載されている「21世紀は重森三玲をどう感じるか」と題された座談会の中で、門弟であった作庭家の斎藤忠一氏が下記のように述べている。
職人も先生も一糸乱れずです、石を組むときは。職人は先生の目を見て仕事をしていて、先生は「ちょっと、もうちょっと」くらいしか話さない。
先生が、「ここを頭にして」と言うと、その石を三叉で吊り揚げるんだ。先生がどこまで埋めると決めたら、土を石の形にそって掘って、その穴にそっと立てたら終わり。いまみたいにユンボで大きな穴を掘って、石を置いたあと周りを埋めるなんてことはない。ぎりぎりの大きさの穴にスポッと立てれば終わり。
このように重森三玲には最終的なイメージが頭の中に既に出来上がっており、作業を行う職人は三玲が行いたいことを理解できているので、このようなやり取りで仕事がどんどん進んで行くのだろう。造園会社に施工を依頼するのではなく、このようなスタッフ、門弟を含めたチームを育て上げたことによって、三玲の作業スタイルが可能になったと理解すべきだろう。
彫刻家のイサムノグチがパリ・ユネスコの庭を作る際に重森を訪ねている。ノグチはパリで組上げる前に四国で仮組み行っているが、三玲も立ち会っている。そして職人をフランスに手伝いに行かせている。しかし作業は変更、変更でせっかく組んでも翌日にはまた変更される。職人たちは「こんな仕事につきあってられるか」と帰ってきたという。芸術家イサム・ノグチと重森三玲の制作手法に対する違いが際立つエピソードでもある。
曲水の庭は曲水の宴を行うために作られた庭であり、宮中の年中行事として曲水の宴が奈良時代から平安時代中期まで行われたことからも平安時代の風情を感じる庭となっている。もともと中国においては古い時代より上巳、すなわち旧暦の3月3日に水辺で禊を行う風習があった。それが禊とともに盃を水に流して宴を行うようになったとされる。周公の時代に始まったとも秦の昭襄王の時代に始まったとも伝えられているが、永和9年(353年)3月3日、王羲之が曲水の宴を催したことが漢詩集の序文草稿「蘭亭序」に見ることができる。
日本においては「日本書紀」巻15顕宗天皇元年(485)に下記のようにある。
三月上巳、幸後苑曲水宴
曲水宴をメグリノミヅノトヨノアカリと読んでいることからも水が流れていたことが分かる。しかしこの後に曲水宴の記録がなく、次に文献に現れるのは文武天皇5年(701年)3月のことである。「続日本紀」巻2大宝元年3月の条には以下のように記されている。
三月丙子、賜宴王親及群臣於東安殿
中国で盛んに行われていた行事が、顕宗天皇の時代に日本に伝えられたとしても時代的には十分に成り立つ。しかし本家の中国では三国時代の魏(220~65年)以降、催される日を「3日を用いて上巳を用いず」と改められていることからも、何故顕宗天皇が上巳に行ったかは疑問である。そのようなことより、曲水の宴の始まりを顕宗天皇の時代に求めることに問題があるとする見方も存在している。
文武天皇の時代以降、次第に曲水の宴の記述も増えてくるため、日本においても風習として定着した時期であったと考えられる。「続日本紀」巻10天平2年(730)3月の条でも、
三月丁亥。天皇御松林宮。宴五位以上。引文章生等、令賦曲水。
とある。天平2年(730)は聖武天皇の治世であり、既にこの時期には曲水の場所において宴を催し詩歌を詠じるようになっていた。文章生とは大学寮で文章道を専攻した学生のことであり、中国の詩文および歴史を学ぶ者たちも宴に加わっていたのであろう。いずれにしても曲水の宴は、装置としての庭園だけでは成り立たない。この場に文学と音楽が加わったことで、初めて知的行事となりえている。
現在、松尾大社で3月3日に行われているのは流し雛のようである。松尾大社の公式HPを見ると、拝殿において「ひなまつり」の神事が行われた後に、曲水の庭に場を移し雅楽の調べとともに流し雛を行う次第になっている。さらに宴会場で雛祭りにちなんだ催し物が行われるようだ。曲水の宴のような古典的な行事を継承する目的とは異なり、氏子のためのお祭りのような色彩が濃いのかもしれない。 流し雛は雛祭りのもととなる行事とも考えられている。曲水の宴と同じように上巳の日に水に流す風習であるが、こちらは中国から伝えられたものではなく、日本で生まれた風習のように思える。災厄を祓うために人形を身代にして川や海に流す習慣から始まったと考えられている。現在では女の子が生まれたら無事大きく育つことを願い、小さな人形を飾るお祭り、すなわち雛祭りとなったが、今でも各地に流し雛の風習が残っている。京都でも松尾大社以外に、賀茂御祖神社で桟俵の流し雛が境内を流れる御手洗川で行われている。紙で着物を作り、顔は土を丸め胡粉を塗った素朴な人形に願いを込め流すのが慣わしとなっている。
流し雛に対して現在京都で曲水の宴を行っている中で有名なものは、城南宮と賀茂別雷神社のようだ。賀茂御祖神社で流し雛、賀茂別雷神社では曲水の宴と棲み分けているところが面白い。しかし曲水の宴は、いずれも3月3日には行われていない。 城南宮の春の祭典予定と秋の典予定を見ると、4月29日の昭和の日と11月3日の文化の日と祭日に開催しているようだ。城南宮では平安装束を身につけた男女の歌人が、庭園の流れに沿った座に着くと、川上から童子が羽觴を流す。羽觴とは酒盃をのせて流す台のことをいう。羽は鳥の羽根、そして觴は盃を表す漢字らしい。唐の時代に羽根を重ねてその上に盃をのせて流したことに由来する。転じて「羽觴を飛ばす」 とは盛んに酒杯のやり取りをすることで、李白の「春夜宴桃李園序」にも飛羽觴而醉月とある。 城南宮の羽觴は鴛鴦の姿をかたどったものを用いている。歌人は羽觴が流れ来るまでに和歌を詠み短冊にしたため、そして盃を取り上げてお酒を頂くのが流儀とされている。宴の間には静々と白拍子の舞も披露されるようだ。
賀茂別雷神社の曲水の宴(賀茂曲水宴(http://www.kamigamojinja.jp/event/apr.html : リンク先が無くなりました ))も4月第二に曜日の午後に催されている。寿永元年(1182)に神主重保が行ったことに起源をもつもので、当日は斎王代陪覧の下、当代一流歌人によって和歌が詠まれ、冷泉家時雨亭文庫の方々によって披講される。昭和35年(1960)に再興されたがその後一時中断、平成6年(1994)皇太子殿下御成婚、平安建都1200年、上賀茂神社第41回式年遷宮の奉祝行事として復活している。なお当日は野点や市も開催される。
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