文書と写真・地図による「記憶」の再現

下御霊神社

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 2009年12月10日訪問

画像
下御霊神社

 横井小楠殉節地より、寺町通を南に30メートルほど下ると下御霊神社の鳥居が現れる。
 下御霊神社は、「山州名跡志 坤」巻之二十二(「新修 京都叢書 第19巻 山州名跡志 坤」(光彩社 1968年刊))に以下のように記されている。

京極通大炊御門北東方
門西向 拝殿同 社同 所
當社始新町通近衛南ニアリ。
今尚云御霊

 京極通は東京極大路のことであり、平安京の東端にある大路のことである。現在の寺町通と考えてもよい。大炊御門通も現在の竹屋町通にあたる。鳥居は西を向き拝殿も西向きとなっている。この地に移る前は出水通衣棚上ルの御所の西側にあったと記している。この地には両御霊町と御霊町が残っている。また「京都坊目誌 上京 坤」(新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤(光彩社 1968年刊))には以下のように詳細に記されている。

創建の地は一條以北。京極の東にして下出雲寺の鎮守なりと。之を新御霊と云ふ。古今為家抄に下出雲寺は出雲前司成季の建立とす。神社も同時の鎮座歟 其後年月不詳寺と共に町尻近衛の西に移す。京都府廳の地今新町出水に両御霊町の號存す。寺は蚤く廢し神社のみ存在す。応永三十四年七月足利氏社殿を造営す。応仁元年九月兵燹に罹り。神體を花園村に遷す。其後足利氏京中に下知し再造を為す。慶長年中社傳に天正十七年とす現在の地に遷座す。

 「京都坊目誌 上京 坤」の下御霊神社ノ址という条でも新町通出水が下出雲寺の旧地であり、下御霊神社があったとしている。
 すなわち、一条通より北側に創建された下御霊神社は、いつの頃かは分からないが、現在の京都府庁のある地に移っている。そして応仁の乱の戦火によって消失したため、一時期花園村に移されている。乱の終結後足利幕府によって再び市中に戻され、社伝によると天正17年(1589)、あるいは慶長年間(1596~1615)に現在の御所の南東角に移されたことが分かる。なお、「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)によると、天正17年の豊臣秀吉による都市改造によって現在の地に遷座されたとしている。下御霊神社の公式HP由緒・沿革には下記のように記されている。

初め愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に鎮座されたと伝わっております。今で申しますと寺町今出川の北辺りと考えられます。後に新町出水の西に移り天正18年(1590)に現在地に鎮座されました。

 創建時期についても不明な点がある。上記の下御霊神社のHPでも、「日本三代実録」の貞観5年(863)5月20日の条を引用し、御霊会が神泉苑で行われた頃に創建されたと推測している。

画像
下御霊神社
画像
下御霊神社

 御霊会とは、思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼であった。上記の神泉苑での御霊会は文献上最古のものであり、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、観察使(藤原仲成あるいは藤原広嗣)、橘逸勢、文室宮田麻呂の六所御霊が祀られた。

 早良親王は光仁天皇の皇子で、桓武天皇の同母弟でもある。延暦4年(785)造長岡宮使・藤原種継暗殺事件に連座し、乙訓寺に幽閉されている。無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現在の大阪府守口市高瀬神社付近)で憤死している。
 伊予親王は桓武天皇の皇子で、生母は藤原吉子である。大同2年(807)藤原雄友は、藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を察知し、これを右大臣藤原内麻呂に報告している。一方、伊予親王も異母兄の平城天皇に宗成に唆された経緯を告げている。朝廷が宗成を尋問した所、伊予親王こそ首謀者だと自白したため、平城天皇は藤原吉子と伊予親王の母子を逮捕し飛鳥の川原寺に幽閉している。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられなかったため、11月12日に毒を仰いで自害している。後に二人の無罪が認められ墓は山陵とされている。

 大同5年(810)王権を巡り、平城上皇と嵯峨天皇の間で対立が起こる。平城上皇は、自ら東国に赴き挙兵することを決断し、愛妾の尚侍・藤原薬子とともに輿にのって東に向かう。しかし上皇の動きを知った嵯峨天皇の素早い処置により、上皇は勝機を失ったことを悟り、平城京に戻って剃髮して出家する。薬子は毒を仰いで自害、薬子の兄の参議藤原仲成は紀清成と住吉豊継の手により射殺されている。

 藤原広嗣は、天地に起こる災厄の元凶が吉備真備と僧正・玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送っている。時の権力者であった橘諸兄はこれを謀反と見なし、聖武天皇は広嗣の召喚の詔勅を出す。広嗣は勅に従わず、天平12年(740)大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こす。大野東人を大将軍とする追討軍に敗れ、肥前国松浦郡で捕らえられ同国唐津にて処刑されている。

 仁明天皇の皇太子には淳和天皇の第二皇子の恒貞親王が立てられていた。しかし承和7年(840)淳和上皇が崩御し、承和9年(842)には嵯峨上皇が重い病に伏すようになると、伴健岑と橘逸勢は恒貞親王の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策する。この計画を平城天皇の皇子である阿保親王に相談するが、親王はこれに与せずに逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に策謀を密書にて上告する。皇太后は事の重大さに驚き中納言藤原良房に相談し、良房から仁明天皇へと上告された。同年、嵯峨上皇が崩御された直後に、伴健岑と橘逸勢は捕らえられ、伴健岑は隠岐(その後出雲国へ左遷)、橘逸勢は伊豆に流罪される。橘逸勢は護送途中の遠江国板築にて没している。

 文室宮田麻呂は承和10年(843)謀反の罪に問われ、伊豆国へ配流されている。配所で没したと思われるが、詳細は不明である。のちに、無実であることが判明する。

画像
下御霊神社 拝殿
画像
下御霊神社 社殿

 このように御霊会で祀られた六柱は藤原広嗣を除けば、藤原種継暗殺事件から始まり、伊予親王の変、薬子の乱そして承和の変などで命を落とした人々である。特に桓武天皇から平城、嵯峨、淳和、仁明の5代、およそ50年間に非業の死を遂げた人を祀っていることが分かる。なお、下御霊神社では、祭神を薬子の乱で射殺された藤原仲成ではなく、それよりも70年も以前に起こった藤原広嗣の乱の主導者である藤原広嗣としている。観察使は桓武天皇の崩御後の大同元年(806)平城天皇によって定められた官職であり、次代の嵯峨天皇によって弘仁元年(810)に廃止されている。つまり4年間だけの官職だったため、70年も前の藤原広嗣が任命された可能性はないと考えられる。先の「日本三代実録」では以下のように記されている。

所謂御霊者。崇道天皇(早良)。伊豫親王。藤原夫人(吉子)。及観察使橘逸勢。文室宮田麻呂等是也。

 つまり観察使は橘逸勢の官職ではなく藤原仲成のことではないかと考えられている。

 以上の六柱に吉備聖霊と火雷天神を加えた八所御霊を祭神としている。下御霊神社では吉備聖霊を吉備真備、火雷天神を菅原道真とは見なしておらず、六座の御霊の和魂(吉備聖霊)と荒魂(火雷天神)としている。吉備真備は藤原広嗣と同じ時代だが、菅原道真が亡くなったのは延喜3年(903)であり、神泉苑で御霊会が行われた貞観5年(863)よりも後の時代であったと考えているようだ。

画像
下御霊神社 末社 五社相殿社と大国主社

 また、古くから御所の御産土神として御尊崇に厚く、享保8年(1723)4月6日、同13年(1728)2月11日の両度、霊元上皇は修学院御幸の際に御輦を社頭に寄せて御祈願されている。崩御の後は下御霊神社に併祭すべしとの勅命により、上皇の御霊を天中柱皇神として相殿している。各御代を通じて大小となく宮中に御事があるか又は祭事等にはその都度毎に、御代参、御祈祷、御湯立、神楽御奉納などの儀があった。

 天明8年(1788)1月30日の天明の大火(団栗焼け)によって御所及び二条城、東本願寺、西本願寺まで焼亡しているが、下御霊神社もこの大火によって焼失している。そのため現在の社殿は、寛政2年(1790)光格天皇によって内侍所を寄進したものと伝えられている。
 末社は神明社(祭神:天照大御神、豊受大神)、八幡社(祭神:八幡大神)、春日社(祭神:春日大神)、猿田彦社(祭神:猿田彦大神)、稲荷社(祭神:稲荷大神)、天満宮社(祭神:北野大神)、宗像社(祭神: 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)そして五社相殿社(祭神:日吉大神、愛宕大神、大将軍八神、高知穂神、斎部神)などがある。末社垂加社は鳥居の北側に猿田彦社と相殿で鎮座し、山崎闇斎を祀る。下御霊神社の神主で山崎闇斎の高弟でもあった出雲路信直が、闇斎の死後に垂加社を営み、傍らに顕彰碑を建てている。そのため同社には闇斎の肖像画や遺品が多数伝えられている。

画像
下御霊神社 拝殿と表門

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2022年1月
 12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿