松尾大社 松風苑 その2
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん)その2 2009年12月9日訪問
松尾大社の案内によると重森三玲の作庭した3つの庭を松風苑と呼ぶようである。松尾大社 その3でも記したように、大社の設定した拝観順路に従うと北清門と神饌所を結ぶ回廊の下を潜り、再び社務所と葵殿を結ぶ回廊を潜ると「曲水の庭」が現れる。この庭は葵殿と宝物殿、そして社務所と松興館に囲まれた空間に作られている。そして松興館と宝物殿を結ぶ回廊の先に次の「上古の庭」がある。もうひとつの「蓬莱の庭」へは、「上古の庭」の築地塀の外側の坂道を登り、磐座登山口の前を過ぎる。さらに宝物館と葵殿の裏側を進み、霊亀の滝と滝御前社を拝観した後、御手洗川岸を下り亀の井と四大神社・三宮社を経由して庭園入口から外に出る。 一之井川を東側に渡り楼門から外に出ると、左手に客殿と瑞翔殿が現れる。「蓬莱の庭」はこの建物から鑑賞するように作庭されている。
上記の「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)には各庭解説とともにその庭の文献・資料が巻末に付けられている。この巻に掲載された12庭の内、10庭を作庭したのが重森三玲であるため、資料の大部分は重森三玲の日記からの抜粋となっている。ここからは創作の過程がうかがえる。ところで松尾大社の庭については大社の創建に関する「本朝月令」や「続日本紀」から「山城名勝志」・「雍州府志」などの地誌とともに「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)からの抜粋が掲載されている。図書館の蔵書を検索しても見つからなかったが、たまたま昨日神田の古書店で「松尾大社境内整備誌」(松尾大社社務所 1971年刊)とともに並んでいたのを見つけ購入した。この2冊の書籍は松尾大社が行った整備事業の記録を記したもので、恐らくは寄付者に対して事業報告として配布したものと思われる。この内、「松尾大社境内整備誌」については改めて詳しく触れることとして、ここでは「松尾大社造園誌」の記述を取り上げながら、重森三玲の3つの庭がどのような目的で作庭されたかについて確認して行く。
松風苑を含む松尾大社の整備事業は、昭和41年(1966)3月1日に赴任された河田晴夫宮司によって始められた。既に本殿後部桧皮葺屋根が損傷したまま放置されるなど、すぐにでも修復作業に入らなければならない箇所が散見されたものの、当時の年間予算が7~8百万円と氏子崇敬者の数に比べ社頭収入が極めて少ない状況の中では着手が困難であった。そのため先ず本社を整備し経営基盤を固めた上で、多少の余裕が生じた際には摂社末社や御旅所の修営に取り掛かる方針を立てている。それでも当座は金のかからない境内清掃から始め、募財方法や整備事業計画の立案を急いだ。それでも丹塗りの鳥居の塗り直しが、20年以上も行われなかったため、色褪せ剥落したままであった。僅かな社費の中から20万円を工面して塗替えを実施している。
そして釣殿・中門・回廊の桧皮葺屋根葺替えを含む5つの応急措置工事691万円を京都府に申込み、市の補助金19万円を得ている。これとは別に以下のような10の社頭整備事業が立案された。
1 境内南部沿いの土地買収
2 境内北沿いの市道付換え
3 桂川堤防付近の所有地処分
4 本殿修理と回廊の増築
5 参拝者休憩所の新築
6 儀式殿の新築
7 参集殿の新設
8 写場の新設
9 宝物収蔵庫の建設
10 防火施設の充実
これ以外にも神輿庫改築や独身職員寮の新設と共に新庭園の造作も検討されていたが、10件の整備事業が優先された。この中でも参拝者休憩所、儀式殿、参集殿そして宝物収蔵庫は修補ではなく新たな建物の建設であった。現在の松尾大社の施設計画は、この昭和41年(1966)に河田宮司が立案したものが基となっていることが分かる。「松尾大社境内整備誌」よると、これを神祇院の技手から神社建築の専門家となった松本芳夫に意見を求めている。そして重森三玲にも宝物収蔵庫、儀式殿、渡廊下等の位置形状等の顧問として設計上の指導をお願いしたことが記されている。ただし、後に出版された「松尾大社造園誌」には、重森三玲氏に初めて出会ったのは昭和45年(1970)の春であったと記されている。恐らくこちらの記述の方が正確なのであろう。昭和45年(1970)1月、松本芳夫の基本計画を基に、田仲文工務店による儀式殿、宝物収蔵庫の実施設計が開始している。三玲が訂補校閲したのは同年2月で、五次に及ぶ実施設計案が固まったのは6月下旬のことだったようだ。
松尾大社の庭を見る時、建築と庭園の関係が非常に気にかかる。儀式殿、宝物収蔵庫の施設計画が決められた上で、三玲が庭を作庭したのではないかという疑問を持ってきた。特に庭の大きさと建築規模のアンバランスが目立つ。これらは施主が設定した与条件であるため、設計者ではない作庭家にとって変更は不可能だったのかもしれない。しかしコンクリート製の渡廊下を取り止めれば、かなり印象は変わったと思われる。曲水の庭の北・西そして南を画しているのは、新たに作られたコンクリート製の渡廊下である。この空間は四方から見ることを意識して創られていることは十分に理解できる。しかし四方に無骨な渡廊下を巡らす必要はなかったはずである。あるとしたら雨の日でも濡れずに儀式が行えるという経営的な理由であろう。そもそもこの渡廊下の下を潜って曲水の庭に入るアプローチ自体にも問題があるように思える。また曲水の庭と上古の庭を分断しているのも社務所から宝物収蔵庫に続く渡廊下である。この存在が上古の庭にとっても松尾山との一体化を激しく阻害しているように思えてならない。
どうも松尾大社の庭についてはクライアントである松尾大社と設計者、そして作庭家である重森三玲との間で協調して創り上げたとは思えないものとなったというのが、この空間を見た最初の印象である。
「松尾大社造園誌」の第三章は、造園関係問答として庭を造るに至った経緯が記されている。恐らく応答をおこなっているのは河田宮司だと推測される。先ず松尾大社の二柱の御祭神、そして秦氏の氏神についての説明があり、平安時代から明治時代に至る推移が記されている。そして7番目の問いとして、「今まで庭が無かった理由は?」とある。ここでは、神社は神を斎き、祈る場所であるため、風流を楽しむ場所ではないとしている。特に格式の高い神社は厳しさが要求されるため、庭を作ることなど古来より考えられなかった。
また規模の大きな神社には奉仕する神職家も多く、幹部となる神職は形骸に居館を構える事が多かった。そのため神社へは祭典の時だけ出務するため、神主職が常時生活を行い、来客の接待を行う場所を設ける必要が無かった。そのため庭が作られることがなかったとしている。これは賀茂別雷別神社と社家の関係を言っているのだろう。確かに賀茂別雷別神社には観賞用の庭はないが、境外の社家には残されている。この後で、重森三玲の「日本庭園史大系3 鎌倉の庭(一)」(社会思想社 1971年刊)の兵主大社庭園の解説より、
平安時代以後、神社自体に、庭園の作庭された実例は全くない。
を引用している。三玲はこの前に、神社においても上古時代には神池が作られ、磐座や磐境ができ、そして日本庭園の源流となったことを認めている。しかし、あくまでも神を祀るための池であり、神島であったことを強調している。すなわち神池・神島は庭としてうまれたものではないが、池庭を産み出す基となったと考えている。「日本庭園史大系1 上古の庭」(社会思想社 1973年刊)でも、秦氏と関係の深い宇佐神宮神池・神島を例として、三つの神島を直線状に並べ宗像三女神を祀る様式を説明している。そして宇佐神宮神池に見られる直線的な配島による神池形式は、伊勢神宮に代表される上代神社の建築様式へも影響を与えたとしている。
その後、神池や神島が蓬莱神仙思想などと結合することで後世の園池に発展したとしている。これらは他国の民族が日本列島に定着した時の名残りと考えている。恐らく神池神島が蓬莱神仙思想へと変化すると共に、神社には空間構成や神社建築が発展する一方で、新たな祭礼空間として庭園という形では結実しなかったということなのだろうか?
先の造園関係問答では西芳寺の造園と松尾社が深い関係にあり、特に秦氏一族の古墳の石を庭園に用いたことには松尾社の許可が必要であったという三玲の推測(「日本庭園史大系3 鎌倉の庭(一)」の各庭解説 西芳寺庭園)を引用している。河田宮司は松尾の最福寺の住持であった延朗が西芳寺庭園を築いたとしている。夢窓国師入寺以前より、西芳寺には庭園が存在していたと考えられている。
このように江戸時代までは世襲による神職が境外に社家を持ち、境内に庭を築く必要がなった。しかし明治時代に入り、太政官布告により神職の世襲制が廃止される。そして官国幣社には政府が任命した宮司や禰宜が任命され赴任してくるようになると、社務所や借家に住むようになる。松尾社も二之鳥居の南に建てられた勅使舎を宮司宿舎に充てたとしている。そして明治中期頃には、境内入口の北部に古い建物を移築し集会所とし、これに池庭を築いている。また大正時代には、社務所の西、すなわち現在の曲水の庭や上古の庭のある場所に、御手洗川より水を引き池を作っている。池の周囲につつじ、松、楠などを植えている。確かに「松尾大社造園誌」の巻頭の写真には、三玲が造園する前の庭が残されている。石垣を用いて作られた遣水には木橋が架けられ、その手前には蹲も置いてあったようだ。
そして10番目の問いに、「庭作りを思いつかれたわけを承りたい」とある。河田宮司は時代の変化により、人が自然と神社へ足を運ぶように親しみを持たせるように努めることの重要性を指摘し、以前宮司を務めていた近江神宮での時計博物館設立の経緯を紹介している。縁あって境内を訪れた人々に、少しでも長く足をとめて、すがすがしい雰囲気に触れてもらうため、そして嵐山と西芳寺の中間に位置する松尾大社においては洛西民俗館か庭園を作ることを考えたようだ。
しかし5年を費やして1800名の氏子崇敬者から1億5000万円の浄財を集め、借入金や文化財修理補助金を合わせて総額2億円の境内・社殿整備工事が完了したのが昭和46年(1971)10月のことであった。今度は造庭の寄付を募集するにあたり、「庭作り千人講」を立ち上げている。これは社殿を整備奉賛会の名称で募ったため、混淆を避けるため古めかしい講を用いている。しかし期待した酒造会社から寄付が伸びず、2年半で灯篭3基と約1000万円の献納を得て終了している。必要経費9500万円の内、酒造会社については7000万円を目標としていた。そのため氏子中の募財を中心に7000万円を集めなければならなくなった。社殿整備に続く寄付にもかかわらず、昭和50年(1975)4月には待望の1000人講を達成している。
これより以前の昭和49年(1974)5月には重森三玲は執筆中の日本庭園史大系の筆を止めて、三庭の設計図を3日間でまとめたとしている。まだ総工費の1/3しか集まっていない時点である。そして同年5月29日に着工奉告祭を執り行っている。もし募財が集まってから設計に着手したならば、松尾大社庭園は完成しなかっただろう。重森三玲は上古の庭と曲水の庭を作庭を完了した後の昭和49年(1974)12月21日発病している。そして昭和50年(1975)1月には現場での直接指導が不可能となったため、河田宮司と重森夫人の相談の上、東京で作庭していた重森完途を代役とすることが決まる。同年2月下旬に来社し約1週間で大小百余個の石組を行い、3月初旬に石組を終えている。その頃より三玲の容態は悪化し、ついに3月12日に亡くなる。享年78。3月14日午後2時より自宅で神式の葬儀が行われている。
なお、三玲の弟子たちは、数多くの作品を残した東福寺での葬儀を準備した。しかし親族より神道であることを知らされ、その日の夜中に東福寺にお断りを願い出たというエピソードも残っている。葬儀の当日は先ずお経があげられ、地元の吉田神社により神式で執り行われた。
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