京都御苑 縣井
京都御苑 縣井(きょうとぎょえん あがたい) 2010年1月17日訪問
京都御所成立の歴史と御所内構六門について記してから、3か月の時が経てしまいました。2008年に京都を訪れて以来の長い休暇を、この秋に再び得ることができました。今まで訪れることができなかった場所などを巡る旅を10日分計画するなど準備作業に忙しかったため、ブログの更新が全くできませんでした。どのような準備を行い、どこを歩いたかについては追々書いてゆくつもりですが、なにせまだ2010年のことを書くのに精一杯であるため、2014年のことを記せるのは相当先のこととなるでしょう。
現在の京都御苑は京都御所とそれを取り巻くように形成された公家屋敷であったことは、京都御所 その3を始めとして既に書いてきたとおりである。今日の京都御苑には、案内板が付けられた3つの井戸が残されている。その内の1つである縣井は京都御所の西側、宮内庁京都事務所の西にある。この地には一条邸があったことは、木村幸比古氏監修による「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊)を見れば分かる。幕末において、西北の乾門とほぼ御所の西中央部にあたる中立売門の間には北側に一条殿、その南の西に施薬院、東に清華家の今出川(菊亭家)邸と御番屋が存在したが、縣井のある地は五摂家の一つである一条殿に含まれていたようだ。
縣井に立てられた駒札によると、井戸の傍に縣宮と呼ばれる社があったようだ。そして地方官吏として出世を願う者は縣井の水で身を清め祈願し宮中にのぼったとしている。竹村俊則の昭和京都名所圖會 洛中(駸々堂出版 1984年刊)には、下記のような詳しい記述が見られる。
むかしは井戸のそばに県宮があって、毎年正月に行われる県召の除目には、諸国の外官(地方官)がこの井戸水で身を清め、栄進を祈ったといわれ、一に井戸殿ともいわれたが、今は神社はない。
この地は江戸時代になってから一条家の邸内となっている。現在の井筒の「縣井戸」の字は文化年間(1804~18)に一条家の大夫であった加茂保孝の筆による。また、明治天皇の皇后(照憲皇后)になられた一条美子が産湯に使ったのではないかという記述もある。美子は嘉永2年(1849)、従一位左大臣一条忠香の三女として生まれている。美子の母は一条家典医の娘で側室となった新畑民子である。父の忠香は14代将軍継嗣問題では一橋派を支持し、公武合体派の公家でもある。文久2年(1862)に新設の国事御用掛に子の一条実良らとともに就任するが翌年の文久3年(1863)に死去している。享年52。子の実良も慶応3年(1867)には右大臣となり、同年11月13日に摂関家の慣例により従一位に叙されている。しかし公武合体派であったため、王政復古が発せられると参内を停止されている。そして慶応4年(1868)4月24日に死去している。享年34。
駒札には、
大和物語では病気を治す水とも紹介され
とあるが、どうもその箇所を見つることができない。「大膳の大夫公平の女ども」という書き出しに続いて、
縣井戸と云ふ所に住みけり
とある。上記の註では大膳大夫公平とは橘公平のこととしているが、橘広相の子の公彦のことのようだ。橘広相は橘氏長者阿波守橘峯範の次男、平安時代前期の公卿・学者であり、阿衡事件によって宇多天皇に解官されたことで有名である。その広相の孫に当る女達が縣井の地に住んでいたことが分かる。後撰和歌集巻第三 春歌下にも、「県の井戸といふ家より、藤原治方につかはしける」として橘公平女として次の歌が選ばれている。
宮こ人きてもをらなむ蛙なく あかたの井との山吹のはな
ちなみに駒札の「後鳥羽院の歌にも詠まれました」とは続後撰集巻第三 春歌下にある
蛙鳴く県の井戸に春暮れて 散りやしぬらむ山吹の花
のことらしい。
なお縣井はかなり前より枯れてしまったが、縣井すぐそばに新しく深井戸が掘られて水場が作られている。災害時の非常飲料水として使えるように浄化・消毒を行っているが、そのままでは飲んではいけないのであろう。
この記事へのコメントはありません。