徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2014年 11月

京都御苑 桜町 その2

 

京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 桜町 紀氏遺蹟碑 2014年10月8日撮影  京都御苑 桜町では、いくつかの地誌から、紀貫之邸は中御門北、万里小路東の左京一条四坊十二町、あるいは勘解由小路北、富小路東の左京一条四坊十四町にあったと考えられてきた。ここでは、紀氏遺蹟碑が残る仙洞御所の阿古瀬淵と紀貫之との関係についてみてゆく。 紀氏遺蹟碑の建つ仙洞御所の地には、かつて豊臣秀吉の京都新城があったと考えられている。聚楽第破却後の豊臣家の京における拠点として、慶長2年(1597)4月末から京都新城の建設が始まっている。既に、京都御所 その3… ►続きを読む

 

京都御苑 桜町

 

京都御苑 桜町(きょうとぎょえん さくらまち) 2010年1月17日訪問 京都御苑 桜町  博覧会場跡の駒札のある富小路広場に紀貫之邸跡を説明する駒札も建てられている。 京都御苑 その他の邸宅 その3でも記したように、平安京左京一条四坊十二町にあたる。この地に平安時代前期の歌人・紀貫之の邸宅が所在したことは「拾芥抄」の下記の記述に従っている。 桜町 同(中御門北)万里小路東 南庭多桜樹故号 歌仙貫之之家  貫之が南庭に桜樹を多く植えたことから、この名が付いたとしている。駒札の説明では、源氏物語の末摘花の邸宅、桐壺帝の麗景殿女御とその妹花散里の暮らしていた中川邸、源氏が空蝉と出会った紀伊守… ►続きを読む

 

京都御苑 博覧会場跡 その2

 

京都御苑 博覧会場跡(きょうとぎょえん はくらんかいじょうあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 博覧会場跡地  明治14年(1881)の第十回からは現在の富小路広場で常設博覧会場として行われた。これは大宮御所が取り壊されることとなり、新たな会場を用意しなければならなかったためである。 「京都区分一覧之図、改正、附リ山城八郡丹波三郡」は明治9年(1876)の状況を現わした地図でまだ公家町が残っている。大内保存事業は明治10年(1877)に行われた明治天皇大和国並京都行幸以降の事である。明治18年(1885)の「明治新刻京都区組分細図」には既に博覧会場が描かれている。ただし明治2… ►続きを読む

 

京都御苑 博覧会場跡

 

京都御苑 博覧会場跡(きょうとぎょえん はくらんかいじょうあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 博覧会場跡地  富小路口から京都御苑に入った先に、大きく開けた富小路広場が広がる。この広場内に博覧会跡の駒札が建つ。  明治時代に入り新しい国家を支えるためには、人材と共に国家の基盤となりうる産業自体を育成していかなければならなかった。東京奠都後、特に経済的な退廃を強く感じていた京都府にとって、産業育成は特に重要な課題となっていた。そのため京都府における勧業政策の展開は、他の都市や地域と比べても早く、より積極的なものであった。後に第2代京都府知事となる槇村正直は、明治元年(1868)より… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川 その3

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川 2014年10月8日撮影  京都御苑 出水の小川では御所水道敷設について、京都御苑 出水の小川 その2では平安京造営以降の東北部の水環境と禁裏御用水の成立までを書いた。ここでは第一疎水の完成によって禁裏御用水がどのように変わったかについて書くこととする。 東京極大路の外側を南北に流れる中河の姿は源氏物語にも現われる。しかし平安時代後期から末期にかけて、中河は流れを失っていたと考えられている。そして流れを再現するため、東洞院川を北小路と一条大路の2箇所で旧中河に結び付けたのが今出… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川 その2

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川  京都御苑 出水の小川では本願寺水道など話しが少し横道に逸れてしまった。そのため御所の防災対策については説明できたものの御用水について触れることができなかった。ここでは御所水道敷設以前の御所で使用する水をどのように確保してきたかについて書いてゆく。 現在の京都御所の元となった土御門東洞院殿は、権大納言藤原邦綱の邸宅で平安京北辺四坊二町に所在した。もともと邦綱は藤原北家良門流に属する下級官人の出であった。文章生から蔵人になる一方で、藤原忠通の家司として頭角を現わし、和泉、越後、伊… ►続きを読む

 

京都御苑 出水の小川

 

京都御苑 出水の小川(きょうとぎょえん でみずのおがわ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 出水の小川  出水口より京都御苑に入ると右手にせせらぎが見える。傍らに立つ駒札には出水の小川と記されている。明治時代に御所の防火用水を確保するため、琵琶湖疏水を使用した御所水道が作られている。出水の小川は1981年に御所廻りの御溝水から導水して作られたせせらぎである。しかし1992年の御所水道が停止したため、井戸からくみ上げた地下水を循環ろ過して使用しているという。この情報だけではよく分からないので、御所で使われる水について少し調べてみる。 京都御苑 出水の小川  先ず、御所水道について触… ►続きを読む

 

京都御苑 その他の邸宅 その4

 

京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 その他の邸宅 その4 九條池と拾翠亭 左京二条四坊一町  京都御苑 その他の邸宅 その3に続き二条の北側の町の変遷を見て行く。  現在の京都御苑の西南角にあたり、閑院宮邸跡のある町。この町には近院あるいは石井と呼ばれる邸宅があった。「拾芥抄」には下記のように記されている。 石井  同(中御門南)東洞院東 重信公家内記井 中御門南 東洞院東     悪所云云 号院井云云近院  春日北烏丸東 号松殿 左大臣能有公家    今松殿或押四分一  ただし、拾芥抄の東京図では石井を「中御門南 東洞… ►続きを読む

 

京都御苑 その他の邸宅 その3

 

京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 その他の邸宅 その3 桜町 左京一条四坊十二町  京都御苑 その他の邸宅 その2に続き左京一条四坊の変遷を見て行く。  藤原道長の妻・源倫子の鷹司殿の所在地。「延喜式 巻四十二(九絛家本)」の付図には「鷹司殿」、「拾芥抄」には、「鷹司殿 同(土御門南)万里小路東 従一位倫子家 或富小路」と記され、東京図にも「京極殿」の西側に「鷹司」とある。源倫子は非常に長命で天喜元年(1053)90歳で死去している。道長の死後、この邸宅で70歳の祝賀会を開いている。 京都御苑 その他の邸宅 その3… ►続きを読む

 

京都御苑 その他の邸宅 その2

 

京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 その他の邸宅 その2 蛤御門 左京一条三坊十六町  京都御苑 その他の邸宅に続き左京一条三坊と四坊の町の変遷を見て行く。  平安時代後期、この町には藤原家成の邸宅があり三男の成親に伝領されている。藤原成親は安元3年(1177)に起きた鹿ケ谷の陰謀に連座し備前国に配流され、同年7月9日に食物を与えられず殺害されたとされている。この事件以後、邸宅は後白河法皇の所有するところとなり、左大臣藤原経宗が賜っている。 また「平安京提要」によると、崇徳上皇の御所として使われている。「兵範記」の久寿2… ►続きを読む

 

京都御苑 その他の邸宅

 

京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく) 2010年1月17日訪問 京都御苑 その他の邸宅 京都御所の宜秋門 左京北辺四坊二町 2014年10月8日撮影  小一条第を始めとし、枇杷殿まで、京都御苑内にあったと考えられる平安時代初期から鎌倉時代までの貴族の邸宅跡について書いてきた。既に京都御所 その3でも説明したように、平安京の造営はまず大内裏から始められ、続いて市街の造営を進めたと考えられている。都の中央を南北に貫く朱雀大路の北には皇居と官庁街を含む大内裏が設けられ、その中央には大極殿が造営された。大極殿の後方東側には天皇の住まいとなる内裏が設けられている。この平安京… ►続きを読む

 

京都御苑 枇杷殿

 

京都御苑 枇杷殿(きょうとぎょえん びわどの) 2010年1月17日訪問 京都御苑 枇杷殿 蛤御門あたり 枇杷殿はここよりやや南  染殿、小一条第、土御門殿、花山院に続いて、枇杷殿の歴史を見てみる。京都御苑内、蛤御門と出水口の間で皇宮警察本部の東側に枇杷殿跡の駒札が建てられているので、旧地の確認は容易である。 枇杷殿は藤原仲平の邸宅で、左京一条三坊十五町に所在した。近衛大路を挟んで南側に藤原冬嗣、良房、基経そして忠平に伝領された小一条院がある。 藤原仲平は貞観17年(875)藤原基経の二男として生まれている。寛平2年(890)宇多天皇の加冠により殿上で元服、昌泰2年(899)に昇殿、そし… ►続きを読む

 

京都御苑 花山院

 

京都御苑 花山院(きょうとぎょえん はなやまいん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 花山院 賀陽宮邸跡は花山院にあたる 2014年10月8日撮影  京都御苑 宗像神社の項で、かつて宗像神社が鎮座していた邸宅として小一条第を説明し、さらにその東側に位置した花山院との関係について書いてみた。「拾芥抄」には小一条に続き華山院が下記のように記されている。 華山院 近衛南東洞院東一町本名東一条云云 式部卿貞保親王家貞信公伝領之住 小一条之開号之東家九条殿令給 外家冷泉院此所立坊花山院伝領之  繰り返しになるが、花山院は当初東一条第と呼ばれていた。小一条院の東つまり左京一条四坊三町にあり、藤原良… ►続きを読む

 

京都御苑 染殿

 

京都御苑 染殿(きょうとぎょえん そめどの) 2010年1月17日訪問 京都御苑 「染殿第」跡の駒札 駒札は京都迎賓館の北東に立てられている  染殿については染殿井で少し触れたが、書くべきことが増えたため、改めて一項を起こすことにした。染殿があった場所については諸説あるが、近年の研究成果を纏めた「平安京提要」(角川書店 1994年刊)に従う。 大正5年(1916)に刊行された「京都坊目誌 上京第九学区之部」(京都叢書第14巻 京都坊目誌 上京 乾 光彩社 1968年刊)で、碓井小三郎は下記のように染殿第を説明している。 染殿院ノ址 染殿乃ち北を一条第とし。南を京極殿とす。本町(染殿町)西… ►続きを読む

 

京都御苑 土御門殿

 

京都御苑 土御門殿(きょうとぎょえん つちみかどどの) 2010年1月17日訪問 京都御苑 土御門殿 正面に京都御所の建春門 左手は大宮御所の築地  京都御苑の縣井、染殿井、祐ノ井の三井と白雲神社、宗像神社、厳島神社の三神社を書く上で、染殿や小一条院などの平安時代の摂家、清華家の邸宅が現在の御苑の敷地内にあったことについて書いてきた。これ以外にも御苑内には土御門殿や枇杷殿の邸宅跡を示す案内板が設置されている。 土御門殿は源雅信が築いた邸宅で、娘の倫子と従三位左京大夫藤原道長が結婚する際に住まわせ、雅信の死後は道長に継承された邸宅である。この土御門殿は、鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の里内裏… ►続きを読む

 

平安京の条坊 その2

 

平安京の条坊(へいあんきょうのじょうぼう)その2 平安京の条坊 平安神宮 2008年5月12日撮影  GoogleMap上に平安京の条坊を復元するためには、各坊の頂点の緯度経度を求めることとなる。しかし後述するように造営方位の座標変換が必要となるため、下記の手順で座標変換を行った後に一括して緯度経度に変換することとした。      1 朱雀大路心と四条大路南築地心の交点を       原点とした造営尺座標系の条坊     2 造営座標系からメートル座標系への変換     3 造営方位の回転移動     4 平面直角座標系への変換     5 緯度経度の算出  まずは朱雀大路心と四条大路南… ►続きを読む

 

平安京の条坊

 

平安京の条坊(へいあんきょうのじょうぼう) 平安京の条坊 平安神宮 2008年5月12日撮影  嵯峨野の町並み その6から、京都御所 その3にかけて、葛野郡、乙訓郡、紀伊郡そして愛宕郡の条里プランと平安京の条坊について書いてきた。大体の大きさと位置を再現してみるつもりで作成したため、地図(GoogleMap)に落としてみると、かなりズレが生じていることに気がついた。勿論当初は軽い気持ちで作り始めたのだが、いざ出来上がると今度は精度も気になってくる。特に京都の中心部の平安時代の遺跡について考える時、もう少し精度の良い条坊の再現を行わなければならないと感じた。しかし地図を作り直す時間が取れず… ►続きを読む

 
 

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