京都御苑 近衛邸跡
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと) 2010年1月17日訪問
近衛家の幕末の状況を記す前に、九條家に次ぐ五摂家の一つである近衛家の歴史を見て行く。
九条家が藤原北家九条流嫡流で藤原忠通の六男・九条兼実を祖とするのに対して、近衛家は四男の近衛基実が祖となっている。保元3年(1158)近衛基実は藤原忠通に次いで藤氏長者となっているが、これが藤原氏分家出身で最初の長者となるため、近衛家が五摂家の筆頭という扱いになっているようだ。ちなみに九条兼実が長者となるのは文治2年(1186)のことで、基実との間には松殿基房 、近衛基通、松殿師家の名が並ぶ。基実以降、二条家初代当主の二条良実が現われるまでは、近衛家と九条家が交互に長者を務めている。
近衛家の名の由来は、初代の基実の邸宅・近衛殿が近衛大路室町にあったことによる。かつての近衛大路は現在の出水通にあたり、大内裏の東の陽明門と西の殷富門に通じる大路であった。近衛家を陽明家と呼ぶのも大内裏の陽明門にその由来がある。この近衛殿は左京一条三坊十町で烏丸通を挟んで枇杷殿の西、現在の護王神社のある地となる。「平安京提要」(角川書店 1994年刊)によると、近衛殿の造営された年代は明らかでない。近衛殿が造営される以前のこの町は、小規模な邸宅に分割されていたと考えられている。また天延元年(973)の放火によって左京一条三坊の一・二・七から十町の各町が焼失するという事件が起きている。平安時代末期には摂政・藤原忠通の邸宅となり、忠通の娘の皇太后藤原聖子の御所にあてられていた。聖子は崇徳天皇の皇后であるため、康治元年(1142)に崇徳上皇、そして仁平元年(1151)には近衛天皇がそれぞれ御幸し御所としている。しかし久寿2年(1155)近衛天皇が崩御されたので里内裏としての近衛殿の歴史は4年に満たない。
川上貢の「日本中世住宅の研究 新訂」(中央公論美術出版 2002年刊)によると、近衛殿は村上源氏の源国信の女・信子を経由して近衛家に伝わっている。つまり源信子が藤原忠通の室となり基実を生んだことにより、近衛殿が基実に伝領している。忠通は左京三条三坊一町と二町にまたがる東三条殿を本邸としていた。保元元年(1156)東三条殿は忠通から娘の藤原聖子(皇嘉門院)に譲られている。その後、皇嘉門院から基実に譲られたが、仁安元年(1166)に基実が早逝すると、その室平盛子が東三条殿を伝領している。このようなことより、近衛殿は基実の母の所有であり、存命中も臨時に借用するに留まったようだ。基実の子の基通は近衛殿で祖母によって養育され、近衛殿で成人している。基通は摂政に任じられると近衛殿を出て、六条北堀川西亭に移り、養和元年(1181条東洞院殿を本邸としている。近衛殿は「家体すこぶる便宜なし」あるいは「当時居所寝殿なく、事において便宜なし」と評され、摂政邸としては適当ではなかったようだ。元暦2年(1185)7月に起こった大地震で五条殿が倒壊すると基通は近衛殿に戻り、その晩年までこの邸で暮らしている。
近衛家の名前の由来となったにも関わらず近衛基実が暮らすことはなかったが、その子の基通より家実、兼常と近衛家が伝承している。承安2年(1172)に一度焼失しているが、すぐに再建されている。しかし「日本中世住宅の研究 新訂」によれば旧規に戻すことなく縮小されて再建されたようだ。
近衛殿は鎌倉時代から室町時代までこの地に存続していた。そして応仁元年(1467)8月16日の西軍出撃の際に炎上している。上記の「平安京提要」では、町田本「洛中洛外図屏風」にも近衛殿が描かれていることから応仁の乱以降に再建されたとしているが、これには近衛室町の近衛殿と上立売新町の近衛殿桜御所の混同があるように思われる。渡辺悦子氏は「「御霊殿」―室町・戦国期近衛家の邸宅と女性たち」(「同志社大学歴史資料館館報」同志社大学歴史資料館 2005年刊)で15世紀後半以降の近衛家各邸宅の変遷について表を用いて明らかにしている。永和4年(1379)近衛道嗣が室町幕府第3代将軍義満に請われて糸桜を譲ったということが、道嗣の日記「愚管記」2月28日の条に記されている。これは近衛殿に伝わる有名な糸桜されているが、これが近衛室町あるいは別業の上立売新町のいずれにあったかは明らかでないようだ。後世になってこの糸桜から桜御所という名称になったのであろう。中古京師内外地図あるいは中昔京師地圖にも近衛殿が描かれている。特に中昔京師地圖では、毘沙門堂大路すなわち上立売通の南に「近衛殿 新光院殿 知恵光院 六条桜是ナリ」の表記が見える。 また天正10年(1582)6月2日の本能寺の変では、明智光秀が「近衛殿」の屋根から織田信忠の二条新造御所に火矢を放ったとある。二条新造御所は烏丸・新町・丸太町・下立売の各通に囲まれた範囲なので、最初の近衛殿のあった左京一条三坊十町から遠く離れた場所となる。この時代に近衛前久の邸宅が二条新造御所に隣接してあったと考えられている。そして天正19年(1591)豊臣秀吉の命を受けて内裏の北の地、すなわち現在の今出川邸に移っている。元和6~7年(1621~2)あるいは寛永元年(1624)作とされる京都図屏風にも禁中の北側に近衛殿が描かれている。なお慶応4年(1868)に作成された大成京細見繪圖を見ると、近衛室町の表記は失われているが、上立売新町の近衛殿桜御所の場所に「サクラノ御所」とあるのが分かる。この地に明治時代に入るまで近衛殿が残っていたのであろう。碓井小三郎が大正4年(1915)に発刊した「新修 京都叢書 第14巻 京都坊目誌 上京 乾」(光彩社 1968年刊)の近衛殿別業ノ址には下記の記述がある。
近衛殿別業ノ址 近衛殿表町北側にあり。世人桜の御所と
呼ぶ。垂枝の桜樹を植らる。後に皇宮地に移植す。
今に残れり。
また近衛殿表町には「維新後邸地畠地たりしが、明治28年以来工業会社の工場となる。」とある。この地は現在、同志社大学新町キャンパスとなっているが、末裔の近衛文麿が大正7年(1918)に建てた近衛家旧邸址の碑がある。またキャンパス内には、昭和34年(1959)建立の日本電池発祥地の碑もある。碑文によると、大正7年(1917)に日本電池株式会社がこの地で誕生している。もともと大正元年(1912)より生産してきた島津製作所の蓄電池工場を母体としている。本社は西大路に移った後も今出川工場として使われてきたが、昭和34年(1959)に同志社が買い取り、新町キャンパスとしている。上記の近衛殿別業ノ址の碑は日本電池株式会社が発足した時に建立され、日本電池発祥地の碑も同志社大学新町キャンパスに変わった時に建てられたことが分かる。
近衛家の祖となった近衛基実は、康治2年(1143)に忠通の四男として生まれている。父の忠通は三男を大治2年(1127)に早世で失ったため、弟の藤原頼長を猶子としていた。しかし基実が生まれた後、忠通は頼長との縁組を解消し、基実を後継者とした。久安6年(1150)元服し正五位下に叙位される。父と後白河天皇の引き立てで権中納言、権大納言を経て、保元2年(1157)には正二位・右大臣に叙任される。保元の乱においては忠通と共に後白河天皇に近侍して東三条殿へ移っている。この乱で崇徳上皇についた藤原頼長は負傷し、奈良に落ちる途中で死亡している。また頼長の子である師長、兼長、隆長、範長は配流となり、忠通と頼長の父である藤原忠実も罪名宣下を免れたが、洛北知足院に幽閉の身となった。この乱により忠実の所領は忠通に譲渡されたことで天皇家への没収は免れたが、摂関家の弱体化は確実に進み、やがて武家の時代が始まる。
基実は保元3年(1158)には16歳の若さで二条天皇の関白にまで栄進し、藤氏長者となる。平治2年(1160)左大臣、長寛3年(1165)六条天皇の摂政となる。しかし翌永万2年(1166)に僅か24歳で薨去する。嫡子の基通が幼いため、摂関の地位は父である基実の異母弟の松殿基房が中継ぎとして継承している。
嘉応2年(1170)基通は元服し正五位下に叙位される。さらに治承3年(1179)に起きた治承三年の政変により、後白河法皇の院政が停止され反平家の公卿が一掃される。基通は非参議右中将から内大臣・内覧・関白に任じられる。平清盛が没し源義仲が都に攻め上っても後白河法皇の側近として仕え、後鳥羽天皇の擁立にも貢献する。法住寺合戦では義仲によって全ての任を解かれるが、義仲が討たれた寿永3年(1184)に摂政への復帰を果たしている。しかし源義経の兄・源頼朝追討の院宣を法皇に出させることを仲介した張本人と見なされ、文治2年(1186)に全ての任を解かれ、篭居されるに至る。基通に代わり摂政となったのが九条兼実であった。兼実は久安5年(1149)は生まれで、基通の父である基実と同じ世代に属する。頼朝に征夷大将軍を宣下し南都復興事業を実施したが、後鳥羽天皇や上級貴族は厳格な兼実の姿勢に不満を抱き反兼実派が生まれてくる。そして建久7年(1196)11月の政変によって関白の地位を追われる。建久七年の政変で失脚した兼実は、その後再び政界に復帰することはなかった。
政変の後、反兼実派の土御門通親等によって、基通は再び関白に任じられる。建久9年(1198)には土御門天皇の践祚と共に摂政に任じられる。通親の死後には後鳥羽上皇の意向で九条良経が復権し、建仁2年(1202)に摂政を辞任する。元久3年(1206)には、急死した良経に代わり嫡子の家実が摂政となる。
承久3年(1221)後鳥羽上皇らの挙兵に反対し、家実は関白を解任されるが、承久の乱終結後は仲恭天皇廃位に伴って九条道家が失脚したことにより、再び摂政に補任される。同年12月20日には太政大臣に就任し、後堀河天皇の元服加冠の役を務める。貞応2年(1223)後高倉院が崩御すると朝廷の主導者となる。家実は鎌倉幕府協調路線をとり復古的な政治を敷き、財政難には任官希望者からの任料に(成功)よって対処するが、かえって綱紀弛緩を招く。安貞2年(1228)西園寺公経と組んだ九条道家の工作により関白を辞任させられる。家実の長男の家通が、貞応3年(1224)に痢病を患い21歳の若さで薨御したため、近衛家は三男の兼経が継いでいる。また四男として生まれた兼平が23年にわたり摂関を務め、後の鷹司家の祖となる。以上が家祖・近衛基実から基通、家実の3代の歴史である。
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