京都御苑 近衛邸跡 その2
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 近衛邸では、平安時代に造営された近衛室町の近衛殿から、上立売新町の近衛殿桜御所、本能寺の変の戦場となった二条新造御所の北隣の近衛前久邸、そして現在の京都御苑東北角にある今出川・近衛邸跡に至る変遷と近衛基実から始まる初期の近衛家について書いてみた。この項では室町時代から戦国時代に至る近衛家の当主達について見てみる。
近衛家第14代当主となった近衛尚通は文明4年(1472)に近衛政家の子として生まれている。文明14年(1482)に元服、当時の室町幕府第9代将軍・足利義尚より偏諱を受けて尚通と名乗る。延徳2年(1490)に右大臣に就任、以降は関白に二度就く。その後永正11年(1514)に太政大臣、同16年(1519)に准三宮となる。天文2年(1533)に出家し、大証と号する。天文13年(1544)薨去。尚通の子の中で稙家が近衛家を継ぎ、その他の子は一乗院門跡、聖護院門跡、大覚寺門跡そして宝鏡寺門跡に入寺している。また久我通言の養子となり久我家を継いだ久我晴通も輩出している。
第15代の稙家は文亀2年(1502)に嫡男として生まれている。永正11年(1514)に元服、第10代将軍・足利義稙より偏諱の授与を受けて稙家と名乗る。大永5年(1525)関白に就任し藤原氏長者となる。享禄元年(1528)に左大臣、天文2年(1533)には関白と氏長者を辞任している。天文3年(1534)妹の慶寿院が足利義晴に嫁いだのを契機として急速に足利将軍家との関係を深める。天文5年(1536)には関白、氏長者に再任し、天文6年(1537)太政大臣となる。天文10年(1542)、同16年(1547)、同18年(1549)の3度にわたって足利義晴が争乱に巻き込まれて近江国坂本に脱出すると、稙家も随行して同地に下っている。将軍の縁戚であった稙家は武家伝奏に替わって、朝廷のみならず諸大名からの要望を将軍に取次役目を行うようになり、近衛家を仲介して朝廷・摂関家・将軍家の連携関係は強化されることになった。永禄9年(1566)7月10日に薨去。
稙家の跡を継いで第16代当主となったのは、天文5年(1536)稙家の嫡男として生まれた前久である。天文9年(1540年)に元服、叔母の慶寿院の夫でもある室町幕府第12代将軍足利義晴から一字を賜り晴嗣を名乗る。天文10年(1541)従三位に叙せられる。天文16年(1547)内大臣、天文22年(1553)右大臣、天文23年(1554)に関白左大臣となり、藤氏長者に就任する。天文24年(1555)従一位に昇叙し、足利家からの偏諱を捨てて名を前嗣と改める。
永禄2年(1559)越後国の長尾景虎(上杉謙信)が上洛した際、前嗣は景虎と血書の起請文を交わして盟約を結んでいる。さらに関白の職にありながら永禄3年(1560)に越後に下向、更に翌4年(1561)景虎の関東平定を助けるために上野や下総に赴いている。この頃、名を前嗣から前久に改めている。しかし謙信の武田・北条二正面作戦により関東平定が思うように進まなくなると、永禄5年(1562)8月に前久は失意の内に帰洛している。
永禄8年(1565)5月19日、第13代将軍足利義輝が三好三人衆によって殺害されるという事件が起こる。その後の将軍継嗣問題で、足利義栄は三好三人衆を、そして足利義昭は朝倉氏を後ろ盾に候補者となったが、いずれの支援者も上洛を果たす余裕がなかった。朝廷は2人の候補者に対して将軍就任要件を出した。永禄11年(1568)2月、要件に応じた足利義栄に対して将軍宣下が行われた。義昭は織田信長の支援を受けて同年9月に上洛を果たしたため、朝廷は義栄を解任し義昭を新将軍とした。関白近衛前久は義栄将軍宣下に関係したとされ、朝廷から追放された。前久は石山本願寺を頼って逃亡したことで、関白を解任されている。天正元年(1573)義昭が信長によって京都を追放されると、前久も石山本願寺から離脱し、同3年(1575)には信長の奏上により帰洛を許されている。
信長との親交を深めた前久は、天正3年(1575)9月に信長の要請により、自ら九州に下向し大友氏・伊東氏・相良氏・島津氏の和議を図り、天正5年(1577)に京都に戻っている。続いて信長と本願寺の調停に乗り出し、天正8年(1580)には顕如を石山本願寺から退去させることに成功している。しかし天正10年(1582)に起こった本能寺の変の直後に落飾する。明智光秀が前久の館から織田信忠の守る二条新造御所を攻め懸けたという讒言により、織田信孝や羽柴秀吉から危害を与えられると感じ、徳川家康を頼って浜松に下る。この邸は織田信長から天正7年(1579)頃に贈られたもので、たまたま二条新造御所に隣接していたということであろう。
もともと二条新造御所の地、すなわち左京三条三坊十町には陽明門院禎子内親王(後朱雀天皇皇后)の御所があったと考えられている。この御所は承暦4年(1080)に焼失している。その後しばらく大きな邸宅が建たなかったが、大治2年(1127)の大火の後に中納言藤原家成がこの町の一部に邸宅を営んだことが分かっている。鎌倉時代に入り、後鳥羽上皇の仙洞御所が設けられ、押小路殿、三条坊門烏丸殿、押小路烏丸泉殿、三条坊門泉殿、押小路烏丸御所、三条坊門殿という名称で呼ばれた。この御所に上皇が渡御したのは承元3年(1209)のことであった。泉殿とはこの御所の泉が有名であったためである。
承久の乱(1221)の後、押小路殿は藤原道家の所有となり、その子の関白左大臣二条良実へと受け継がれている。これ以降、押小路殿は二条殿と呼ばれるようになり、関白師忠、関白道平、関白良基と相伝され二条家の本邸として室町時代まで存続していた。邸内には龍躍池があり、その池を「御池」と呼んだのが、今日の大通り「御池通」の名前の由来となっている。この苑池はその景観の美しさに気に入った織田信長は、天正4年(1576)4月に洛中の居館をこの場所に築くこと決め、天正5年(1577)より、ここに移り住んだ。天正7年(1579)正親町天皇の皇太子誠仁親王に献上している。
明智軍が近衛家から二条新造御所に攻めかかったということより、本能寺の変の黒幕は近衛前久では?ということも云われているようだ。しかし武装した兵士が開門を命じた際に公卿の前久が拒むことができただろうか。その後の顛末を考えると、前久を良く思わない人物が流言を讒言として使ったと考えるほうが自然であろう。この近衛家はもと羽柴秀吉が信長から賜ったもので、天正7年(1579)頃に近衛前久の邸宅となったとされている。二条新造御所の西側の南北2町(左京三条三坊七・八町)は、本能寺の変の夜に織田信忠が宿泊していた妙覚寺があった。もし二条新造御所に隣接する地に近衛家があったとすれば、北側の九町、東側の十五町、そして南側の十一町のいずれかにあったと思われる。全て小路を隔てていたので二条新造御所までの距離は同じ条件となる。二条新造御所が南庭に龍躍池があり、寝殿造の影響が残っていたならば、敷地の北側に主殿があったと想像される。この主殿を攻撃するならば北側の左京三条三坊九町から行うのが効果的と思う。ただし近衛前久邸がどこに存在したかを明らかにする資料は今回見つけることができなかったのであくまでも個人的な推測に過ぎない。
ともかく家康の執り成しによって、同11年(1583)には京都に戻ることを許されるが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの際にも、奈良に身を寄せ両者の間に和議が成立したことを見届けてから帰洛している。慶長17年(1612)5月8日薨去。享年77。
このような近衛前久の生涯を谷口研語氏は流浪の戦国貴族と称している。公卿は洛中に鎮座するものという印象が強いが、氏の著書「流浪の戦国貴族 近衛前久 天下統一に翻弄された人生」(中央公論社 1994年刊)には、応仁の乱(1467~77)以降、足利幕府の権威が著しく失墜し、経済的に困窮し、あるいは京において身の危険を感じた公卿達が保有する領国に下る、「在国」が珍しいことではなかったようだ。本来、幕府が権勢を維持していれば、公卿にとって領地の維持は京にあっても問題は無かったが、幕府がほとんど実権を持たない状況になると、自らの経済的基盤を維持するために、領国に赴き直接経営を行わざるを得なかった。またそれ以外にも都風の文化を好む大名の城下に下り、貴族文化を指南することで生き延びた例も多く見られる。この場合、西は周防山口、東は美濃革手あるいは駿河府中、北は越前一乗谷が有名である。
本来廷臣である公卿は朝廷に奉仕するため京に居住することが義務とされたが、幕府だけでなく朝廷も力を失い、廷臣を維持するだけの経済力が失ってしまった。そのため廷臣達の在国化を阻止するのではなく、黙認しなければ自立できない状況になっていた。例えば後土御門天皇は譲位の意向を持ちながら践祚を行うことも出来ず、明応9年(1500)の薨去まで皇位にあった。これは朝廷に譲位の儀式を行う費用がない上、足利将軍家にも拒否されたためである。さらに葬儀を行うことも出来ず40日も遺骸が御所に置かれたままであったとされている。次代の後柏原天皇は経済的な逼迫から践祚を行ったものの、即位の礼が行われたのは践祚後22年経った永正18年(1521)のことであった。大永6年(1526)に践祚した後奈良天皇も即位の礼を行ったのは天文5年(1535)であった。つまり後土御門天皇から後奈良天皇 までの三代は譲位を行うことなく崩御とともに践祚が行われてきた。
しかし正親町天皇の世になると、天下の形勢が統一に向いだす。永禄11年(1568)織田信長は、正親町天皇を警衛するという大義名分により京都を制圧している。信長の財政政策や自身の援助により皇室の経済的な危機はいくらか緩和されるようになる。一方で天皇の権威を利用し、敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させるようになった。近衛前久が越後に下向したのは、永禄3年(1560)9月18日である。これは同年正月27日に正親町天皇の遅れていた即位の礼を取り行った後のことである。関白として不在が許されないものであった。この儀式を終えて、9月18日に天皇に御暇乞いを行い翌19日には越後に発った。しかし頼みとした上杉氏が関東を平定できない現実を知り、永禄5年(1562)8月に前久は帰洛している。天下の形勢を決定するために下向を行った前久にとって、それを果たせなかった上杉氏に対して強い失望を感じたことと思われる。それだからこそ、永禄11年(1568)9月の織田信長の上洛は、前久にとって望んでいた強い大名の後ろ盾を持った将軍の出現であった。しかし一方で、足利義輝を殺害した三好三人衆と松永久秀を不問とし、足利義栄の将軍宣下行ったことから、義輝の同母弟にあたる義昭との間の確執を解消する事は出来なかった。そのため天下統一の最も近い場所に居た織田信長と組むためには、天正3年(1575)まで待たねばならず、さらに7年の流浪を重ねることとなった。
第17代当主近衛信尹は近衛前久の子として永禄8年(1565)に生まれている。天正5年(1577)に元服。加冠の役を務めた織田信長より一字を賜り信基と名乗る。天正8年(1580)に内大臣、同13年(1585年)に左大臣となる。同年には関白の位をめぐり二条昭実と互いに主張し合う関白相論が起こり、最終的には信尹でも昭実でもない豊臣秀吉に関白を譲ることとなった。藤原氏以外から関白に就任した事例が無いため、秀吉が近衛前久の猶子となり、関白に就任することとなった。これには上記の本能寺の変での近衛邸の一件もあり、前久としても秀吉との関係修復のために必要な処置でもあった。天正13年(1585)7月11日、秀吉は関白宣下を受け二条昭実と近衛信尹そして菊亭晴季に従一位が授けられている。さらに近衛家に1000石、他の摂家に500石の加増があった。官歴では天正19年(1591)2月11日に豊臣秀次は正二位に昇叙し、権大納言に転任したとしている。しかし実際には同年11月に決まった。そして12月4日に空位であった内大臣に転任、さらに同月28日に内大臣のまま、関白、内覧、豊臣氏長者宣下が成されている。関白を秀次に譲ったことにより秀吉は太閤の称号を手に入れている。信尹は翌20年(1592)正月27日に自ら左大臣を辞している。
文禄3年(1594)信尹は後陽成天皇の勅勘を蒙り、薩摩の坊津に3年間配流となっている。これは秀吉が秀次を介して天皇に信尹の罪状を示したもので、「太閤様御一書之覚」として残されている。具体的な罪状はないが天皇を軽んじたということが記されている。谷口氏は「流浪の戦国貴族 近衛前久」で、秀吉が将軍と成らず朝廷に於いて関白となったことにより、その政権の正当性を明確にするためにおこなったものとしている。つまり摂関制を五摂家に任せるのではなく自らが行うという宣言であった。ある意味で徳川時代の禁中並公家諸法度に関連するものであるだろう。徳川氏は征夷大将軍を譲位に据えるために禁中並公家諸法度を作っているが、秀吉は自らの政権を強化するために摂関職の定義を国政において定義しようと考えたのではないか?
秀吉のスケープゴートなった信尹ではあったが、島津義久から厚遇を受けるなど配流の生活は悠々としたものであったようだ。恐らく父の前久同様、京での暮らしより気に入っていたのかもしれない。慶長元年(1596)勅許が下り京都に戻る。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいて島津義弘は西軍に属したため、敗戦後には薩摩への撤退を余儀なくされている。信尹は島津家譜代の家臣達を庇護するなど島津家に対して便宜を図っている。これらも天正3年(1575)に前久が九州に下向し和議を図って以来の結び付きが活かされている。また、戦後の島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康から所領安堵確約を取り付けている。慶長6年(1601)左大臣に復職。そして慶長10年(1605)には念願の関白となる。慶長19年(1614)に薨去。享年50。信尹には庶子しかいなかったので、後陽成天皇が第4皇子で信尹の異腹の妹・中和門院前子の産んだ二宮を後継に選び、近衛信尋を名乗り第18代当主を継がせている。
この記事へのコメントはありません。