京都御苑 堺町御門 その4
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その4 2010年1月17日訪問
京都御苑 堺町御門 その2でも触れたように、真木和泉の入京が6月8日で、同月16日に東山の翠紅館で行われた会で、「五事献策」の基となる考えを披露したとされている。そして6月末頃から天皇の攘夷親征を望む声が高まって行き、7月初旬には朝廷内で攘夷親征論が三条実美等の急進派公家によって唱えられている。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)によると、真木は6月29日に学習院出仕を命じられ、同日に「五事献策」を国事参政・豊岡随資に提出している。これを鷹司輔熙、三条実美、烏丸光徳、大徳寺公純等が閲覧している。そして7月24日に鷹司関白から天皇に進献されたため、乙夜の御覧に入りたる建白書とも呼ばれている。これらの動きは、「孝明天皇紀」の7月5日の条の下記の記述と一致する。
攘夷の実効未だ挙らす因て車駕親征の可否を右大臣藤原斎敬二條前関白藤原忠煕近衛内大臣藤原公純徳大寺等に諮訽す是日斎敬等上書して所見を奉対す
二条右大臣、近衛父子そして徳大寺内大臣は連署し、「此上ハ急々四方之諸侯外親共召寄實事之衆議被聞食候上御決心御治定相願度候」と親征に対して慎重な姿勢を表明している。この書に中川宮が署名しなかったのは意見の相違があったからである。つまり宮にとって御親征は可であり、その際には宮が先鋒を務めると考えていたことが、近衛忠煕から越前藩士・村田巳三郎へ伝えられ「続再夢紀事」(「日本史籍協会叢書 続再夢紀事2」(東京大学出版会 1921年発行 1988年覆刻))の7月4日の条に記されている。さらに13日には以下のように記されている。
過日内見に入れし御親征云々の意見書ハ去る七夕に関白の許へ指出しゝに関白も至極同意 主上にも大に御嘉納にて速に政事に関する輩を召出され殊の外御逆鱗在らせられたり夫か為め此頃ハ暴論の輩も大に閉塞し頓に日頃の勢焔を挫折せり
このように主上の意思により御親征は退けられたものの、完全に無くなってはいなかった。原口清氏の「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)収蔵)によると7月中旬以降、長州藩及び真木和泉等による鷹司関白その他の要路への働きかけが増し、朝廷内でも急進派公家が呼応し攘夷親征の実現は再び浮上してきた。5月10日に攘夷を決行したものの、6月1日からの2日間の交戦で陸戦隊の上陸を許し砲台を破壊された長州にとって、長州一藩での攘夷継続には困難があった。そのためにも攘夷親征の実行あるいは周辺隣藩の攘夷への参加が必要であった。このような事情があって、7月中旬から長州藩の攘夷親征への働きがけが増したのであった。そして8月4日の朝議で長州藩の一方的な申し出に従った小倉藩処分が内決している。小倉藩主従四位下大膳大夫小笠原忠幹の官位ならびに所領十五万石は没収、跡目相続人の小笠原忠忱には僅か三万石の領地を与えるという苛酷な処分内容であった。これは長州藩の対岸にあって攘夷に加わらなかったことに対する見せしめの意味を含んでいる。
在京の四藩すなわち8月5日に建春門外で行われた練兵に会津藩とともに加わった因幡(池田慶徳)、阿波(蜂須賀茂韶世子)、米沢(上杉斉憲)、備前(池田茂政前藩主)は内乱が近いと感じ取り、それを回避すべく協議し意見書を提出している。「中山忠能日記」(「日本史籍協会叢書 中山忠能日記1」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻))の8月6日の条には、監察使・正親町公菫に加え国事寄人の錦小路頼徳を勅使として長州に下向させ小倉藩の処分を実行させることが記されている。もし小倉藩が従わない場合は長州藩の望みに任せて誅伐を加えてよしとすることが朝議で内定したとしている。また同月11日の条には下記の様に記されている。
錦小路追加 勅使可被下御内定之処中川宮可被下御沙汰昨日御内意之処中川宮返答於御親征御動ハ尤先鉾鋒カ可奉仕也 小倉追討使計之義ハ御理之旨被申依之 朝議紛々公菫朝臣へ御返事未決由之
京都御苑 堺町御門 その2でも記したように、8月9日に中川宮が西国鎮撫使を固辞した場面である。御内意とは孝明天皇の思召しによる任命であることを意味する。この事情については、「贈従一位池田慶徳公御伝記2」(鳥取県立博物館 1988年刊)に記されている。これによると8月8日に鷹司関白から上記の在京四侯に呼び出しがあり、蜂須賀茂韶と上杉斉憲が鷹司邸に行っている。そして関白より中川宮に西国鎮撫の内勅が下された事情の説明があった。関白がその前日の7日に参内したところ、主上は攘夷親征を直ぐに行わねばならない切迫した状況にないので、御親征を決める訳にはいかない。そのため中川宮を鎮撫将軍に任じ、四国九州で攘夷を行わせ、併せて小倉藩の処置も宮に命じたいとのことであった。最初の主上のお話しでは、御一策あるので御親征は採用しないということのみであったが、それでは急進派公家が納得しないので、関白は御一策の具体的内容を求めている。そして御一策が西国鎮撫使任命の件であることが分かった。 これによっても中川宮を西国鎮撫使として小倉藩に送ることが、主上の発案であったことが分かるのと同時に、御親征と西国鎮撫使は二者択一であると捉えていたことも明らかになった。そのため、9日の中川宮の固辞によって、主上は御親征を回避できない状況に追い込まれた考えたのであろう。また中川宮も西国鎮撫使辞退の代案として石清水八幡への行幸の実施を翌10日に意見書として提出している。中川宮も攘夷親征と西国鎮撫使は択一の選択であると考えていた節が見受けられる。
中川宮に鎮撫使を辞退された孝明天皇は、12日に右大臣・二条斉敬を以て池田慶徳に密命を与えている。つまり慶徳が宮中に召され、親征行幸の可否については在京四候の協議の上具申するようにとする勅書が示された。四侯の協議が決定するまで公家方から干渉が無いよう配慮があった。主上は武臣の意見を採用することを理由に御親征を回避しようと考えていたようだ。
しかし13日になると、中川宮が提案した石清水行幸が大和行幸に代わり、さらに西国鎮撫使には中川宮親王が任じられている。攘夷親征とは別に長州藩救済のために西国鎮撫使が必要であったことが明らかになった。つまり攘夷親征と西国鎮撫使は二者択一ではなく、急進派公家とその支援者達にとっては、どちらも必要であった。佐々木克氏の「幕末政治と薩摩藩」(吉川弘文館 2004年刊)によれば、真木和泉は10日から翌11日にかけて烏丸光徳、三条実美、広幡忠礼、飛鳥井雅典、野宮定功、長谷信篤と面会したことが記されている。佐々木氏はこの人々に注目し、石清水行幸から大和行幸に変更された背景には、真木和泉の考えとそれを実行した人々を推定している。
上記の示し合わせにもかかわらず、池田慶徳に対して意見を具申する指示もなかった。そのため慶徳等は天皇への直接の言上を願い出て、夕方小御所での拝謁が許されている。慶徳等の意見は、親征行幸は時期尚早であり、自らが関東に下向し将軍に攘夷実行を説得させること、そしてそれが適わなかった場合でも横浜鎖港に尽力するという内容であった。列座の諸卿の中より親征延引の発言も無く、そのまま拝謁は終わっている。そのため、この提案によっても大和への行幸親征及び中川宮の西国鎮撫使に変更はなく、慶徳等は関白より関東下向の許可を与える勅諚を得たのみであった。つまり主上は御親征に対して明確な拒否を行わなかったため、親征派多数で大和行幸と西国鎮撫使が決まっている。単に急進派公家の恫喝が通ったということでなく、主上の個人的な気持ちではなく天皇としての役割を優先したとも考える事もできる。そのためこれを偽勅と云う事はできない。
いづれにしても主上は御親征とともに中川宮の西国鎮撫使を認めたため、中川宮としても主上の決定した鎮撫使就任を拒否することができなくなっている。真木和泉は13日の公布の前にあたる11日に中川宮に対して質問状を送っている。攘夷の先鋒ならば行うが西国鎮撫使派は断るならば、御親征御先鋒としてならば西国御下向かと聞いている。そして近々、三条実美が朝議を以て決するとある。これにより中川宮も主上同様苦境に直面する。なお西国鎮撫使に有栖川熾仁親王が任じられたのは8月16日で同19日には罷めている。
以上のことより、公武一和派あるいは穏健派と目される人々は、中川宮、近衛忠煕・忠房父子、二条斉敬と一条忠香、徳大寺公純、そして京都守護職の会津藩と薩摩藩および在京四候の池田慶徳(因幡)、蜂須賀茂韶(阿波)、上杉斉憲(米沢)、池田茂政(備前)等であった。つまり長州藩は急進派公家への支援とともに各藩に対して大々的な周旋を行ったものの功を奏さなかったと見てよいだろう。なお左大臣の一条忠香は京都御苑 一条邸跡でも記したように、文久3年(1863)3月晦日で日記が途絶え、同年夏頃から政治活動を行えない状況になっていた。そして11月7日に逝去しているので、八月十八日の政変における活動は見られない。また関白・鷹司輔熙は急進派公家と対決しなければならない立場にあったためか積極的に自ら意見を表すことできず、さらには自らの力で政局を導くこともできなかった。ただし、8月18日の当日に「長州兵三萬人あり、而して此の激怒を与ふるは、得策にあらず」という発言があり、変の後も三条実美の帰京を図るなど、長州あるいは急進派に近い位置にあったとも考えられる。
さて、京都御苑 堺町御門 その2で、薩摩藩士高崎正風が会津藩の秋山悌次郎等に提携を持ち掛けたのは、大和行幸の発表のあった8月13日と記した。それでは薩摩藩はいつからクーデター計画に着手していたのか?原口清氏の「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)収蔵)では、政変に至る文久3年(1863)の政局の推移が主となり、8月13日以降の動きについては、あまり詳しい説明を行っていない。 これに対して佐々木氏は上記の「幕末政治と薩摩藩」で、在京薩摩藩士は10日頃から各藩の情報を収集し、政変の準備を行っていたと推測している。彼等は国許から新たな指示が届く頃と考えていたようだ。この時期、京にいた薩摩藩士は内田仲之助、高崎正風、奈良原幸五郎、上田郡六、井上弥八郎等であり、小松帯刀、中山中左衛門、大久保利通等は不在であった。西郷吉之助は前年の寺田屋事件の際に藩主の命令に従わなかった等で不興をかい、沖永良部島に流されているので、この政変に係わりを持つ事はできなかった。
佐々木氏あるいは芳即正氏は八月十八日の政変は島津久光の指示によって起こされたものと見ている。特に芳即正氏は「文久3年八月十八日の政変と島津久光」(明治維新史学会報 2001年10月1日)で、島津久光が鹿児島から京都に戻る奈良原幸五郎に以下の事を言い含めたと推測している。
①薩摩藩兵力少数の当時、有力な協力藩を見つけて共同行動をとること。
②宮中工作は中川宮および近衛家に頼むこと。
③両藩の協力で宮門をかため、尊攘派(公家・武家)の入門を許さぬこと。
④その上で、大和行幸の中止の勅命を出してもらい、参政・寄人などを廃止し、尊攘派の官位を停止して宮廷政治から追放、公武合体派でかためること。
奈良原が鹿児島に向かうため京を発ったのが7月12日のことであった。久光から指令を受けて再び京に戻ったのが8月4日であったが、僅か20日余で京の情勢、特に中川宮の西国鎮撫使任命問題は大きく変わっていた。佐々木は情勢の変化に注目し久光が奈良原に与えた指示は、中川宮を通じて天皇に直接はたらきかけ、三条等攘夷強硬論の公家を朝議から排除することではなかったかと推測している。佐々木氏、芳氏の説はいずれも鹿児島にいる島津久光の指示のもとで、京においての政変が準備されたという内容である。
ただし原口氏は、新たな論文「幕末政局の一考察 ―文久・元治期について―」(2004年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)収蔵)において、私見であると断りながらも「在京の高崎佐太郎・奈良原幸五郎らは、久光の指令を受けることなく、否、指令を待つ時間的余裕もなく、彼らの独自の判断で政変に参加したものである」としている。また、町田明広氏は「文久三年中央政局における薩摩藩の動向についてー八月十八日政変を中心にー」(日本史研究 2007年刊)で、奈良原幸五郎に島津久光が伝えた「趣意」とは政変の実行ではなく、薩英戦争の和睦談判だと考えている。そのため久光が奈良原に託した7月23日付の近衛父子への答書草案は、“和睦談判”が成功すれば久光名代が兵力を伴って上京するという意味になる。つまり、佐々木氏や芳氏の説では“政変”が成功した暁には上京するという意味になり、説明がつかないとしている。この政変が誰の指令によって実行されたかを明らかにする史料は見つかっていない。そのため町田氏も原口説と同様、高崎正風らの在京薩摩藩士達が自律的に行動したと推測している。
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