白峯神宮
白峯神宮(しらみねじんぐう) 2010年1月17日訪問
上立売通から今出川通に向かい油小路通を南に下っていく途中の東側に本阿弥光悦京屋敷跡の石碑が建っている。この地にあった本阿弥家の屋敷について、本阿弥光悦京屋敷跡、その2、その3の3回に亘って、本阿弥家の成り立ちから室町時代末期から安土桃山時代にかけての町衆の暮らしと法華宗門徒の繁栄、天文法難を生じた経緯、さらには江戸初期の洛中絵図において本阿弥家邸宅の所在を確認してきた。町人である本阿弥家の邸宅が幕府の作成した洛中絵図に記されていることより、幕府が本阿弥家に対して特別の扱い行ってきたことが分る。これは公家屋敷、大名屋敷、寺院を除けば、彫金を家職としてきた後藤家と医者、検校衆だけである。単に京の有力な町衆ということならば、この時代には茶屋四郎次郎家や角倉了以家もあった。しかしそれらが一切触れられずに後藤家と本阿弥家が描かれているのには、金座を司る家と武士の象徴でもある刀剣を扱う家ということが重視された結果であろうか。何れにしても幕府の出先機関である京都所司代は、本阿弥家の存在を町衆以上に当道座をまとめる惣検校と共に管理しなければならない対象と見ていたことは確かである。
「洛中絵図」(宮内庁書陵部 1969年刊)や「洛中絵図 寛永後万治前」(臨川書店 1979年刊)で確認できるように報恩寺から今出川通にかけて本阿弥と記述された箇所は7つある。「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)で確認すると、現在の地名の北舟橋町に一ヶ所、堀之上町に一ヶ所、水落町に三ヶ所そして実相院町に二ヶ所あったことが分る。北舟橋町は現在の堀川通の左右に広がる町であり、南舟橋町と西船橋町、そして橋之上町などの地名が周辺に残る。いずれも舟橋に関係する町名である。「角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻」(角川書店 1982年刊)によれば、「山州名跡志」の公家の舟橋家の邸宅が堀川の西にあったことから堀川今出川の端を舟橋と呼ぶようになったという説と「府地誌」の舟を並べて橋としたことに因む説があるようだ。
堀之上町は上立売通の南北町、水落町は堀之上町の東南に接する町で油小路通の東西町。実相院町は水落町の南に接する町でやはり油小路通の東西町になる。上記の碑は油小路通の東側に建てられているが、本阿弥家の邸宅は油小路通を挟んで東西に軒を並べていたことが分る。
さて白峯神宮に入る前に、小川や百々橋、その2、その3、その4で書き残したことについて纏めてみる。「京都市の地名」は、堀之上町も水落町も小川に因んで名付けられた町名と推測している。堀之上町は小川が北から東へ流路を変える地点にあり、水落町も北からの小川の流路が東へ曲折する際にこの地で河流に落差があったためと考えている。これに対して実相院町は、かつてこの地に天台宗の門跡寺院・実相院が一時期あったことによる。実相院は寛喜元年(1229)静基僧正を開基として愛宕郡大門町大字上野(現在の京都市北区紫野上野町)に創建されたとしている。実相院が門跡寺院であるのは静基僧正が近衛基通の孫にあたるためである。この洛中五辻通小川に移ったのがいつのことであるか分らないが、応仁年間(1467~69)には実相院の門跡が岩倉(現在の左京区岩倉)に移転したと考えられている。「京都市の地名」でも上京区実相院町の条では「応永年中」(1394~1428)とあるが、左京区実相院の条では「応仁年間」と不整合な記述となっている。実相院の公式HPでも、「ここ岩倉に移ったのは応仁の乱の戦火を逃れるためであったと言われています。」とあるので、応仁年間が正しいと思われる。
「応仁記」には、この地で応仁の乱の緒戦が行われたことが下記のように記されている。
花ノ御所四足ノ前ハ一色左京大夫カ亭ナレ、実相院ト御倉ノ正実カ在所ヲ此方ヨリ陣取ナハ赤松伊豆守カ在所ト讃岐守カ館ヲ一ツニ持続ケナハ左京大夫カ在所西陣ト隔ヨモタマリ候
一色左京大夫とは丹後国・伊勢半国の守護・一色義直のことである。義直は若狭の守護・武田信賢と争っていたことから西軍方山名宗全についていた。たまたま義直の邸宅が将軍・足利義政の花の御所の西側にあったため一色邸が、花の御所を抑えた東軍の次の攻撃対象となった。
応仁元年(1467)5月26日早朝、東軍の武田信賢は小川西岸の実相院を、畠山政長の側近成身院光宣は東岸の正実坊を占拠した。これ足掛かりとして一色邸を奇襲、義直は反撃出来ず宗全の屋敷へ逃亡している。この緒戦の上京の戦いに於いて東軍は花の御所から山名勢の拠点である山名宗全邸の間の地域を手に入れ、防御ラインを花の御所の西側・小川辺りに敷くことに成功している。
上記、御倉ノ正実、正実坊とは土倉業を営む当時随一の富豪のことであり、幕府の財政を時には支えることもあった。元々は定泉坊、定光坊、禅住坊などと同じく、その名からも分るように山門の僧侶であった。鎌倉から南北朝にかけては山門の強い支配下にあったが、室町時代にはその権勢も衰退し幕府に管理される土倉へと変化していた。なお土倉とは、金銭を貸し付ける高利貸が主たる業務であるが、権利書や貴重品そして金銭などをも保管する今日の倉庫と銀行の2つの役割も果たしていた。その所在は幕府にも近い相国寺鎮守に接する地とされているので、恐らく花の御所の近くあり、上京の戦いで東軍の占拠対象になったのであろう。正実坊が務めていた公方御倉には、幕府の印章、鎧、太刀、衣類から幕府の財産や諸国から貢納物なども管理していたので、幕府の政庁である花の御所と共に経済的に幕府を支える御倉をも抑えなければ、幕府を東軍に引き込んだことにはならなかったのでもある。
応仁の乱の頃を描いたとされる「中昔京師地図」を見ると、小川の上に「実相寺殿」と描かれているので小川の西側が実相院、東岸が正実坊であったのかもしれない。また当時の飛鳥井殿は実相寺殿の西側に位置していたことも分る。
さて室町時代中期の小川辺りで起きた出来事は以上とし、ここからは本題である白峯神宮について書いていく。社号に神宮とある神社は天皇や皇室の祖先神を祭神とするものが一般的である。明治以降第二次世界大戦終結までは、新たに神宮号を使用するためには勅許が必要であった。戦後になり国家管理が無くなったものの、神社本庁傘下の神社で神宮号を名乗るには、特別の由緒を持つものに限られているようだ。勿論、単立神社ならば制約もないから神宮号の使用も可能だが、果たして一般の人々に社号が受け入れられるかということだろう。
白峯神宮は崇徳天皇を祭神として慶応4年(1868)9月6日に創建されている。これは明治政府発足直後のことであり、未だ戊辰戦争も終結していない混乱期の最中である。最初は白峯宮と名付けられ、明治6年(1873)に官幣中社、昭和15年(1940)に官幣大社に昇格した際、白峯神宮に改称している。なお官幣中社に列格された明治6年(1873)末に淳仁天皇の皇霊を淡路島の御陵より遷奉合祀している。そのため現在の祭神は崇徳天皇と淳仁天皇のニ柱となっている。戦後になり近代社格制度が廃止されると、白峯神宮は神社本庁によって「別表に掲げる神社」(別表神社)に分類され、現在に至っている。
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