文書と写真・地図による「記憶」の再現

貴船神社 本宮 その2

貴船神社 本宮(きぶねじんじゃ ほんみや)その2 2010年9月18日訪問

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貴船神社 本宮 南参道

貴船神社 本宮では、三浦俊介氏の著書「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)を参考に貴船神社の歴史の前半部分に光を当ててみた。洛北の山間部に祀られていた貴船明神の社祠が平安京の治水と祈雨止雨という重要な役割を担う神社に移行した過程に今一つ疑問が残る。それでも白髭社や百太夫社を祀る白髭族が創建した地域社が後退し、賀茂社の支配下に組み込まれることによって国家が祭祀する神社が前面に出てきたとする三浦氏の説明は、ある程度の説得力を持つことを認めなければならないだろう。
この項では平安時代における貴船神社の歴史を見ていく。先ず、平安時代の始まりの藤原伊勢人に関する説話に貴船神社が出てくる。延暦15年(796)、藤原南家の出身で造東寺長官を務めた藤原伊勢人が観音菩薩を祀る寺を建てたいと考えていた。「鞍馬蓋寺縁起」によれば、伊勢人は「皇城之北。崔嵬の峰あり。」という霊夢のお告げに従い、鞍馬山に分け入ると白髪の老翁と出会う。老翁は「斯地殊勝第一の霊地也。宜土木の功を課して。伽藍を草建せんとす。」と告げ、「我是此地主。貴布禰也。」と名乗る。同様の記述は平安時代末期に成立したと考えられている「今昔物語集」巻11第35話 藤原伊勢人始建鞍馬寺語にも見られる。藤原伊勢人が貴船明神に出会いこの地に鞍馬寺を建てたということことは、寺院創建以前から貴船明神に対する信仰が既に存在していたことを示している。

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貴船神社 本宮 桂の巨樹

さらに「日本紀略」弘仁9年(818)5月辛卯(8日)の条に「山城国愛宕郡貴布祢神為大社」、同年6月癸酉(21日)の条には「山城国愛宕郡貴布祢神奉授従五位下。」という記述が見られる。貴船神社は大社に列せられ、従五位下の神階が授けられている。國學院大學の神社資料データベースによれば、同9年に2回「祈雨」、翌10年には「祈雨」1度「止霖雨」が2度が為されている。天長6年(829)8月甲戌(27日)の条には、「奉幣貴布祢社。丹生河上雨師社。但雨師神副以白毛御馬。為停霖雨也」と白馬が献上されている。以後、日照りには黒馬、長雨には白馬または赤馬を献じ祈雨・止雨を祈願してきたことが分かる。「続日本後紀」承和10年(843)12月癸亥(9日)の条には「奉授従五位下貴布祢神正五位下」と従五位下から正五位下へ神階が奉授される。さらに16年後の貞観元年(859)正月甲申(27日)には「京畿七道諸神進階及新叙。惣二百六十七社。」として正五位上が貴船神社に叙せられたことが「日本三代実録」で確認することができる。さらに貞観15年(873)5月己丑(26日)には正四位下に昇格している。これが六国史終了時点(仁和3年(887)8月)の神階である。山城国だけでも松尾大社、平野神社、賀茂別雷神社、賀茂御祖神社の4社が既に正一位に達している。貴船神社が正一位の神階を受けるのは保延6年(1140)と平安時代末期のことであったが、既に応和3年(963)には奉幣16社の中に貴布禰の名前が見え、長暦3年(1039)には梅宮大社、吉田神社、八坂神社、北野天満宮とともに二十二社の下社八社に選定されている。

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貴船神社 本宮 拝殿手前の手水舎

貴船神社で祈雨祈晴が行われたのは貴船川が賀茂川の水源であり平安京遷都以来、治水の神と崇敬されてきたためである。平安時代後期から鎌倉時代初期の公家で歌人の藤原俊成に以下の歌がある。

   五月雨は岩波洗ふ貴船川
             河社とは是にぞありける  (玄玉集)

河社とは、川のほとりに社を建てて神楽を奉納するという意味があるようだが、貴船神社は一時的な河社ではなく恒久的な河社であるという認識になっていたことが分かる。

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貴船神社 本宮 御神水
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貴船神社 本宮 御神水の謂れ

さらに「日本歴史地名体系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)は、賀茂川の上流に位置する貴船神社が上賀茂神社の第二摂社となったのは寛仁元年(1017)以前であり、鴨県主家の御阿礼神に結びついた結果であると記している。御阿礼神事とは賀茂別雷神社で行われる古来の神迎えの神事で、現在は葵祭(5月15日)の3日前(5月12日)の夜に行われる。秘儀として一般に公開されることはない。なお「京都市の地名」が摂社となったと掲げる寛仁元年の2月1日に賀茂上下社の末社である片岡社と河合社と共に貴船神社が正二位の神階を得ている。この年に賀茂社への行幸があったことで片岡社と河合社に神階が与えられたと考えられると、貴布禰社は賀茂社の2つの摂社と同格に扱われたことが分かる。このことから既にこの時点で貴布禰社は賀茂社の摂社になっていたと考えるのが妥当ということらしい。貴船神社年表でも時期を明確にせずに「のちに上賀茂神社の第二摂社となる」という記述がある。

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貴船神社 本宮 水占
水面におみくじを浮かべると文字がゆっくりと浮かび上がる

永承元年(1046)貴船川の出水のため社殿を流損し、天喜3年(1055)には元の地は奥宮とし現在地に本宮を創建している。その際の社地移転は朝議で諮られており、現在の本宮に社殿が新築された際の奉幣使が賀茂社にも派遣されている。このことからこの時期には既に賀茂社の支配下にあったことが推測される。また嘉承元年(1106)上賀茂神社が炎上した際には、貴船神社に上賀茂神社の御神体が遷したという記録が以下のように にある。百錬抄 第五 堀河(嘉承)にある。

○四月十三日。賀茂別雷社焼亡。御正躰奉貴布禰社

三浦氏は「神話文学の展開」で、古文書に出てくる貴布禰社は貴船神社ではなく賀茂別雷社の境内摂社である場合が多いことを指摘し、この場合も現在の新宮神社のことであると考えている。

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貴船神社 本宮 拝殿
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貴船神社 本宮 拝殿

もともと平安京遷都以前、貴布禰の神は山城国造の神であった。そして賀茂の神は鴨県主の神とはっきりと区別がなされていた。雄略天皇の初期、鴨県主の先祖にあたる賀茂氏は大和国葛城から岡田(相楽郡岡田 現在も岡田鴨神社がある)に秦氏と共に移住している。その後乙訓を経て賀茂川を北上し現在の上賀茂神社のある地に進出したのは、雄略天皇から清寧天皇の頃、すなわち5世紀後半であったと考えられる。つまり先住の山城国造に比べれば鴨県主は新来の勢力であった。その鴨県主が祀った上賀茂神社の御祭神は賀茂別雷大神である。「山城国風土記」逸文では、玉依日売が賀茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、生まれたのが賀茂別雷命である。兄の玉依日古の子孫である鴨県主の一族がこれを奉斎したのが賀茂社の始まりとされている。この丹塗矢は乙訓神社の火雷神あるいは大山咋神とも謂われるが、川上から流れてきたのならば賀茂川に注ぐ貴船川の傍らに祀られる貴布禰の神となる。「日本の神々 神社と聖地 5山城近江」(白水社 200年刊)も「賀茂の神官たちがかつて貴布禰神社を川上社と称していた」ことも併せて「丹塗矢は貴布禰の奥社から流れてきた」と記している。また上賀茂神社の宮司であった座田司氏氏は貴布禰奥社と賀茂上社を奥宮と里宮の関係と捉え、いづれの御祭神も賀茂別雷神と見ていたようだ。さらに座田氏は両社の確執について「賀茂社祭神考」(神道史学会 1972年刊)で下記のように述べている。

係争が数百年に亘る未曾有の長期間に亘って反覆繰り返されたといふのは、単なる土地の所有権といふが如き、物質的方面のもの原因からではなくて、そこに祖先以来の根強い信仰の伝統が存した為めであったと思はれる。

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貴船神社 本宮 板立馬

これはあくまでも、自らの丹塗矢伝説に基づいた賀茂社側からの言い分である。上賀茂神社の社伝によれば天武天皇6年(677)に本殿が造営されている。かつての本殿の背後には扉があり、祭事の際には後方の扉を開放して祭祀を行ったとされている。つまり神殿ではなく遙拝殿として役割を果たしていたようだ。この後方の扉は廃された後にも扉の形状を模した板が取り付けられていたが、天正の造営の際に現在の神殿の形になったとされている。現在の本殿は真北よりやや西寄りの方角を背にして南面している。この方位は神山の山頂にあたり、さらに北方5キロ先には貴船山がある。本殿と貴船山を結ぶ線上には神山山頂とその南麓の神原の貴布禰新宮と現在の御生所のある丸山が位置すると「日本の神々」は記しているが、実際に地図上にプロットしてみると、貴船山・神山・上賀茂神社本殿はほぼ南北線上に位置する。つまり本殿のやや西にズレた傾きとは関係なく真北方向に神山、貴船山が並ぶ。そして神山山頂の磐座、次は神原さらに丸山という順番で賀茂上社に近い場所に貴布禰の神の降臨地を移しながら御阿礼神事を行ってきたと「日本の神々」は考えている。そのため賀茂上社の本殿は、本来神山を通して貴船山あるいは貴布禰奥社を拝するために造られた建物と考えることができる。

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貴船神社 本宮 末社の祖霊社 社人、氏子、崇敬者の祖先の御霊を祀る

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