貴船神社 本宮
貴船神社 本宮(きぶねじんじゃ ほんみや) 2010年9月18日訪問
叡山電鉄鞍馬線の貴船駅から、蛍岩、梅宮社、白石社そして烏帽子岩を一つずつ確認しながら京都府道361号上黒田貴船線を貴船神社を目指して歩いて来た。貴船川にかかる奥ノ院橋を越えると左手に貴船神社の二の鳥居と總本社 貴船神社の社号標が見えてくる。貴船神社の境内は貴船川の西岸の高台にあり、この二の鳥居から朱色の春日灯籠が並ぶ石段を上った先に拝殿、本殿が建てられている。
貴船神社の公式HPの由緒によれば、本宮の御祭神は晴雨を司る高龗神(たかおかみのかみ)。奥宮は闇龗神(くらおかみのかみ)、結社は磐長姫命(いわながひめのみこと)を祀っている。高龗神は「古事記」では淤加美神、「日本書紀」では龗神と表記する神。神産みにおいて伊邪那岐神が火の神である迦具土神の首を十拳剣で斬られた際に、その剣の柄に集まった血が伊邪那岐神の手の指の股から洩れ出てできたのが淤加美神と闇御津羽神の二神とされている。この時、十拳剣の先端から飛び散った血が岩石に落ちて生まれたのが石折神、根折神、石筒之男神の三柱の神であり、甕速日神、樋速日神、建御雷之男神の三神も十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生まれている。
上記の貴船神社の由緒では御祭神について次のように記している。
高龗神・闇龗神について、
社記には「呼び名は違っても同じ神なり」と記されている。
降雨・止雨を司る龍神であり、
雲を呼び、雨を降らせ、陽を招き、降った雨を地中に蓄えさせて、
それを少しずつ適量に湧き出させる働きを司る神である。
その上で、「一説に高龗は「山上の龍神」、闇龗は「谷底暗闇の龍神といわれる」としている。元より龗は龍の古語であるので、高龗神や闇龗神が龍神と見做されていても不思議ではないだろう。
貴船神社の創建の歴史については明らかではないことが多い。元々現在の奥宮の地に創建された貴船神社は、永承元年(1046)に生じた貴船川の出水により社殿を失うなど、何度も大きな痛手を被ってきている。特にこの洪水によって創建に関する多くの歴史的史料等を失ったと思われる。創建の歴史が明確でない原因は単純ではないかもしれないが、この貴船川の洪水によるところはかなり大きかったはずである。被災9年後の天喜3年(1055)には奥宮から離れた現在の高台に本宮が創建されている。貴船川の河畔に川と寄り添うように造られた奥宮とは異なり、川面から石段を上った先に広がる台地に新たな社殿を築いている。この空間構成の変更は水害から得た教訓によるものであろう。このように新たな地に本宮を移した貴船神社はその後も旧地となる奥宮に社を残し、本宮と奥宮の2つの社地を維持してきた。
貴船神社創建にまつわるものとしては、末社 梶取社でも取り上げたような遡源伝説が残されている。第18代反正天皇の御代に初代神武天皇の皇母・玉依姫命が浪速の津に御出現になり黄色い船で淀川を遡り貴船に至ったという伝説である。貴船神社の公式HP内に掲載されている地図中では、以下のように説明している。
貴船神社創建伝説によると、約1,600年前(第18代反正天皇の御代)、初代神武天皇の皇母・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が浪速の津(現在の大阪湾)に御出現になり、『われの留まるところに水源の神を大事にお祀りすれば、人々の願いには福運を与えるであろう』と告げられ、水源を求めて自ら黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼってこられた。
反正天皇は5世紀前半に実在したと考えられている天皇である。その御世は5年(反正天皇元年1月2日~同5年1月23日)とされているので、西暦400年を越えた辺りの伝説が貴船神社創建の由緒として伝わっていることになる。ただし、黄色い船に乗船して貴船の地に至った玉依姫命が、現在の貴船神社の御祭神に祀られていない点は注意すべきであろう。一の鳥居かたわらに祀られている末社 梶取社の御祭神も宇賀魂命となっているが、以前は遡及伝説の影響が残っていたようだ。京都出身の郷土史研究家の竹村俊則は「昭和京都名所圖會 洛北」(駸々堂出版 1982年刊)で次のように記している。
社伝によれば、玉依姫は浪花より舟にてさかのぼって来られたとき、ここで楫をとりはずし、貴船に向かわれたという。当社はそのとき、水手として奉仕してきた楫師を祀ったものといわれるが、現在は宇賀魂命を祀り、万福の楫がうまくとれるようにとの信仰がある。
これより、かつての梶取社は「水手として奉仕してきた楫師」を祀っていたことが分かる。このように遡及伝説が神社創建に直接的に結びつかない点は、貴船神社が複雑な歴史を抱えていることを意味しているのかもしれない。三浦俊介氏は「神話文学の展開 貴船神話研究序説」(思文閣出版 2019年刊)で以下のような貴船神社の歴史を提起している。
今で言う「鞍馬・貴船」の地に山人たちの崇敬を受けていた岩石や清水の聖地があった。そこに、やがて渡来系白髭族が白髭社や百太夫社を祀りながら瀬戸内海を通り、大阪湾から遡上して上賀茂・貴船へと到達し、定住した。平安時代に入り、大和国丹生川上社の「罔象女神」を勧請し、平安時代の洪水を経て「高龗神」奉斎へと進展した。「舌」を名乗っていた一族は、その後、強大なカモ族が祀る賀茂別雷神社との確執の中で、自らの存在意義を高めるためにも、神社神話を荘厳昇華させる必要があった。そのために、おそらく氏族内で伝承されていたであろう「白髭遡源神話」を基に、賀茂別雷神社の遡源神話を援用して「黄船遡源神話」を作り出した。その一方で「貴布禰大明神」の降臨神話をも整備していったものと思われる。
三浦氏は同書で貴船の神が祀られたのは奈良時代以前に遡ると推測している。その時点では荘厳な社殿などはなく、西側の山=貴船山を神体山とし清浄な湧水と巨石群を神聖なものと崇めていたのであろう。また、この頃貴船という地名が既にあったかも定かでないようだ。奈良時代以前の日本には黄という色名がなかったと考えている。日本古来の色名は黒青赤白の4色であり、黄帝や皇帝などを象徴する黄色は後に中国から輸入された色彩概念でもあったからである。猿田彦命を祀る白髭社や道祖神とされる百太夫を祀る百太夫社を信奉する渡来人かどうかは確定できないまでも、奈良時代以前に舟を使い内陸に分け入り、この地に達していた人々が存在していたことは今に伝わる遡源伝説からも推測できる。
平安時代に入ると貴船の状況は一変する。山間部のささやかな地域神であった貴船の社祠が平安京全体の治水や祈雨止雨を担うようになっていく。大和国丹生川上社から罔象女神が勧請されたのはこの時期の出来事だったと思われる。罔象女神とは「古事記」では弥都波能売神(みづはのめのかみ)、「日本書紀」では罔象女神(みつはのめのかみ)と表記される女神で、淤加美神とともに代表的な水の神である。罔象女神は高龗神と同じく神産みの際に生まれている。迦具土神を産んだ伊邪那美命がした尿から、和久産巣日神(わくむすび)とともに生まれたとされている。奈良県吉野郡にある丹生川上神社は貴船神社と共に二十二社 下八社のひとつである。古来より朝野の祈止雨祈願が行われてきた雨を司る水神である。つまり本来の御祭神であったとする白髭神は地主神の猿田彦神となり、白石社、白髭社あるいは梶取社(=鑰取社)に遷される。そして新たに改装された貴船神社には、平安京の官吏が派遣されたと三浦氏は推測している。
後半の賀茂社との確執については項を改めて書くのでここではあまり触れないこととする。貴船神社が賀茂社の影響下に置かれるようになったのは少なくとも寛仁元年(1017)より以前のこととされている。引用文中の「平安時代の洪水を経て」とは永承元年(1046)貴船川の出水のことである。この洪水によって貴船神社は現在の奥宮の地にあった社殿を失っている。そして上記の通り、現在地に本宮を創建したのは天喜3年(1055)のことである。これによって貴船神社の中心は奥宮から本宮に移されている。この頃の貴船神社は既に賀茂社の支配下にあったと見るのが正しいようだ。またこの再建時より丹生川上社から勧請した罔象女神から高龗神奉斎へと変化があったようだ。罔象女神も高龗神も誕生は神産みの時であったが、罔象女神は伊邪那美命は尿より、高龗神=淤加美神は迦具土神の血よりとやや誕生の方法が異なるものの、いずれも水を司る神であった。
三浦氏は貴船神社の社人であった舌氏が賀茂社との確執の中で自らの存在価値を高めるために黄船遡源神話と貴布禰大明神降臨神話を纏めたとしている。ただし舌氏が最初に貴船に分け入ってきた白髭族の末裔であるかは明らかにしていない。それには竜蛇神の祭祀や狐の重視が白髭族の祭祀の在り方と一致するか、あるいは貴船神社と伏見稲荷大社との関係や白髭族と秦氏の関連についての解明がまだ必要だとしている。なお舌氏については貴船神社のFacebookに、貴船神社と社人・舌家 ~牛鬼伝説~に現われてくる。
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