東福寺 塔頭
東福寺 塔頭 (とうふくじ たっちゅう) 2008/05/10訪問
東福寺には25の塔頭と1つの特別由緒寺院がある。他の五山と比較すれば公開されている寺院の数も多いような気がする。
北門周辺
万寿寺は九条通の北側に位置する唯一の塔頭。
白河上皇が皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、永長元年(1096)下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂がはじまり。
正嘉年間(1257~9)に十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)により、浄土教を修する寺となったが、東福寺の聖一国師と親しくその教えを受けるに及び禅宗となし、弘長元年(1261)に万寿禅寺と改めたと伝わる。往時の規模については明らかではない。
室町時代 当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(1434)の大火に罹災し、寺運は次第に衰微していった。東福寺の塔頭三聖寺が開山湛照と同じところから、天正年間(1573~92)に現在の地に移転した。三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873)に万寿寺に合併された。そして明治19年(1886)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、愛染堂は東福寺本坊境内に、仁王門は東福寺北門を入った北側に移築された。いずれも三聖寺の建物であった。
本尊阿弥陀坐像やニ天門安置の金剛力士ニ体は京都国立博物館に寄託されている。昭和10年(1935)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。
鐘楼
悪七兵衛景清女墓
藤原実頼墓
東福寺の毘沙門天とよばれ、本堂に毘沙門天立像(藤原)を安置する。
この像は九条道家の光明峰寺建立以前のものといわれ、その後、久しく東福寺仏殿の天井内にひそかに安置されていたが、江戸時代に海蔵院の独秀令岱和尚によって発見され、勝林院の本尊として祀られた。
他に大日如来坐像(鎌倉)・聖観音立像(鎌倉)・不動明王立像(鎌倉)等があり、いずれも東福寺建立以前、この付近にあった廃寺の遺仏を移したものと伝える。
東福寺境内北端に位置する。
開山は足利宗家第4代当主足利泰氏の子である勅諡仏印禅師。早くに出家し、天台、真言を学び宋に渡り修行、帰国後、東福寺第10世住持となる。豊後に万寿寺を建立し元亨2年(1322)78才で没する。
もともと光明蔵院と言われていたが、文永11年(1234)に東福寺13塔頭の盛光院と改める。その後文化3年(1265)の災禍に遇い文化5年4月に宝勝院本堂を移築して庫裏とする。本堂は昭和5年に新築。
鎌倉末期の仏教史家であり、また五山文学の先駆者として知られる虎関師錬の退隠所。近世初頭は近衛家の香華院となり、近衛前久(竜山公)・信尹(三貘院)の墓もあった。後水尾天皇第二皇女昭子内親王が近衛尚嗣の室となり、薨後に葬られたため、墓は宮内庁の管理するところとなり、近衛家一族の墓は大徳寺へ移された。
霊源院は観応年間(1350~1)後醍醐天皇の皇子、龍泉和尚によって天護庵と号し創建された。龍泉和尚没後の応永年間(1394~1427)在先希譲和尚により霊源院に改称された。
天正15年(1582年)本能寺の変において、三河の武将水野忠重を追手から匿ったことより、水野家とのは親密な関係が築かれた。豊臣秀吉主催の北野花見の際には、水野家の茶屋に屏風を貸すなどの便宜を図る一方、水野家も厚く恩義を感じ、忠重以降断絶となる5代の間、代々の分骨墓を霊源院に建立し、霊源院への報恩を家訓とし、寄進を続けた。
性海霊見が貞和2年(1346)に創建した東福寺の塔頭の一つであるが、応仁の乱に罹災し、慶長4年(1599)11世住持安国寺恵瓊によって再興された。
現在の書院は旧本堂といわれ、堂内の一部を利用してつくられた四畳半台目の茶室「昨夢軒」は、豊臣秀吉の没後、石田三成や小早川秀秋・宇喜田秀家および恵瓊が会合し、関ケ原の戦いの謀議をおこなったと伝わる。
また鳥羽伏見の戦では長州藩士の屯所になったことより、戦死者のうち四十八名が退耕庵に葬られた。
庭園
南北ニ庭からなり、南庭は美しい杉苔におおわれた枯山水とし、北庭は池泉観賞式の庭となっている。慶長再興時の作庭と考えられる。長い間荒廃していたのを昭和47年(1972)に修復された。
小町玉章地蔵
室町時代中期の文安年間(1444-1448)に僧文渓元作がその師琴江令薫(東福寺第129世住持)を推して開山として創建した山内塔頭。定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝わる。他の四明王は散逸したにも拘らず、本尊のみが残ったのは、火除けの像として古来より崇敬されたからだといわれている。
モルガン雪墓
■09 霊雲院 日下門を出て臥雲橋を渡り月下門の前を通り過ぎ、左に曲がると突き当りが霊雲院となる。
霊雲院は明徳元年(1390)に、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した高僧 岐陽方秀が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていた。
湘雪守沅は肥後熊本の人で、時の藩主細川忠利(細川ガラシャの子)と親交があった。湘雪が第7世住職として霊雲院へ移られる時に忠利は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と辞退した。そこで細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈した。
西郷隆盛と僧月照が密議を交わした寺、日露戦争中のロシア人捕虜収容所という歴史も持っている。古来無双の名石とたたえられ、かつては林羅山や石川丈山・冷泉為景・芝山持豊等、多くの文人・歌人が詠じ、歌を賦し、あるいは文を寄せたものであった。
書院
観月亭
太閤豊臣秀吉の北野大茶会当時のものを移築した桃山様式の茶室。1階が四畳半席、2階が五畳半席の珍しい二階建て。月を邪魔する雲を眼下に臥せさして、月見を催す趣向から「観月亭」と称する。
庭園 九山八海の庭
江戸時代中期に作庭され、長い間荒廃していたものを、重森三玲が昭和45年(1970)に復元した。須弥山を中心に八つの山脈と八つの海がとりまくという仏教の世界観を遺愛石と白砂の波紋で表現している。
遺愛石
高さ三尺 横四尺余りの青味をおびた小石で、須弥台の上に設けた四角い石船の中に据えられている。
第7世住持の湘雪守沅は肥後熊本の人で、藩主細川忠利と親交があった。湘雪和尚が住職として霊雲院へ移られる時に細川家は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と申し出た。そこで細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈した。
臥雲の庭
重森三玲作庭。寺号霊雲を主題にした枯山水庭園。渓谷に流れる川の流れと、山腹に湧く雲を白砂や鞍馬砂で表現する。
永仁2年(1294)東福寺第4世住持、白雲慧暁が開創した塔頭。はじめ西陣白雲村にあったが、応仁の乱後、東福寺に移されたと伝わる。
清巌正徹墓
大永年間(1521~28)彭叔守仙が営んだ退隠所であったが、明治4年(1871)に明暗寺(普化宗)を継いだことから一に明暗寺とも称する。
明暗寺とは虚無僧の始祖と仰ぐ虚竹禅師朗庵を開山とする虚無僧縁の寺であり、これに因んで今では尺八根本道場と仰がれ、毎年秋には尺八を愛好する人が全国から集まり、盛んな献奏大会をおこなうならわしになっている。
応永27年(1420)関白九条満家が創建。天文15年(1546)関白九条稙通によって重修されたが、慶長の火災後、天保2年(1645)左大臣九条道房が旧殿を寄せて再興したものが現在の建物。
後京極摂政良経墓
法性寺殿藤原忠通墓
九条稙通墓
本堂周辺
東福寺の第3世住持無関普門(大明国師)の住居址でその墓所でもある。
大明国師は、建暦2年(1212)に信濃国に生まれた。はじめ長楽寺の栄朝に学び、次いで上京し、聖一国師のもとに5年間参禅する。建長3年(1251)宋に渡り、12年の修行の後帰朝し、再び聖一国師の下で、その法を嗣いだ。
一条実経の招きに応じ、弘安4年(1281)東福寺の第3世住持となり、亀山上皇の南禅寺創建に当たり、正応4年(1291)開山として招かれた。しかし病を得て東福寺に帰山し、同年80歳で没した。その後、元享3年(1323)に後醍醐天皇より大明国師の諡号を賜る。
方丈
現存する最古の方丈建築。足利義満の筆になる「竜吟庵」としるした堅額を掲げる。書院造りに寝殿造り風の名残を多分に加えている。
開山堂
像を安置した壇下は半地下壕とし、その中に国師の墓石とする石造無縫塔(鎌倉)および国師の遺骨を納めた銅製骨蔵器(重文・鎌倉)や巨大な石櫃(重文・鎌倉)が安置されている。
庭園
方丈を囲む東西南の3つから成り、いずれも枯山水の庭で重森三玲の作庭。
嘉慶元年(1387)島津氏久が、剛中玄柔(東福寺第54世住持)を開山として建立した島津家の菩提寺。即宗院は氏久の法名「齢岳立久即宗院」に因る。
山内成就院の南にあったが、永禄12年(1569)の火災の後、慶長18年(1613)に島津義久により現在の地で再興された。
清水寺の勤王僧 月照上人が安政4年(1857)東福寺の霊雲院より採薪亭に移り住み、ここで五十日間、玉体安穏王政復古を祈った。西郷隆盛もまたここに来て密かに討幕の謀議を行ったと伝わる。
慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦の際は、薩摩兵士の屯営となり、寺の背後の山頂より幕府軍に向かって砲撃を加えた。山頂にはこのときに戦死した薩摩藩士の名を記した石碑五基および西郷隆盛の筆になる「東征戦亡之碑」が建つ。
庭園
東福寺中第一の名園であったが、明治以降、衰微によって久しく荒廃していた。昭和52年(1977)に発掘調査が行われ修理復元された。室町時代後期の作庭。都林泉名勝図会にも掲載されている。
自然居士墓
採薪亭址
最勝金剛院は久安6年(1150)摂政藤原忠通の室宗子が法性寺の東方に建立した法性寺中最大の寺院で、「東は山科境、南は稲荷の還坂の南谷、西は鴨河原、北は貞信公の墓所山」という広大な寺域を占めていたといわれる。
法性寺は鎌倉初期には衰退しており、東福寺は嘉禎2年(1235)より建長7年(1255)にかけて摂政九条道家が、その法性寺跡地に創建したものである。その後の最勝金剛院は東福寺に吸収され、その塔頭となったが、室町期には消滅してしまう。現在の最勝金剛院は、摂家九条家一族の墓の管理と法性寺復興を願い、昭和46年(1971)に旧地付近の現在の地に再興され、改めて東福寺の特別由緒寺院となったものです。中央の朱塗りの八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代11人の墓がある。東福寺境内で唯一、一般墓地も含めて墓の見られる場所。
中門周辺
天得院は正平年間(1346~70)無夢一清によって開創、玉渓慧格を請して開山した道場。東福寺五塔頭のひとつであったが、寺勢は衰退していった。大機慧雄禅師によって一度は再興されたが、東福寺の住持であり南禅寺の住持にもなった文英清韓が、慶長19年(1614)豊臣秀頼に請われて方広寺の鐘銘(国家安康君臣豊楽)を撰文したことから、南禅寺から追放され、その菴であった天得院は打ち壊された。現在に残る堂宇は天明9年(1789)に再建されたものであり、明治元年(1868)に山内の塔頭本成寺を合併して再興された。
書院前庭はやや荒廃しているが、東西にのびた矩形の地割に石組みを配し、美しい苔によって一面に覆われた文英清韓長老の頃の作庭と言われる枯山水の庭。昭和43年(1968)中根金作によって一部補修が行われた。
■18 芬陀院 芬陀院は元亨年間(1321~1324年)に時の関白一条内経が東福寺開山・聖一国師の法孫にあたる定山祖禅を開山として創建した。以後、一条家の菩提寺とされている。
元禄4年(1691)に堂宇を焼失したが、関白一条兼輝により再建された。しかし宝暦5年(1755)の火災により再び堂宇を失うも、桃園天皇の皇后恭礼門院の御所の一部が下賜され再興された。その後、明治32年(1899)昭憲皇太后から御内帑金を賜り改築したものが現在の芬陀院の建物である。
庭園
書院南庭は寛政・応仁(1460~1468)頃の雪舟等楊禅師作によるものと伝承されている。
面積は約120坪、中央に亀島、左に鶴島、その奥にツツジやサザンカの刈込みを配した蓬莱池庭式の枯山水庭園で、室町時代の特徴とする北宗絵画の形式を多分に採り入れている。 久しく荒廃していたが、昭和十四年重森三玲により修理復元され、併せて書院東部の一隅に鶴亀の枯山水庭園を作った。
茶席図南亭は一条昭良(恵観公)好みの茶室といわれ、露地には昭良愛好の曲玉の手水鉢と扇屋形石灯籠を置く。
文永年間(1264~75)南山士雲によって創建された山内塔頭。都林泉名勝図会(「双鵝石」・「獅子石」と称する奇岩は現存しない)に紹介されるように林泉の美を以って知られたが、現在は荒廃している。 南山士雲墓は竹薮の生い茂る方丈背後の奥深い墓地の北にある。泉涌寺の開山塔の中国風なのに対し、これは純日本風の無縫塔である。
付近には江戸後期の儒医吉益東洞・南涯父子墓および中西深斎・鷹山父子墓や兵学家の柏淵石門の墓等がある。
南門周辺
正応3年(1290)東福寺第5世山叟慧雲住持の開創した山内塔頭。現在の地より西南、字正覚にあったのに因んで寺名とした。
筆塚
文化年間(1804~18)廃筆の労を謝するため、塚を築き、筆供養をおこなったのが起こりと伝え、今も毎年十一月ニ十四日には筆供養が盛大におこなわれる。
茅舎句碑
書院前庭にある、俳人川端茅舎の句碑
明徳2年(1391)金山明昶の開創による塔頭。
庭園 波心の庭
昭和14年(1939)重森三玲の作庭。面積は約380坪、方丈前にひらけた池泉式の枯山水。
州浜型の枯池に三尊石組みを配し、背後にサツキやツツジを雲紋の狩り込みとし、雲の上に茶亭羅月庵の窓と壁と障子を含めた大円形の月が昇る姿をかたどっている。禅語の「雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リ」の句によるもので、これにちなんで「波心の庭」と名付けられた。
なお門内入り口付近を「雲嶺の庭」という。
愛用の筆記具、炎へ2万本 東福寺塔頭・正覚庵で供養
「筆の寺」として名高い東福寺塔頭・正覚庵で23日、恒例の筆供養が営まれた。全国から寄せられた筆や鉛筆など約2万本が護摩の炎に投じられ、参拝者が愛用した筆記用具に感謝の気持ちをささげた。