霊山墓地
霊山墓地(りょうぜんぼち) 2008年05月16日訪問
二寧坂の角の翠紅館の敷地にある京懐石の京大和を右手に見ながら、霊山を上る道を進むと、道の右側に5本の碑が車止めのように建っている。左側から見ていくと木戸孝充、勤皇志士、梅田雲浜、天誅組義士そして坂本龍馬の墓所への道標であることが分かる。 道路の反対側には緑色の大きな石碑が置かれ、維新の道と記されている。昔この写真を雑誌で見かけたときは、もう少し山の中の参道の脇に置かれた石碑と思っていたが、実際には高台寺の大きな駐車場の目と鼻の先にある。この碑を過ぎると参道の両側の樹木が次第に深くなり、昔得たイメージに近づいていく。
それにしてもこの維新の道はきつい。僅か300メートル程度と書かれているが、本当に長い坂を登った気分にさせる。この坂の上の左側に建つ霊山歴史館とともに明治100年にあたる昭和43年(1968)を機にして整備されたようだ。「燃えよ剣」の最初のテレビ放映が昭和41年(1966)、「竜馬がゆく」の大河ドラマはまさに昭和43年(1968)だったことを考えると、世間が幕末を意識し始めた時期と言っても良いだろう。
坂を登りきると右手に霊山歴史館、左手に霊山護国神社が現れる。霊山墓地の入口は霊山護国神社の境内にある。
霊山護国神社の歴史は、明治元年(1868)5月10日の2通の太政官布告より始まる。この布告で、「癸丑以来唱義精忠天下ニ魁シテ国事ニ斃レ候諸士及草莽之輩」のために「東山之佳域ニ祠宇ヲ設ケ」と、さらに「當春伏見戦争以来引続東征各地之討伐ニ於テ忠奮戦死候者」のために「東山ニ於テ新ニ一社ヲ御建立」することを定めている。癸丑とは嘉永6年(1853)6月のペリー来航を指し示しているので、それ以降戊辰戦争までの期間、国事のため殉難した者を祀るという意味である。この時期、江戸城は無血開城されたが関東には幕府軍が満ち溢れていた。彰義隊掃討のための上野戦争が5月15日に行われたことから、この太政官布告がその前夜に出されたことが分かる。ここから函館が陥落し戊辰戦争が完全に終結する明治2年(1869)5月18日での間にどれだけの人命が失われるかを考えると当時の新政府の緊迫感が強く感じられる。
太政官布告を受けて京都市内でも招魂祭が行われるようになる。明治元年(1868)7月に長州招魂社落成に際して遷座式が行われると、10月に筑後藩、11月に因幡藩などが行われた。招魂祭とともに、霊山に小祠の建設も行われる。7月に長州藩の招魂社が高台寺領に建てられ、明治2年(1869)3月に京都府招魂社、同年9月に土佐高知招魂社、明治3年(1870)に入ると3月に筑前福岡藩招魂社、6月に因幡鳥取藩招魂社、9月に肥後熊本藩招魂社が建てられている。
京都霊山護国神社の公式HPやWikipediaの項目を読んでも、先の太政官布告が創設の起因となっていることは記されているが、その後の経緯はよく分からない。当初社号を霊山官祭招魂社とし、社格は「官祭社」に列せられ国費で営繕されてきた。明治13年(1880)に建立された表忠碑の写真が京都北山アーカイブス(撮影鑑二)に残っている。この石碑は幕末維新を生き延びた三条実美が題字を書いたものであり、霊山墓地に現在も残る。しかし写真には護国神社の社らしきものは写っていない。昭和11年(1936)支那事変を契機として国難に殉じた京都府出身者の英霊を手厚く祀ろうという運動がおきると、霊山官祭招魂社造営委員会が組織される。境内を拡大し、現在に残る社殿もこの時に造営されている。 大村益次郎の献策により明治2年(1869)6月29日に東京招魂社が創建され、3588柱の合祀祭が同月に行われている。この東京招魂社は明治12年(1879)に靖国神社と改称される。東京に新たな招魂社が創設されたことによって、京都東山に大規模な招魂社の造営はなくなったということであろう。
上記のように京都で行われた招魂祭の祭主を務め、霊山における招魂社の建立に関係したのは、霊明社の三代村上都平であった。もともと上記のように京都護国神社は明治元年(1868)の太政官布告によって創設しているが、それ以前に霊山に祀られた坂本龍馬を始めてとする多くの志士たちの葬祭は霊明社によって行われた。今村あゆみ氏の「神葬祭から「招魂」へ」を参考にその経緯を見てみると、文化6年(1809)霊明社が神葬祭を行うために、初代村上日向都愷が正法寺山内の清林庵の地所を買い、霊明社を開いたことから始まる。都愷は江州彦根の出身で、京に出て主殿寮と呼ばれる天皇の入浴や乗物から殿舎・行幸の管理を行う役所の史生という下級職を務めている。もとより国学や神道への志が深く、諸国を巡り神道教授を行っている。都愷は神職者であっても亡くなると仏葬が行われていた当時の状況を憂い、神道吉田家から神葬祭免許を得て霊明社を創設している。
三代村上都平の時、大津遊学中に死去した長門津末藩の国学者・船越清蔵守愚を埋葬し、安政の大獄以降の国事殉難者を祀る招魂祭を文久2年(1862)12月24日に行っている。この祭祀には津和野藩士福羽美静らが中心となり長州藩から会津藩までの60名以上が列席している。この船越清蔵の埋葬と招魂祭が、後の招魂社そして靖国神社の元となったことは明らかである。
ちなみに津和野藩士福羽美静は国学者で八月十八日の政変で、七卿と共に西下し帰藩するが、明治新政府において微士神祇事務局権判事となり、藩主・亀井茲監とともに神祇制度確立に尽力している。美静は霊山での招魂祭とは別に、祇園社境内で三条実萬や徳川斉昭以下64柱の殉難者への私祭も行っている。この時の小社は一時、幕府からの嫌疑を避けるため福羽美静邸に移されたが、昭和6年(1931)に靖国神社に奉納され、現在では元宮として公開されている。靖国神社の公式HP内でも
国を守るために尊い生命を捧げられた方々の神霊を祀る靖国神社の前身となったことから、「元宮」と呼ばれています。
としていることからも靖国神社の源流はここにあることが分かる。
文久3年(1863)八月十八日の政変、元治元年(1864)6月15日に池田屋事件、そして同年7月19日に禁門の変が起こると、長州藩を中心として多くの志士を埋葬してきた霊明社にも幕府の取調べが及ぶ。霊明社にもこの頃から鳥羽伏見の戦までの資料は残されていないようで、どのように多くの勤皇の志士達が霊山に埋葬されてきたかは分からない。いずれにしても明治元年(1868)の太政官布告までの間に多くのことを霊明社が行ってきた。
そして中村武生先生が「歴史と地理な日々」で紹介しているように、今年が霊明社創設・文化6年(1809)から200年目となる。
さて霊山墓地に話を戻す。現在は京都霊山護国神社が管理する墓地で、正式な名称は旧霊山官修墳墓という。京都霊山護国神社の「神社の歴史」よると1356名の幕末維新の志士達が祀られている。 明治4年(1871)1月5日の太政官布告によって、境内地を除くすべての領地の上知が命じられている。この社寺領上知により霊明社の墓地の多くが国有化されたようだ。明治7年(1874)には戊辰戦争以来の戦死者墳墓に官費支給が内務省達で定められ、翌明治8年(1875)1月12日に出された太政官達により、霊明社は招魂社に祀られていた殉難志士は東京招魂社に合祀されることとなった。この合祀の後も、霊祠や招魂場をそのまま据え置くことがこの達には追記されている。
そして明治10年11月に京都府から霊明社に14坪余の境内を残し、その他全てを上知することが言い渡される。これを以って霊明社は志士たちの墓地も招魂社も失うこととなる。
霊山墓地に祀られている主だった人は、安政の大獄で獄死した小浜藩士・梅田雲浜、吉村虎太郎をはじめとする天誅組、池田屋事件で討ち死にした吉田稔麿、禁門の変の戦死した長州藩の久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎、来島又兵衛ら、そして近江屋で暗殺された坂本龍馬と中岡慎太郎や土佐藩士に暗殺された水戸の尊皇攘夷の志士・住谷寅之介。明治を待たずに病没した高杉晋作と明治以降に暗殺された大村益次郎、参議広沢真臣暗殺の疑いをかけられた河上彦斎、そして西南戦争前夜に斃れた木戸孝允と幾松。
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