智積院 その2
真言宗智山派総本山智積院(ちしゃくいん) その2 2008年05月16日訪問
東大路通から増田友也設計の智積院会館を右手に見ながら境内に入る。二本の柱に横木を渡した冠木門を潜り、拝観受付所を過ぎると正面に金堂が現れる。この金堂は宗祖弘法大師の生誕1200年記念事業として昭和50年(1975)に建設されたものである。もとの金堂は元禄14年(1701)智積院第10世専戒僧正が発願し、 5代将軍綱吉の生母である桂昌院より与えられた金千両を基に寄付を集め、宝永2年(1705)に建立されたものであった。しかし明治15年(1882)の火災により焼失している。
智積院で触れたように、複雑な歴史と思惑によって成立した智積院ではあるが、秀吉の残した2つの遺産―祥雲禅寺の遺品―を今も見ることが出来る。
第一は桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯一門が描いた大書院障壁画である。現在25面が残されており、その全てが国宝に指定されている。金堂の左手前に建てられた瓦屋根を頂いた収蔵庫には等伯の障壁画が保管されている。
特に桜楓図11面(楓図(http://www.salvastyle.org/menu_japanese/view.cgi?file=tohaku_maple00&picture=%95%96%90%7D%95%C7%93%5C%95t&person=%92%B7%92J%90%EC%93%99%94%8C&back=tohaku_maple : リンク先が無くなりました ) 桜図(http://www.salvastyle.org/menu_japanese/view.cgi?file=kyuzou_cherry00&picture=%8D%F7%90%7D%89%A6%93%5C%95t&person=%92%B7%92J%90%EC%8Bv%91%A0&back=tohaku_maple : リンク先が無くなりました ))は、私達が思い描く桃山時代のイメージをそのまま表現している。豪華絢爛でありながら躍動感にあふれている。まず画面から飛び出してくる巨木の表現は秀吉好みの大画様式であり、周りの情景など余計な説明は一切無視している。巨木の幹には重厚感とともに長い年月の経過を感じさせ、紅葉の葉や桜の花の繊細な描写は軽やかさとともにその命の儚さを思わせる。実に装飾的ではあるが様式美という安易なものに留まらない強靭な意志の力を感じる。幼くして亡くなった鶴松の菩提を祀るために、生命感と躍動感あふれる表現でこの障壁画を描き上げたこととなる。凄いものを見てしまったというのが率直な感想である。
収蔵庫を出て北に進むと中門があり、その先に平成10年(1995)に竣工した真新しい講堂が建つ。灌頂道場や各種研修の道場として使われているこの建物は、平成4年(1992)興教大師850年御遠忌記念事業として計画された。この講堂はかつて方丈と呼ばれており、徳川家康より寄贈された祥雲寺の法堂が基となっている。この祥雲寺の建物は、早くも天和2年(1682)に焼失している。上記の等伯の障壁画の大部分は助け出されたが、残った画面を継ぎ合わせたため、現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があると推定されている。
その後、幕府から東福門院の旧殿・対屋を与えられ、貞亨元年(1684)に再建されている。東大路通に面する総門も東福門院の旧殿の門をこの時に移築している。東福門院とは徳川秀忠の五女・和子であり、後に後水尾天皇の中宮となる。徳川家を天皇の外戚とするべく、皇子誕生を期待して宮中に送り込まれたと考えられているが、出生した2男5女のうち、2皇子はすべて早世している。後光明天皇を養子に迎え、実娘である明正天皇の後継者とするなど、朝廷と徳川家の双方の間を取り持つことに奔走する生涯であったともいえる。東福門院は延宝6年(1678)に没しているので、その後に智積院に下賜されたことが分かる。しかし再びこの建物も昭和22年(1947)に焼失している。当時国宝に指定されていた障壁画のうち16面もこの時に失っている。なお、新しい講堂が竣工する平成10年(1995)までの間、京都四条寺町の浄土宗の名刹・大雲院の本堂を譲渡してもらっていた。丁度、四条寺町から東山に移転し高島屋が建てられた時のことであれば、昭和48年(1973)のこととなる。現在は明王殿として金堂の南側に移築されている。
講堂に続いて大書院が建ち、その東側に庭園が広がる。この庭園は祥雲禅寺時代に原形が造られたと考えられていることからも秀吉が残した2つ目の遺産とも言える。東山から続く傾斜面に築山を造り、中国の盧山に見立てている。盧山は、中国の浄土教の開祖とされている慧遠が東林寺を建てた宗教的な聖地であり、陶淵明、李白や白居易ら多くの詩人に歌われる景勝の地でもある。特に三畳泉と呼ばれる落差150メートルを越す大きな滝がある。この庭にも築山の上部より池に注ぐ滝が造られている。
石塔が置かれた築山の前面には、寝殿造りの釣殿のように大書院の縁の下に入り込む池が掘られている。千利休好みの庭と呼ばれ、西日を受けて明るく華やかな雰囲気を醸し出している。現在は収蔵庫に保管されているが、かつては大書院に飾られていた長谷川等伯の障壁画とともに桃山時代に思いを馳せさせる庭となっている。この庭は智積院になってからは、第7世運敞僧正が修復したとされている。
庭は講堂の東面から始まる。松の植えられた島あるいは岬に、まず土橋が掛けられている。講堂が大書院につながる部分に、琵琶の撥の形をした大きな刈込みが現れる。そして二枚の石橋を過ぎるあたりから池は広くなり、大書院の縁の下へと潜り込む。そして、ここに強い水平線を持つ一文字手水鉢を置くことで庭へ意識を高めている。やがて石塔の置かれた位置で築山は最も高くなる。この築山のやや北側に滝が造られ、水際には縞模様の大きな立石が置かれている。また滝の上部には石橋が掛けられているように見える。このような石組みは、玉潤流の滝組と呼ばれ珍しいものとされているようだ。大書院の縁の下から池が現れ、石組みが造られようになる。池の幅が狭くなり、大書院の北東に宸殿が建てられ、その手前で庭は終わる。
寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には運敞僧正の修復後の姿が図会として残されている。
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