角屋 その3
角屋(すみや) その3 2008年05月18日訪問
最後に角屋の1階の座敷を見ていく。玄関を潜り、右手に曲がると入口の奥には右手の網代の間の庭が見える。この小さな坪庭が入口の暗さを救っている。この明るさに引かれて客は建物に上がっていく。角屋 その2で説明したように、客は建物に入ると壁に設けられた刀架けに刀を預けることとなる。そのまま真直ぐ進むと右手に28畳の網代の間が広がる。ここは表棟の1階の部分にあたると思われる。赤壁に大長枌網代組の天井で、棹縁は長さ4間の北山杉の丸太を使用している。床の地板は2間の松の大節木、柱は大木皮付が用いられている。 襖絵は長谷川等雲による「唐子の図」。部屋も暗く、全体も煤けているため絵の構成が判然しづらいものとなっている。等雲は長谷川等伯から100年後の長谷川派の画家という説明があった。この襖絵は網代の間の南側に設けられていることから、現在は展示コーナーとなっている南側の間とつなげて使用できるようだ。そのため床の間は北側に作られている。床柱は松の大木皮付、床板は松の大節木で仕上げられている。床の間の右手には、赤壁に突き刺さるように斜めに吊られた棚が目を引く。
床の間の左手には付書院があり、花頭窓からは縁側越に坪庭の明るさが、暗い網代の間に導き込まれている。この西側の縁側も網代天井に仕上げられていることから、座敷から縁側を経て坪庭へつながっていく様に作られていることが分る。
坪庭の中央には、この庭を支配するような存在感のある石燈籠がある。その手前には大きな自然石をそのまま加工した手水鉢が刈り込みの中に置かれている。この手水鉢の近くの軒には金属製の燈籠が吊るされており、縁側もこの部分は張り出されている。この先には厠があるのだろうか。この吊燈籠は入口からも良く見える位置に吊られているため、夜間は重要なアイストップとなっていただろう。また庭の建物に面する部分は竹穂垣で囲われているため、狭いながら変化に溢れた空間となっている。
坪庭を眺めながら建物の中を奥に進むと、大きな座敷と庭が現れる。この座敷は松の間といわれ、他の座敷とは異なり、電気照明や空調システムも完備した明るい近代的な座敷となっている。角屋 その1で触れたように、松の間は大正15年(1925)の火事の後に、再建しているため、昭和27年(1952)の重要文化財からも外されている。現在私達が感じる違和感は、昭和60年(1985)まで松の間は宴会に使用されていたことから生じているのだろう。確かにこの時期まで心地よく客を迎えるためには、それなりの近代設備が必要となる。43畳の大座敷・松の間は、庭にある臥龍松から名付けられている。この地を這うように庭に横たわる臥龍松を広間から眺めるため、多くの文人、画人等がここで饗宴を催し、俳諧、詩歌、絵画を残している。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には島原の図会が4枚残されている。島原の町並み、京屋での弥生興、藤屋での月興とともに角屋での雪興が描かれている。雪の庭に下りて雪達磨つくりや雪合戦に興じる男女、縁側には小さな雪達磨と兎の像が置かれている。座敷ではお大尽と太夫が、鍋なども見える食事を供している。図会の右上には青貝の間の露台から庭での出来事を眺めている男女も見える。建物内では良く分からなかった1階と2階の関係が分かる。広間からは渡り廊下がつながり、広間に戻る芸妓と廊下の先に向かう客が見える。この先には厠があるのだろうか?
この絵図の左端には曲木亭という文字が見える。臥龍松の両側に3つの茶室がある。曲木亭は自然の曲った木を用いて、高床に2方向の壁を取り去った開放的な空間構成に創り上げている。茶室の額は元禄年間(1688~1703)の表千家覚々斎の筆とされている。当時の揚屋は文化サロンであったため、小亭のような茶室を庭に設けるのも常であった。この曲木亭の奥には清隠斎茶席がある。藪内竹心門の安富常通清隠斎の建築で、天保9年(1838)角屋に移築したものとされている。もう1つの茶室は庭東側にある。これらの茶室や一部の座敷は非公開となっているが、中川徳右衛門著の「角屋案内記」(便利堂 平成元年(1989))には多くの写真が掲載されているようだ。竹内大悟さんのHP 身体/カラダ/空だ には、公開されていない部分の写真が掲載されている。 臥龍松は大正時代に枯れ、現在の臥龍松は数本の松の木で構成されるものとなっている。
松の間の軒は、非常に軽やかに深く庭に向かって伸びている。これは臥龍松という低く抑えられた庭の構成に合わせて作られたものと見える。松の葉の繊細な線を活かすには、このような構造的にもぎりぎり成立するような軽い屋根となったのだろう。説明員は、軒の張り出しは片持ちではなく、弥次郎兵衛のように建物側にも梁が伸び、バランスを取っているということである。具体的にどのような矩形図や屋根伏図となっているか図面を起こしてみないと良く分からない。
まず松の間に入ると、火災の延焼を免れた岸良の筆による孔雀の障壁画が目に入ってくる。この金地の襖絵の上部には薩摩剛毅の「蓬莱生春酒」の書が掲げられている。
さて松の間ということで、芹沢鴨の暗殺に触れない訳にはいかないだろう。
芹沢鴨の出自や出生年には諸説があるが、文政10年(1827)芹沢外記貞幹の三男として生まれたとされている。後に神官である下村祐斎の婿養子となり、下村嗣司と称している。芹沢氏は常陸国芹沢村(現在の茨城県行方市芹沢)で中世に興起した豪族で、関ヶ原の戦功により幕臣、そして水戸藩上席郷士となっている。
嗣司は神道無念流剣術戸賀崎熊太郎に剣を学び、免許皆伝を受け師範代を務めている。そして万延元年(1860)天狗党の前身である玉造組に参加する。しかし文久元年(1861)水戸藩領だけでなく天領でも資金集めをしたことや、天狗党を詐称した攘夷を口実とする恐喝が横行した。幕府は水戸藩に攘夷論者の活動の抑圧を指示している。この当時、藩内でも天狗党に近い藩首脳が更迭され、反対派の諸生党が台頭し藩の方針は転換している。嗣司も佐原方面での献金強要の罪で捕縛され入獄、そして処刑を待つ身であった。文久2年(1862)住谷寅之介らによる朝廷工作が功を奏し、再度天狗党が藩の政権を奪取したことから、安政の大獄に関わった政治犯らの釈放を目的に大赦令が出され、出獄することを許されている。この時、名を芹沢鴨に改めたとされている。
文久3年(1863)2月5日、清河八郎の発案により浪士組が結成される。芹沢鴨は同郷で家臣筋である平間重助を伴い参加している。この浪士組には、新見錦、平山五郎、野口健司、そして江戸の剣術道場試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助らも加わる。
清河八郎は朝廷に上奏文を提出し、浪士組を朝廷の直属にすることに成功する。そして壬生の新徳寺に同志を集め、攘夷の決行のため江戸帰還を宣言する。芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退する。文久3年(1863)3月10日、芹沢、近藤ら17人(あるいは24人)の連名で会津藩に嘆願書を提出し、会津藩は御預かりとしている。文久3年(1863)8月18日に起きた八月十八日の政変では、近藤、芹沢ら壬生浪士組は御所の警備に出動している。そして政変の後に壬生浪士組は会津藩より新選組の隊名を与えられている。
そして政変の1ヵ月後の9月18日(あるいは9月16日)島原の角屋での宴席の後、芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと八木家で再度宴会を催している。泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと寝入っている。その深夜、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、芹沢鴨、同衾していたお梅、そして平山五郎を殺害し立ち去っている。この暗殺の実行者には、土方歳三、沖田総司、原田左之助、井上源三郎、山南敬助、藤堂平助などの名前があがっている。恐らく試衛館の中核となる人間によって秘密裡に行われたらしく、永倉新八でさえも後で事件を聞かされたようだ。
何故、芹沢鴨は粛清されたのかは明らかになっていない。新選組の権力闘争の中での単純な粛清とも見られる。しかし大和屋の焼き討ちなど、芹沢の粗暴さや水戸激派とのつながりに対する会津藩の警戒が、近藤達に実行を教唆したか黙認したのだと思われる。
角屋で行われた宴席には当時の新選組の隊費の半分をも費やしたと言われている。この後も行われる新選組の暗殺は、いずれも周到な準備の下、確実な方法で実行されている。神道無念流の使い手である芹沢鴨に気配を感じさせず、確実に暗殺するために練られた方策が角屋での宴席であったのだろう。
島原から壬生の八木家までは、およそ1.5キロメートル、歩けば20分程度と思ったより近い。
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