徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

修学院離宮 その3



修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう) その3 2008年05月20日訪問

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修学院離宮 上離宮 隣雲亭からの眺め

 中離宮を出て、再び松並木を下離宮方向に戻る。上離宮と中離宮の分岐点まで戻り、今度は東に進む。松並木と参道は明治天皇が馬車で移動できるように造られたものであると説明されていた。確かにこの光景は日本の原風景と言うよりは、西洋庭園的な雰囲気を感じさせる。後水尾上皇の時代は普通の畦道を輿などで移動し、御茶屋に入っていたのである、農作業を行っている人もこの畦道を使っているならば、行幸の列とすれ違うこともあったのではないだろうか?それこそが上皇が望んだ田園での清遊であったのだろう。

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修学院離宮 上離宮 隣雲亭
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修学院離宮 上離宮 隣雲亭
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修学院離宮 上離宮 隣雲亭 三和土に施された一二三石

 現在のように巨大な敷地をフェンスで囲み、その中全てを離宮として田園の環境を保つ必要が生じたのは近代になってからである。これは上皇の目指した離宮を守るためには欠くことのできないことではあるが、やはりテーマパークの裏側を見てしまうような気もする。そのようなことを考えながら松並木を東に進むと、左手には段々畑の上部に刈込みが見えてくる。刈込みは水平に数段に分けられて造られているため段々畑と同じように見えるが、これは上離宮の中心となる浴龍池の水を堰き止めるために、尾根と尾根を結ぶ高さ15メートル、長さ200メートルの人工の堰堤である。

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修学院離宮 上離宮 隣雲亭から眺めた浴龍池
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修学院離宮 上離宮 隣雲亭から眺めた千歳橋の屋根

 この堰堤を自然の中に同化させるために施された刈込みは大刈込みと呼ばれている。巧みに隠しているため、その構造に気がつきにくいが、上離宮の入口である御成門を入ると人一人分が歩くのがやっとという石段の道が始まる。この石段の両側にも刈込みが施されているため、周囲の風景は一切見えない。これを上りきると高台に達し、周囲の風景がパノラマ状に開ける。それは御成門を潜っていた時に見たものとは全く異なる。全く異なったビューを用意するだけではなく、それを隠しながら一人一人が期待を膨らませながら石段を上っていくという演出を用意している。これは単に土木的な開発行為を隠す以上のものに変換している。

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修学院離宮 上離宮 雄滝へ続く道と石燈籠
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修学院離宮 上離宮 雄滝からの流れ

 さて中離宮の項で書いてきたように、寛永6年(1629)後水尾天皇は、幕府のあからさまな仕打ちに耐え切れず、第2皇女の興子内親王に譲位をする。このとき後水尾上皇は、まだ33歳であった。この長命な上皇にはありと余る自由な時間が与えられる。これを徳川幕府に対する政治的反抗活動と芸術に費やしている。 霊元天皇までの4代の天皇の院政を行ったため、院と幕府との確執が続く。院政の否定は徳川幕府の基本政策であったが、後水尾院の院政を認めざるを得なかった背景には東福門院(徳川和子)が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したことと徳川幕府のから東福門院に対する配慮があったと考えられる。また和子との間に生まれた興子内親王に譲位することにより、古代より「天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない」という不文律を盾に、徳川家の血筋を皇統に入れること防いでいる。そして後光明天皇以降の3代の天皇は和子以外の女御や典侍から生まれた皇子を据える。また慶安4年(1651)後水尾院は突然落飾し法皇となる。その半月前に徳川家光が没していたため、幕府は二重の驚きを隠せなかったようだ。おそらく幕府への当て付けというか、幕府の制限を受けず自由に動けること示した行動であろう。
 幕府からの多くの干渉を受けたにも関わらず、最後まで抵抗の姿勢を貫き、朝廷の威厳を護ったとも言える。
 延宝8年(1680)85歳の長寿で崩御し、泉涌寺内の月輪陵に葬られている。

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修学院離宮 上離宮
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修学院離宮 上離宮 雄滝からの流れ

 上離宮(上御茶屋)には、浴龍池を中心として隣雲亭と窮邃亭の2つの建物が建てられている。
 西和夫著「京都で「建築」に出会う」(彰国社 2005年)によると、現在の隣雲亭は文政7年(1824)の再建とされている。隣雲亭は展望を目的に建てられているためか、外回りも間仕切もすべて明障子を建て込んだ装飾のほとんどない簡素な建物で、床・棚も設けていない。6畳の一の間、3畳の二の間と6畳間3室からなる。一の間北東には三方を吹き放した拭板敷の露台が作られている。この洗詩台と呼ばれる間で、上皇は雄滝の水音に耳を傾けながら詩歌の想を練られたと言われている。雄滝は音羽川上流から水を引いて作られた落差6メートルの滝。音羽川の水量の少ない時には、落水を閉じることもあるとの説明を受けた。
 また隣雲亭の軒下の三和土には赤と黒の小石が埋め込まれ、一二三石と呼ばれている。装飾の少ない建物において唯一遊びとなっている。ここを訪れる全ての人は、素晴らしい展望に目を奪われる余り隣雲亭の印象はそれ程強く残っていないだろう。それを見透かしたように作られたのが一二三石ではないか。もとは三和土に埋め込まれたもので、穿り出されるなどがあり、現在のように漆喰で塗り固められている。

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修学院離宮 上離宮

 隣雲亭の軒下からの眺めは、改めて語る必要のないほどのものである。浴龍池には中島、万松塢、三保ヶ島の3つの島が浮かんでいる。これらの島には土橋、楓橋、千歳橋の3つの橋が架かる。浴龍池の背景には左手から松ヶ崎、岩倉、貴船そして鞍馬の山々が広がる。この山々の中に白い塔状の建設物が見える。説明員の方に伺うと、市原に2000年に建設された京都市東北部清掃工場の煙突とのことである。濃淡2色のベージュ色に塗り分けられた煙突は直線距離で5キロメートル以上離れ、濃い緑を背景にすると薄い茶色も純白に見えてくるのだろう。 京都市は2009年に新たな景観条例を制定(http://www.kyoto-np.co.jp/info/special/07sinkeikan/070205b.html : リンク先が無くなりました )し、修学院離宮も眺望景観保全地域に加えられているので、今後はこのようなことが生じないのだろうか?市街地の庭園は、いずれも植栽を高くして周囲の高層建物を遮っている。これらは最初に作庭された時にイメージした景観とは異なるものとなっている。これに対して修学院離宮の近景は守られても、5キロメートルから先の景観まで現在と同じものを維持することは難しいと思う。そういう意味でも現在の風景を記憶しておくことが重要なのではないだろうか。

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修学院離宮 上離宮 木立の中の雄滝の姿

「修学院離宮 その3」 の地図





修学院離宮 その3 のMarker List

No.名称緯度経度
01  修学院離宮 上離宮御成門 35.0538135.8032
02  修学院離宮 上離宮隣雲亭 35.0539135.8036
03  修学院離宮 上離宮雄滝 35.054135.8037
04  修学院離宮 上離宮中島 35.0552135.8035
05  修学院離宮 上離宮万松塢 35.0547135.8031
06  修学院離宮 上離宮三保ヶ島 35.0556135.8035
07  修学院離宮 上離宮窮邃亭 35.0551135.8036
08  修学院離宮 上離宮千歳橋 35.0549135.8033
09  修学院離宮 上離宮楓橋 35.0552135.8037
10  修学院離宮 上離宮土橋 35.0553135.8033

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