真正極楽寺 その2
天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) その2 2008年11月22日訪問
櫻本陵から、再び哲学の道に戻り、そのまま東に進む。鹿ケ谷通と白川通を横断すると次第に上り坂になってくる。そのまま進むと、北側から真如堂の境内に入っている。紅葉の名所だけに、やや盛りを過ぎているものの人出は多い。今回は金戒光明寺へ急ぎ、本堂の前を通り西雲院へ出ることとする。
真如堂は本堂を意味する言葉で、本来の名称は、鈴聲山 真正極楽寺という天台宗の寺院である。永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三条院詮子の離宮に安置したのが始まりとされている。
比叡山常行堂の本尊・阿弥陀如来が戒算の夢に現れ、「人の集まる所で全ての民衆を救いたい」と告げる。戒算はこのお告げを実現するため、僧衆を説得し東山の神楽岡に本尊を安置する。そして正暦3年(992)に宣旨を承って寺を建立し、正暦5年(984)比叡山より高僧を招請して仏像を遷す供養法会を行う。長保元年(999)戒算は1丈6尺の涅槃仏を造刻して後門楼上に安置し、涅槃会を開いて不断念仏を行う。
この時代の比叡山の情勢や戒算が阿弥陀如来を遷座した経緯や応仁の乱以降の復興の歴史については、前回の真正極楽寺訪問の時に書き記しているので、そちらをご参照ください。今回は真如堂建立の願主となった東三条院の周辺について記すこととする。
東三条院は応和2年(962)摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女・藤原詮子として生まれている。摂関に在職した道隆、道兼、道長そして冷泉天皇女御超子は同母の兄弟にあたる。いわゆる藤原氏全盛期に、本流に属していた人物の一人である。天元元年(978)に入内し、同年女御の宣旨を被る。天元3年(980)兼家の東三条邸において、円融天皇の第一皇子懐仁親王を生む。この懐仁親王が円融天皇にとって唯一の皇子となり、後の一条天皇となっていく。
藤原北家 摂政関白太政大臣藤原忠平の次男として生まれた藤原師輔は、摂政・関白になる事はなかった。しかし村上天皇の崩御後に長女で中宮の安子の生んだ憲平親王(冷泉天皇)が即位し、その後は守平親王(円融天皇)が続き、外戚としての関係を強化してきた。これにより師輔の長男の伊尹を筆頭に、兼通、兼家、為光、公季と実に5人の息子が太政大臣に昇進し、子供たちの代で摂関家嫡流を手にすることとなった。その伊尹が天禄3年(972)に亡くなると、後任の関白には中宮安子の遺言に従い、兄の兼通が任じられる。また天元2年(979)に円融天皇の中宮媓子が没し、詮子は中宮位を兼通の娘・遵子と争い敗れている。父である兼家と共に円融天皇を恨み、天皇の度々の召還にも応ぜず里邸の東三条邸に引籠もる。これらは藤原伊尹亡き後の兼通と兼家兄弟の摂政を巡る争いの一環でもある。
既に櫻本陵 その2で触れたように、冷泉天皇が円融天皇に譲位した安和2年(969)に、冷泉天皇の第一皇子師貞親王が皇太子となっている。そして永観2年(984)譲位を受けて師貞親王は即位し花山天皇となり、詮子の生んだ懐仁親王が立太子する。 母懐子の父である藤原伊尹は既にこの世になく、強い外戚を持たない花山天皇は即位から2年後の寛和2年(986)に、兼家の計略により懐仁親王に譲位している。この経緯は大鏡にも記されている。寵愛していた女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことに落胆した花山天皇に兼家の三男藤原道兼が一緒に出家するとそそのかし、花山寺に誘い出す。その後、道兼は兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまう。後で天皇は騙されたことを知る。
また笠原秀彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)には、父である冷泉天皇と同様に乱心の振る舞いがあった花山天皇の不安定な心理状態に兼家が付け込んだと見ている。いずれにしても藤原兼通は貞元2年(977)に亡くなると、不遇を囲っていた兼家も政界に復帰し権力を握るようになっていた。そして一条天皇を即位させることで兼家の家系が摂関を独占するようになる。
懐仁親王が即位し一条天皇となったことで、藤原詮子は寛和2年(986)に皇太后に冊立される。正暦2年(991)円融法皇が崩御すると、詮子も出家して院号宣下を受け東三条院となる。これは居宅の東三条邸に因んだもので、女院号の嚆矢でもある。一条天皇の時代には国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入している。特に4歳年下の弟・道長を可愛がり、兄道隆・同道兼没後の執政者に彼を推し、道隆の子で甥にあたる藤原伊周を圧迫し、遂には没落に追い込んでいる。
またその反面、厚い信仰心を持ち、失脚した源高明の末娘明子を引き取って道長に娶わせたといわれ、一条皇后定子が難産で崩御した際も、残された第二皇女媄子内親王を養女としている。
東三条院は自らの離宮に真如堂を開創し、戒算の阿弥陀如来遷座を受け入れている。この当初の場所は、現在の寺地の東北にあたり元真如堂と呼ばれている。
元治元年(1864)に刊行された花洛名勝図会にはほぼ現在と同じ姿の図会が残されている。
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