渡月橋
渡月橋(とげつきょう) 2008年12月21日訪問
法輪寺の裏参道を出ると、正面に大堰川と渡月小橋が現れる。
嵐山の項でも触れたように、渡月橋より下流は桂川と呼び、その上流を大堰川、あるいは保津川下りのように亀岡市保津町から渡月橋間を保津川と呼ぶこととなっている。 淀川水系のひとつである桂川は、京都府京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する。左京区広河原、左京区花脊を南流し、花脊南部で流れを西へと大きく変える。京都市右京区京北を常照皇寺から山国神社へと東西に横断し、南丹市日吉町の世木ダム、日吉ダムを経由、以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦断し、保津峡を南東に流れ、嵐山で京都盆地に出て南流、伏見区横大路辺りで鴨川と合流し、大阪府との境となる橋本―水無瀬で木津川、宇治川と合流し淀川となる。
山城国風土記や日本後紀では、京都盆地に入ってきた桂川を葛野川と呼んでいた。鴨川や木津川などと同様に古代の桂川の流路は現在のものとは異なっていたと考えられている。そして度重なる氾濫は流域の住民たちの生活を苦しめてきただろう。6世紀頃に嵯峨から嵐山そして松尾の流域に住み付いていた秦氏は桂川に葛野大堰を築くことで、この地域の農作物の生産量を飛躍的に向上させたと考えられている。特に下嵯峨から松尾にかけて桂川東岸に築かれた堤は罧原堤と呼ばれ、この堤の完成により葛野川から大堰川と呼ばれるようになったといわれている。
その後、嵐山周辺および上流域では大堰川、嵐山下流域以南では桂川、あるいは葛河と称されるようになっている。鎌倉時代後期に吉田兼好が書いた徒然草の第51段では、嵯峨野の亀山殿に大井川(大堰川)から水を引くために水車を築く様子を伝えている。この地の人々に作らせた水車は廻らず、宇治の里人が作った水車は亀山殿に水を汲み入れた。その道の専門家に任せるべきという話しである。
江戸時代初期に黒川道祐が著した山城国の地誌・雍州府志でも、川の西に桂の里が有ることから嵯峨より南の下流域を桂川と呼ぶようになったとしている。それより上流にあたる嵐山流域をやはり大井川としている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の嵐山の項には、渡月橋を手前にした桂川の右岸地域の図会が掲載されている。
平安京造営の時、現在の右京区京北町すなわち北山杉の産地で有名な山国の木材を京都に運搬している。その後の時代でも、桂川は丹波から山城そして摂津への木材輸送に用いられてきた。そして17世紀に入ると、嵐山の角倉了以が桂川を開削し現在の丹波町与木村から下流の淀や大坂まで通じることになる。このことにより船運はさらに発達し、園部、保津、山本、嵐山、梅津、桂津などは湊町として栄えた。
嵐山から渡月小橋を渡り中之島に入る。その先に渡月橋が始まる。南側は西京区だが、この橋の北側は右京区となる。法輪寺の項でも触れたように、貞観10年(868)葛井寺を法輪寺に改めた僧道昌が承和年間(834~848年)に大堰川に橋を架け、堤防の改築を行い、船筏の便を開いている。この時に道昌が架けた橋は法輪寺橋と呼ばれていたらしいが、亀山上皇の時代に渡月橋と命名されている。橋の上空を移動していく月を眺め、「くまなき月の渡るに似たり」として名付けられたとされている。そして慶長11年(1606)に角倉了以によって建設された橋が、現在の渡月橋の元となったとされている。
法輪寺で十三まいりを終えた帰り道は、渡月橋を渡るまで後ろを振り返ってはならないといわれている。振り返ると知恵が本堂に帰ってしまうからとされている。
現在の橋の欄干が木造であるため木橋のように思うかもしれないが、昭和9年(1934)に完成した鉄筋コンクリート製である。
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