文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都御苑 その他の邸宅 その2



京都御苑 その他の邸宅(きょうとぎょえん そのたのていたく)その2 2010年1月17日訪問

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京都御苑 その他の邸宅 その2
蛤御門 左京一条三坊十六町

 京都御苑 その他の邸宅に続き左京一条三坊と四坊の町の変遷を見て行く。

 平安時代後期、この町には藤原家成の邸宅があり三男の成親に伝領されている。藤原成親は安元3年(1177)に起きた鹿ケ谷の陰謀に連座し備前国に配流され、同年7月9日に食物を与えられず殺害されたとされている。この事件以後、邸宅は後白河法皇の所有するところとなり、左大臣藤原経宗が賜っている。
 また「平安京提要」によると、崇徳上皇の御所として使われている。「兵範記」の久寿2年(1155)7月24日の条の「于時、宮中御門東洞門院太上天皇御同宿也」や同年12月1日の条の「今夕皇嘉門院、御幸新院御所、中御門殿」とあるのが根拠となっているようだ。皇嘉門院は崇徳上皇の中宮の藤原聖子のことであり、その陵は東福寺の南西の丘の上にある月輪南陵である。 崇徳天皇は鳥羽上皇の圧力に屈し、永治元年(1141)美福門院藤原得子所生の体仁親王(近衛天皇)に譲位し、以降は新院あるいは太上天皇と呼ばれていた。そして保元元年(1156)に生じた保元の乱に敗れ、讃岐に流されている。もしこの地に上皇の御所があったならば、その期間は藤原家成と成親の間となるだろう。

 この町には藤原内麻呂が当麻公長から購入し、次男の冬嗣に与えた小一条第があった。小一条第は小一条院あるいは東京一条第と呼ばれた邸宅で、この町の東側すなわち左京一条四坊三町の花山院の東一条第と混同するため、小一条第と改称されたようだ。小一条第については京都御苑 宗像神社で触れているので、所有者の変遷のみをここで記す。 藤原冬嗣から良房、そして良房の兄長良の三男を養子として貰い受けた基経、忠平、師尹、済時へと伝領されている。良房の時には娘の明子が文徳天皇の皇后となり、この邸宅で清和天皇を産んでいる。
 藤原済時以降は、済時の娘で三条天皇皇后となった藤原娍子を経て、その皇子の敦明親王の御所となっている。これは、寛仁元年(1017)親王が藤原道長の圧力により自ら東宮を辞退したことに対する見返りであった。さらに小一条院太上天皇の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇としての処遇を得ている。院は他の御所に移られ、小一条第は藤原済時の子孫である小一条流に受け継がれたと推測される。

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京都御苑 その他の邸宅 その2
出水の小川 左京一条三坊十四町

 この町には左大臣藤原仲平の邸宅として有名な枇杷殿が所在している。既に京都御苑 枇杷殿で説明しているので簡単な記述に留める。仲平の祖父である藤原長良がこの邸宅の最初の所有者だと考えられている。長良は枇杷中納言と呼ばれていたことから、この邸宅は仲平が好んで枇杷の木を植えたためではなく、その前の時代から枇杷殿という名称であったと考えてよいだろう。 長良は枇杷殿を三男で長良の弟の良房の養子となった基経に継いでいる。その後、基経の次男の仲平、仲平の娘の明子へと渡っている。明子は時平の三男で三十六歌仙の一人である藤原敦忠の妻となっている。
 枇杷殿が明子、明子の娘、敦忠の娘を経て藤原道長の所有となったのは11世紀初頭のことだと考えられている。道長は長保4年(1002)に大規模な改修に取り掛かり寛弘2年(1005)には一応の完成を見ている。この年に内裏が焼亡したため、枇杷殿が三条天皇の御所となっている。また寛弘6年(1009)にも一条院が焼失し一条天皇の里内裏としても使用されている。再び三条天皇の里内裏に当てられたが、天皇は健康が優れなかったことより、この邸宅を好んでいなかったようだ。
 このように道長に所有が移って以来、枇杷殿は道長の邸宅ではなく、血縁関係にある天皇の里内裏あるいは東宮の御所として用いられている。そのため建物も内裏を模して改修されたと考えられている。寝殿は紫宸殿、北対は清涼殿として使用され、西一対、西二対、東対、東対代、大炊室、雑舎、厩、御堂などの殿舎が建ち並んでいたことが史料から伺える。また寝殿の南側の池は炎暑にも涸れないほどの井水を湛えていた。
 長和5年(1016)枇杷殿は放火によって焼失すると、その再建はすぐに始まったが、完成したのは治安2年(1022)頃とされている。後朱雀天皇の皇后となられる陽明門院禎子内親王とその母の皇太后藤原妍子(道長の長女で三条天皇中宮)の御所に当てられている。そのため枇杷殿の道長以降の所有者は、妍子、禎子内親王、藤原寛子(頼通の長女で後冷泉天皇皇后)となる。万寿4年(1027)枇杷殿で妍子は道長に先立って没している。そして翌年の長元元年(1028)の大火で枇杷殿は類焼する。その後半世紀近く荒廃していた枇杷殿の再建は承暦4年(1080)に始められるが途中で放棄されている。しかし承徳元年(1097)太皇太后藤原寛子の御所として枇杷殿が完成する。寛子は長くこの邸宅を所有し白河天皇の皇女・禛子内親王を猶子として居住していた。
 寛子が大治2年(1127)92歳の高齢で没すると、枇杷殿は後見人で寛子の同母弟の師実の孫に当る忠実に渡る。しかし保元元年(1156)の鳥羽法皇崩御に後に起きた保元の乱で、崇徳上皇についた忠実は多くの所領を失う。枇杷殿もこの時に没収され、後院領とされたらしい。

 「拾芥抄」には、「棗院 土御門南 東洞院西二町 左大臣家」とあり、東京図にも左大臣家とある。左大臣ということから「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の巻之三には「左大臣雅信公」とし、以下のことを記している。

一条左大臣の家の障子に住吉のかたかきたる所に読る
詞花           大中臣能宣
すききにし程をばすてつ今年より
       千代はかぞへむ住吉の松

 「京都坊目誌 首巻」(京都叢書第13巻 京都坊目誌 首巻 光彩社 1969年刊)も「山城名勝志」とほぼ同じ記述となっている。ただし平安京提要では明証はないとしている。

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京都御苑 その他の邸宅 その2
蛤御門 左京一条三坊十六町

 藤原氏の邸宅・高倉殿の所在地。伝承では藤原基経の邸宅で、後に藤原仲平も居住したとされているが明確ではないようだ。これは「拾芥抄」の「高倉殿 土御門南 高倉西一町 昭宣公家云云 又入道太相国家云云 又左臣人仲平公家」となっているためであろう。平安時代中期の官吏で、越中守、丹波守などを歴任し藤原道長に仕えた高階業遠が所有し、その未亡人から道長が購入したところから以降は確実性があるようだ。関白藤原頼通は道長より受け継ぎ、長和5年(1016)左京一条三坊十五町の枇杷殿が焼失すると、三条上皇と中宮藤原妍子が東北に位置する高倉殿に遷御している。その後は頼通の子孫に伝領され、鎌倉時代初期には近衛基実の邸宅となっている。仁安2年(1167)二条天皇の中宮藤原育子が高倉殿を行啓している。

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京都御苑 その他の邸宅 その2
京都御所の南築地 左京一条四坊一町

 京都御苑 花山院で説明したとおり、この町には花山院の家政を取り仕切る別納が存在している。「延喜式 巻四十二(九絛家本)」の付図によると「華山院別納」と記されている。 また平安時代末期には、この町にあった参議藤原師長の邸宅は仁平2年(1152)に焼失している。師長は藤原頼長の長男である。保元元年(1156)の保元の乱においては親子で崇徳上皇についたため、父の頼長は敗死、師長も官位を剥奪されて土佐国に配流されている。弟の兼長、隆長、範長が配流地で死去したのに対して、師長は長寛2(1164)に罪を赦されて京都に戻り本位の従二位に復している。永万2年(1166)近衛基実の死後の混乱する中、 父に仕えていた家司を集結し勢力の巻き返しを図った。
 しかし近衛基通との確執が表面化すると基通を支援する平家との衝突が避けられなくなり、ついに治承3年(1179)平清盛のクーデターすなわち治承三年の政変により、関白松殿基房とともに解官され、尾張国への流罪に処されている。配地で出家して理覚と号したため、3年後に帰京を許される。建久3年(1192)に55歳で薨去。

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京都御苑 その他の邸宅 その2
京都御苑の凝華洞跡 左京一条四坊二町

 この町に花山上皇の御所・花山院があったことは、既に京都御苑 花山院で説明しているので、ここでは邸宅の変遷を中心に簡潔に記すこととする。左京一条三坊十四町の小一条第でも説明したとおり、当初は東一条第と呼ばれた藤原良房の邸宅であった。 「拾芥抄」には、下記のように記されている

華山院 近衛南 東洞院東一町 本名東一条第云云 式部卿貞保親王家貞信公伝領之住 小一条之開号之東家九条殿令給外 家冷泉院此所立坊花山院伝領之

 その後、清和天皇の皇子で藤原高子の子である貞保親王の所有となっている。高子は藤原長良の娘で藤原基経の同母妹にあたる。貞観8年(866)25歳で入内し女御となり、同10年(869)貞明親王(陽成天皇)、同12年(871)に貞保親王を産む。東一条第は貞保親王を経て藤原忠平の所有となる。忠平の次男・右大臣師輔を経て、師輔の長子の伊尹へと伝領されている。この邸宅は村上天皇女御安子(師輔の娘)、憲平親王(冷泉天皇)、花山上皇、三条天皇皇后娍子の御所となっている。
 花山院は長和3年(1014)に全焼し、半世紀の間放置されていたが、康平6年(1063)藤原師実によって再建され、師実の子の家忠とその子孫の花山院家が明治維新まで代々伝領してきた。

 左京一条四坊三町の花山院の南側に位置する町であるため、花山院南町と呼ばれている。太田静六は「寝殿造の研究」(吉川弘文館 1987年刊)で東一条第の規模を南北2町としている。これは天暦4年(950)に憲平親王を出産した女御安子が高倉第(高倉小路東、春日南)から中御門家に移られたという記事より、東一条第が中御門大路に南面すると推測している。さらに太田は東一条第と小一条第との関係について触れ、良房時代に最初に存在したのが東一条第であり、清和天皇が御生まれになり、藤原氏の縁戚の天皇家の方々のための御所として使用することが多くなった東一条第に対して東洞院大路を挟んだ西側に小一条第を藤原氏の邸宅として新築したと考えている。そのため良房の孫の関白忠平、その子の太政大臣師尹も小一条第に居住し小一条殿と呼ばれた。また鎮守社の宗像神社を初めに祀られていた東一条第から小一条第に遷したと考えている。
 寛喜3年(1231)にはこの地にあった平門という人物の邸宅が焼亡している。

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京都御苑 その他の邸宅 その2
宗像神社 左京一条四坊四町

 鎌倉時代後期、この町に所在した中納言藤原宗冬・大夫尉源光広の宿所と民家が永仁元年(1293)火災で焼失している。

 この町に関しての平安時代の様子は知られていない。

 この町に関しての平安時代の様子は知られていない。

 鎌倉時代初期、この町に後鳥羽上皇の御所があったとされている。後に上皇の妃である承明門院源在子の御所に代わっている。在子は法勝寺執行能円と藤原範子の娘で、後鳥羽天皇の女院となり、為仁親王(土御門天皇)を産んでいる。

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京都御苑 その他の邸宅 その2
清水谷家の椋 左京一条三坊十六町

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