名古曽滝跡
名古曽滝跡(なこそのたきあと) 2008年12月21日訪問
大沢池の北東に、立木もなく整地された場所があり、この奥に名古曽滝跡を示す碑が建つ。
名古曽滝は嵯峨天皇がこの地に築いた嵯峨院の滝殿に面して造られた庭である。既に大沢池の項でも触れたように、嵯峨天皇は皇子時代より、この地に山荘設営に着手している。そして日本後記の弘仁5年(814)閏7月27日の条に、
天皇、北野に遊猟し給い、この日嵯峨院に御す
という記述が残されていることより、この時期には既に離宮が完成していたと考えられている。
名古曽滝は、離宮の滝殿庭園に設けられたもので、今昔物語では百済河成が作庭したと伝えられている。百済河成は延暦元年(782)生まれの平安時代初期の貴族であり画家であった人物。先祖は百済の出で、本姓は余、承和7年(840)百済朝臣を賜っている。武勇に長じ大同3年(808)左兵衛府の舎人として出仕するが、絵画の才を発揮し描くところの人物や山水草木は「自生のごとし」と称賛された。仁寿3年(853)に没している。嵯峨天皇の離宮設営と百済河成が活躍していた時期は一致する。この頃には名古曽滝の庭は造られ、これを眺めるための滝殿も存在していたのであろう。
大沢池に置かれた庭湖石が、やはり画家の巨勢金岡によって建てたと伝わることからも、この時代の離宮の作庭は画家が担っていたのかもしれない。ちなみに貞観10年(868年)から同14年(872年)にかけては神泉苑の監修を行った記録が残されている。金岡はこのことから百済河成よりは後の世代の人となる。
未見ではあるが京都アスニー・平安京創生館に、上賀茂社、法勝寺、仁和寺、鳥羽離宮とともに大覚寺の復元模型の写真パネルが展示されている。これは平安建都1200年を記念して、平成6年(1994)に京都市立美術館で開催した展覧会「甦る平安京」で展示された平安京復元模型の一部分である。s_minagaさんのHP がらくた置場には、このパネルの画像が掲載されている。
現在、大沢池の北側の住宅地の中に、三宅安兵衛遺志の名古曽滝址の碑と中御所阯の碑が建てられている。名古曽滝は小倉百人一首に納められている大納言公任の歌
滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
が示すように、藤原公任の時代には既に水が枯れていた。
藤原公任は康保3年(966)に藤原頼忠の長男として生まれている。祖父の実頼、父の頼忠はともに関白・太政大臣を務める藤原北家小野宮流の出である。官位は正二位・権大納言と父や祖父に及ばないものの、和歌、漢詩、管弦にも優れた才能を見せ、大鏡には自らの才能を誇示した「三舟の才」の逸話が残る。上記のように嵯峨天皇による嵯峨院設営から公任の歌までには、おおよそ150年から200年近い時の流れがある。また大覚寺の項でも記したように、承和の変以降に恒貞親王が恒寂法親王と名を改め、大覚寺に入寺したのが貞観18年(876)のこととされているため、それから100年以上後のことでもある。名古曽滝は、その間に「絶えて久しくなりぬれど」になっていたということであろう。
上記の中御所阯の碑は、さらに時代が下って後宇多法皇の時代の建物の跡に建てられている。
大覚寺の公式HPの大覚寺の名宝・文化財の中に、大覚寺伽藍図(http://www.daikakuji.or.jp/kedai/meiho_d_01.html : リンク先が無くなりました )が残されている。徳治3年(1308)大覚寺に入寺した後宇多法皇は伽藍整備に着手し、元亨元年(1321)頃にはほぼ寺観は整ったと推定されている。この伽藍構成を描いた同時代の絵図は残されていないが、南北朝時代に北畠親房が記した神皇正統記には、
御寺なとあまた立ておこなはせ給ひし
とされていることから、大沢池から北側の朝原山にかけての地域に幾多の堂舎が建設されていたことが分かる。この大覚寺伽藍図は江戸時代中期に、後宇多法皇によって完成を見た伽藍を復元的に描いたものとされ、広沢池をとり込んで嵯峨全域に拡がっていた盛時の寺域の様子が良く分かる。大覚寺伽藍図は名古曽滝に置かれた説明板にも使用されている。この絵図と先の嵯峨院の復元模型写真を比較すると、非常に良く似た構成となっていることが分かる。
残念ながら、この壮大な大覚寺の伽藍は建武3年(1336)8月の火災で灰燼に帰し、再び甦ることはなかった。
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