泉涌寺 法音院
泉涌寺 法音院(ほうおんいん) 2008年12月22日訪問
即成院の山門を出て、泉涌寺総門を潜る。50メートルも進まない内に左手の石段の上に戒光寺の山門、右手に法音院の小さな山門が現れる。先ず右手の法音院に入る。
法音院の公式HPには、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)無人如導宗師によって泉涌寺山内に創建されるとある。無人如導は弘安8年(1285)あるいは翌年の9年に誕生したとされている。北野社に千日参りをされて霊告を得たことから出家している。応長元年(1311)北野社の神宮寺として東向観音寺を中興している。 また聖武天皇の妃である光明皇后が、まだ皇太子妃であった養老7年(723)悲田院と施薬院を興福寺内に設けている。これが記録上で最も古いものとされている。仏教に篤く帰依していた光明皇后は、東大寺、国分寺の設立を夫である聖武天皇に進言したと伝えられている。そして悲田院もまた仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた。平安京が造られた時にも病人や孤児の収容所として、東西2カ所の悲田院が建てられている。
泉涌寺の公式HPによると、この悲田院を徳治3年(1308)に、無人如導が一条安居院に移し、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の寺として再興している。 このように無人如導は9寺を建立したとされている。
無人如導が創建した頃の法音寺は泉涌寺の山内にあったが、現在のような総門の場所ではなかった。さらに応仁の乱で焼失している。現在の地に移転したのは、江戸時代初期の寛文4~5年(1664~1665)に覚雲西堂によって行われた再興の際である。この時再建を支援したのが徳川幕府と本多正貫夫妻であった。
本多氏は古くから松平氏に仕えた三河国の譜代の家系である。徳川四天王の一人である本多忠勝(平八郎)の家系と家康の参謀として知られる本多正信とその弟の正重の家系が有名である。本多正貫は初代・本多正重の娘の子であった。正重は早くに長男の正氏を豊臣秀次事件で失い、次男も早世したため、外孫に当たる正貫を養子として迎え正重の家系を継がしている。死の前年にあたる元和2年(1616)、正重は下総国(現在の千葉県柏市)舟戸藩1万石の藩主となっている。しかし2代目の正貫に相続する際に2000石減封され、大名は正重の1代1年で終わり、正貫は旗本となっている。この減封は正重の遺言と言われる。この後、正貫の孫で4代目本多正永が元禄元年(1688)寺社奉行に就任した事から加増されて再び舟戸藩主となる。その後、本多氏は上野国沼田藩2万石(現在の群馬県沼田市)を経て駿河国田中藩4万石(現在の静岡県藤枝市)で12代目の本多正納までの7代続いた後、1868年に安房国長尾藩に移封されて明治維新を迎えている。
そのため法音院は駿河国田中藩主本多家の京都における菩提寺となり、本多氏の当主の位牌は幕末まで当院に安置されることになる。寺内には本多正貫が建立した正重の石碑が、正貫夫妻及びその家臣等の墓とともに本多山より移されている。
英照皇太后御大葬の際の御須屋を賜ったものを現在の本堂として使用している。英照皇太后とは孝明天皇の正妃であった九条尚忠の娘・九条夙子。幕府の反対により立后されることなく孝明天皇が崩御している。また中山慶子が生んだ睦仁親王を養子としているため、皇后を経ずして皇太后となっている。
明治30年(1897)崩御し、同年孝明天皇と同じ後月輪東北陵に葬られている。御須屋とは、御陵や貴人の墓をつくる時に、工事の間覆いとして設ける仮小屋を意味するらしい。
書院には伏見桃山城の遺構の一部が使用されているとしているが、元和9年(1623)に伏見城が破却されているので、寛文4年(1664)頃に書院として再建されたと考えるのは難しいのではないだろうか?
昭和26年(1951)以来、毎年成人の日に行われる泉涌寺山内の七福神めぐりでは、寿老人を祀る寺院とされている。
即成院 福禄寿
戒光寺 弁財天
観音寺 恵比寿神
来迎院 布袋尊
雲龍院 大黒天
悲田院 毘沙門天
法音院 寿老人
また本尊の不空羂索観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼の第25番札所となっている。第十八番札所が善能寺の聖観音菩薩、第十九番札所が今熊野観音寺の十一面観音菩薩そして第二十番札所が泉涌寺の楊貴妃観音菩薩。
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