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成菩提院陵



成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ) 2009年1月11日訪問

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成菩提院陵

 安樂壽院南陵安楽寿院の間の道を再び西に向かう。さらに安樂壽院南陵の西側を南に進むと、片側2車線の大通り・新城南宮道に出る。そのまま西に進むと油小路通とその上に架かる阪神高速8号京都線の高架が現れる。とても京都の町並みとは思えない光景ではある。乗用車ではなく大型車が続く流れを見ると、京都・大阪間の物流の大動脈としての必然性を強く感じる。この交差点を西に渡ると、角地には建物は立っておらず、そのまま白河天皇の成菩提院陵の姿が良く見える。

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成菩提院陵 天下三不如意の御陵とは思えない現状

 白河天皇は尊仁親王の第一皇子として天喜元年(1053)に生まれている。白河天皇の幼少期は父の尊仁親王とともに冷遇されたとされている。これは尊仁親王の生母が藤原氏出身でなかったことが影響していたと考えられている。尊仁親王の異母兄である親仁親王が、第70代後冷泉天皇として寛徳2年(1045)に即位している。この時に尊仁親王も立太子しているが、即位するのは20年以上も先の事であり、東宮で実に長い年月を暮すこととなっている。藤原道長の長男であり、当時の権力者であった藤原頼通が、尊仁親王の即位に対して消極的な姿勢を保ち続けたからと考えられている。頼通の長女・藤原寛子は後冷泉天皇の三后並立の1人となっているため、頼通は後冷泉天皇の治世が続き、皇后に男子が生まれることを待っていたのであろう。そのため宇多天皇以来慣例となっていた東宮への宝剣の伝授も見送るなど、尊仁親王に対する冷遇の事例ともされている。
 治暦4年(1068)後冷泉天皇が在位のまま崩御する。ついに後冷泉天皇には皇子が生まれなかったため、皇太子であった尊仁親王が後を継ぎ第71代後三条天皇となる。父の即位と合わせて白河天皇も親王宣下を受け貞仁親王となっている。後三条天皇は熱心に学問に打ち込み、高邁な思想の持ち主であったため周囲の尊敬を集めていた。また前年の治暦3年(1067)藤原頼通が関白を辞し、東宮傅であった弟の教通が関白となっている。この権力の移行を契機に、天皇は自ら親政を行う姿勢を明らかにする。荘園整理令の発布や延久宣旨枡の制定など多くの業績を残すことができたのも、上記のように学識と威厳を備えていたこと、宇多天皇以来170年ぶりの藤原氏を外戚としない天皇であったため摂関家に対して強い姿勢で臨めたのであろう。このことが藤原道長を頂点とする摂関家の権勢が、外戚関係を失い急激に衰退していった時期でもある。

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成菩提院陵 手前の空地によりやや広く見える

 後三条天皇は僅か5年の在位で、延久4年(1073)20歳の貞仁親王に譲位している。笠原英彦著「歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか」(中央公論新社 2001年刊)によると、この譲位は院政の開始を早くするためとも、病気が引き金となったとも様々な説があると記している。確かに後三条院は譲位の半年後の延久5年(1073)に享年40で崩御している。
 第72代白河天皇が即位した時に、天皇の異母弟である実仁親王を皇太弟と定めている。後三条院とその生母である陽明門院は実仁親王、そして更にその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持っていたようだ。しかし応徳2年(1085)実仁親王は病気のため薨去する。白河天皇は応徳3年(1086)11月に輔仁親王ではなく8歳のわが子の善仁親王を皇太子に立て、その日のうちに譲位を行っている。この譲位は後三条院の遺命に明らかに反するものであり、陽明門院との間は疎遠なものになったとされている。
 幼少の第73代堀川天皇には上皇の後見が必要であった。これが院政の始まりとされている。すなわち幼少の天皇が即位した時、外戚が摂政となり政務を代行し、長ずるに及び関白となり政治を行うことが慣例とされてきた。これを白河上皇が自らの手で行ったため、摂関家の衰退を推し進めたとも謂える。確かに白河上皇は後三条院の遺命には逆らったものの、摂関家に疎外された中小貴族層の支持を得ながら後三条院が目指した上皇による親政を継承したとも考えられる。

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成菩提院陵

 続古事談で末代の賢王と評せられた堀川天皇が成人すると、天皇は関白の藤原師通と協力して政務を行う時期もあった。しかし承徳3年(1099)師通が死去すると、摂関家の内紛に乗じて白河上皇が再び政務に関与するようになり、天皇の興味は音楽・和歌という趣味の世界に移っていったとされている。病弱であった天皇は嘉承2年(1107)29歳の若さで在位にあったまま崩御する。安樂壽院陵の項で触れたように、堀川天皇の第一皇子で皇太子となっていた宗仁親王が、同年に第74代鳥羽天皇として5歳で即位する。さらに、元永2年(1119)には鳥羽天皇の第一皇子・顕仁親王を第75代崇徳天皇に即位させている。このように白河上皇は、堀川天皇から鳥羽天皇そして崇徳天皇までの3代40年間以上にわたって院政を敷いたため、権勢は院に集中し、賀茂川の治水、双六の賽の目、そして比叡山の山法師の天下三不如意とされるに至っている。 また白河天皇は、即位して間もない承保2年(1075)より法勝寺の造営に着手している。法勝寺は藤原氏の白河別業の地を藤原師実が天皇に献上したことから始まる。承暦元年(1077)に毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われ、永保3年(1083年)には有名な八角九重塔と愛染堂を完成させている。法勝寺は国王の氏寺と呼ばれ、代々の天皇の尊崇を受けている。この法勝寺の造営に習い、堀川天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、鳥羽天皇の皇后待賢門院(藤原璋子)の円勝寺、崇徳天皇の成勝寺そして近衛天皇の延勝寺と、5代の天皇と皇后によって岡崎の地に六勝寺が建設されていく。そして法勝寺は六勝寺のうち最初にして最大のものであった。

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成菩提院陵

 熱心に仏教を信じた上皇は、嘉保3年(1096)出家し法名を融観とし法皇となっている。晩年には殺生を厳しく禁じ、終生この禁を解くことがなかったとされている。また浄土信仰を深め、死後は土葬に付されることを望み、周囲の者にその意向を伝えていた。しかし藤原師通と生前対立していた興福寺の僧兵が、師通墓を暴き、土葬された遺体を辱めることを企てていたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたとされている。大治4年(1129)77歳で崩御。

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成菩提院陵

 後冷泉天皇から安徳天皇までの御陵は下記のとおりである。

第70代 後冷泉天皇 圓教寺陵   右京区竜安寺朱山 竜安寺内 
第71代 後三條天皇 圓宗寺陵   右京区竜安寺朱山 竜安寺内 
第72代 白河天皇  成菩提院陵  伏見区竹田浄菩提院町 
第73代 堀河天皇  後圓教寺陵  右京区竜安寺朱山 竜安寺内 
第74代 鳥羽天皇  安樂壽院陵  伏見区竹田浄菩提院町 
第75代 崇徳天皇  白峯陵    香川県坂出市青海町 
第76代 近衞天皇  安樂壽院南陵 伏見区竹田浄菩提院町 
第77代 後白河天皇 法住寺陵   東山区三十三間堂廻り町 
第78代 二條天皇  香隆寺陵   北区平野八丁柳町 
第79代 六條天皇  清閑寺陵   東山区清閑寺歌ノ中山町 
第80代 高倉天皇  後清閑寺陵  東山区清閑寺歌ノ中山町 
第81代 安徳天皇  阿彌陀寺陵  山口県下関市阿弥陀寺町 

 後三條天皇の圓宗寺陵と堀河天皇の後圓教寺陵は、それ以前の天皇の多くが葬られた竜安寺朱山に築かれている。崇徳天皇は幽閉された讃岐の白峯陵に、安徳天皇は入水した壇ノ浦に近い下関に葬られている。二條天皇の即位までの中継ぎとして後白河天皇は、二條、六條、高倉、安徳そして後鳥羽の5代にわたって院政を敷いた法住寺殿の地に葬られている。そして承久の乱後に処罰された後鳥羽、順徳、仲恭天皇は大原陵と九条陵に葬られている。鳥羽殿のあった地には白河天皇の成菩提院陵、鳥羽天皇の安樂壽院陵そして近衞天皇の安樂壽院南陵の3つの御陵が残されている。

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成菩提院陵 油小路通を眺める

「成菩提院陵」 の地図





成菩提院陵 のMarker List

No.名称緯度経度
 成菩提院陵 34.9519135.7512
01  安楽寿院陵 34.9527135.7535
02  安楽寿院南陵 34.9519135.7544
03  安楽寿院 34.9525135.7548

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