大徳寺 塔頭 その7
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その7 2009年11月29日訪問
北派の塔頭その1に引き続き北派の塔頭について記してゆく。
聚光院は第107世笑嶺宗訢を開山として永禄9年(1566)三好長慶(法号 聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門)の墓所として創建されている。弘治3年(1557)三好元長の菩提を弔うために、第90世大林宗套を開山として迎えて南宗寺を開創した三好長慶は永禄7年(1564)7月4日居城の飯盛山城で病死している。享年43。聚光院の開基は長慶の甥で養子の義継であった。長慶の死後を継いだ義継が若年であったため、実権は家老であった松永久秀や三好三人衆に牛耳られ、義継は傀儡でしかなかった。さらに久秀や三人衆が主導権をめぐって争った結果、三好氏は著しく衰退する。
永禄12年(1569)義継は信長の仲介により義昭の妹を娶り、織田氏の家臣として三好三人衆などの畿内の反信長勢力と戦っている。しかし元亀2年(1571)頃より松永久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わっている。そして元亀3年(1572)には織田方の畠山昭高や細川昭元と河内・摂津方面で戦い、勝利している。
しかし元亀4年(1573)武田信玄が病死したことにより、織田軍の反攻が始まる。7月には義兄にあたる足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は滅ぶ。
追放された義兄・義昭を若江において義継は庇護したことにより、信長の怒りを買う。天正元年(1573)11月、信長の命を受けた佐久間信盛軍に居城若江城を攻められ、妻子と共に自害して果てる。享年25。これにより戦国大名としての三好家の嫡流は断絶する。
聚光院が開創したのは、三好長慶が病死した永禄7年(1564)から2年後の永禄9年(1566)のことであった。この間の永禄8年(1565)4月には、大仙院の北裏地と大仙院および如意庵西隣の地を換地し、後者の地は栽松軒の所有となっている。そしてこの栽松軒の所有地が聚光院の開創の地となっている。既に触れたように、聚光院の開山の第107世笑嶺宗訢は、栽松軒の開山の第90世大林宗套の法嗣にあたる。このことから川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)において、三好長慶の墓所の準備として栽松軒の境内を拡張し、栽松軒自体の組織替えを行い、名を聚光院に代えて新たな塔頭の発足を行ったと考えている。これを可能にしたのは、大林宗套とその法嗣の笑嶺宗訢と三好長慶・義継親子との関係である。北派の開祖である古嶽宗亘が開創した南宗庵は、弘治3年(1557)大林宗套を開山に迎え、三好長慶に依って龍興山南宗寺に改められている。そして笑嶺宗訢が南宗寺の第2世として迎えられている。これを帰依という個人的で宗教的なつながりというよりは、経済的に発展した堺という貿易都市を通じて結ばれた経済的な関係として捉えることも可能ではないだろうか。大林宗套は聚光院が開創した2年後の永禄11年(1568)81歳で入寂していることからも、聚光院の開創については法嗣の笑嶺宗訢に委ねたというのが現実的である。
笑嶺宗訢は永正2年(1505)予州(愛媛県)河野の高田氏に生まれている。幼くして予州の宗昌寺で剃染し、長じて南禅寺に掛塔して書記を掌る。後に古嶽宗亘を知り参じるが、宗亘が伏見の清泉寺に赴いたので、堺の南宗寺の大林宗套に参じている。天文21年(1552)宗套より印可され、笑嶺の号を授けられる。永禄元年(1558)に勅を奉じ、大徳寺第107世として出世する。また永禄3年(1560)に再住開堂している。
先にも触れたように、笑嶺宗訢は南宗寺の第二世として住している。堺に海眼庵を創し、摂津尼崎の栖賢寺、広徳寺の両寺を再興している。永禄12年(1569)正親天皇から祖心本光禅師の号を賜わり、天正11年(1583)79歳で遷化する。法嗣には第111世春屋宗園、第117世古渓宗陳、第122世仙嶽宗洞そして第126世一凍紹滴などがいる。
永禄9年(1566)聚光院は三好長慶の墓所として開創された。しかし7年後の天正元年(1573)11月に佐久間信盛軍に居城を攻められ、三好家を継いだ三好義継は自害して妻子と共に果てている。これを以って三好家の嫡流は断絶したため、聚光院にとって有力な外護者を失う事態に陥っている。聚光院の転機となったのは、天正17年(1589)千利休が聚光院を菩提所としたことであろう。
聚光院の現存する施設の中で創建時に遡る遺構としては重要文化財に指定されている本堂のみである。書院と庫裏は江戸時代に再建されている。昭和55年(1980)に行われた本堂附玄関の修理工事によって創建時の状態に復元されている。多くの改変が聚光院本堂に行われてきたが、諸室を間仕切る襖障子は造立当初のものである。本堂障壁画38面(附8面)は国宝に指定されている。室中の間の障壁画である花鳥図16面は狩野永徳24歳の作で、松・竹・梅にオシドリ・セキレイ・丹頂鶴などを組み合わせた花鳥図で、生命力にあふれている。檀那の間の障壁画、琴棋書画図8面も狩野永徳の作。中国の士大夫に必須とされた琴、棋、書、画に耽る姿を絵画化したもの。室中の間の花鳥図が行体で自由奔放に描かれているのに対し、この図は楷体で謹厳な筆致が特色である。礼の間の障壁画は瀟湘八景図8面、古来より景勝の地として文人墨客がしばしば訪れた瀟水と湘水の合流する洞庭湖周辺の8つの風景を描いたもので、永徳の父狩野松栄により描かれている。衣鉢の間の障壁画、竹虎遊猿図6面も狩野松栄の作。仏間の仏壇下小襖の絵 蓮鷺藻魚図8面。
先の昭和の大修理の際、室中天井板に記された墨書「栽松十一枚之内」などから栽松軒の用材の転用と考えられている。また玄関化粧裏板の裏面墨書に「聚光院之門」「天正11年癸未」が見られることより、天正11年(1583)に聚光院の玄関屋根が工事されたことが分かる。これらの事柄より、「重要文化財聚光院本堂附玄関修理工事報告書」(京都府教育委員会 1980年刊)では、本堂の造立は永禄年間(1558~1570)の末から天正年間(1573~1592)の初期にかけてであり、天正11年(1583)には本堂と玄関の屋根を葺き替えたと考えている。これは上記の文化庁の国指定文化財等データベースの聚光院本堂の創建年と一致している。
川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)において、栽松軒の開山で第90世大林宗套の三回忌と三好長慶の七回忌にあたる元亀元年(1570)が、栽松軒の由緒、土地そして建物を継承して寮舎として聚光院が発足した年と考えている。さらに天正12年(1584)が栽松軒の開山で第90世大林宗套の十七回忌にあたる。これに合わせて塔頭聚光院の準備も継続されていたようだ。笑嶺宗訢の法嗣である一凍紹滴は、天正11年(1583)3月に聚光院に居し、同年12月に大徳寺第126世住持に出世している。これは笑嶺宗訢が寂した11月29日の2日後の出来事である。そして紹滴は堺の陽春庵、南宗寺に住し、南宗寺の一角に塔頭厚徳軒を構えている。慶長11年(1606)に寂すると、南宗寺の大林宗套の塔の脇に葬られている。これらの経歴は宗套との強い結びつきを示すものであり、恐らく天正11年(1583)に一凍紹滴の手によって現在の聚光院の姿に仕上げられたと考えてもよいだろう。
総見院は大徳寺117世住持古渓宗陳を開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流されたため、130世住持玉甫紹琮が継いだことより、総見院は古渓と玉甫を両祖としている。
古渓宗陳は天文元年(1532)越前国の戦国大名 朝倉氏一族に生まれている。出家して下野国足利学校で修学し、その後京都大徳寺の大徳寺第102世で大仙院第2世を務める江隠宗顕に師事する。江隠も古渓と同じく越前の出身であった。天正元年(1573)大徳寺第107世笑嶺宗訢の法を継ぐため、泉州南宗寺から大徳寺の住持職となる。この際に堺時代に知り合った千利休から祝儀を受けていることから、既に親交があったことが分かる。
先にも触れたように天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり織田信長は自害する。利休らの依頼を受けた古渓は、10月11日より百ヶ日法要を行う。2体造像された織田信長坐像の内の1体を納めた棺槨は金砂金襴でつつまれるなど目を見張るほど豪華な葬儀が7日間かけて執り行われる。法要後の10月23日、大徳寺領並びに門前以下田畠山林等を安堵される。これは元亀元年(1570)11月に織田信長が大徳寺に対して御朱印状を出していたものを、秀吉も「任総見院殿御朱印旨、如先々御当知行尤候」と承認したことによる。
秀吉は信長の一周忌を行なうため、古渓宗陳を開山として白亳院の地に総見院を建立する。天正11年(1583)6月2日に総見院において信長一周忌法要が催される。参列した秀吉は十二間四方に新造された位牌所を「様体一向不更利」とし取り壊しを命じている。そして下記のように天正寺の創建へと進んで行く。川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、この天正寺創設までの間の一時的な措置として仮客殿が建てられ、信長の尊像が祀られていたと考えている。また関白に任官した天正13年(1585)に、秀吉は総見院で茶会を開催していることから、この仮客殿で行なわれたのかもしれない。
大光院は大徳寺117世住持古渓宗陳を開山として、文禄元年(1592)に開創している。
上記のように、豊臣秀吉が天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために総見院を創建した際に、古渓宗陳は開山として迎えられている。さらに総見院 その2の中でも触れたように、総見院に満足しなかった秀吉は、翌年の天正12年(1584)大徳寺の南西にある船岡山に、信長の新たな菩提寺建立を企図している。当初は総見寺とされていたが、後に太平山天正寺と名付けられる。年号を寺名とする元号寺は延暦寺、建長寺、建仁寺、寛永寺など、天皇によって寺号が下賜される。天正寺建立事業は古渓に任され、同年12月1日には正親町天皇の勅額まで下賜されている。しかし天正16年(1588)石田三成との衝突が契機となり、秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となっている。川上氏の「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」では、天正寺造営経費の支出について秀吉の不興を買ったとしている。 大桑斉氏は、「天正寺の創建・中絶から大仏造営へ ―天正期豊臣政権と仏教―」(大谷学報238通号63巻2号 1983年)では、秀吉の宗教政策のブレーンとして古渓宗陳が選ばれたものの、その思想の内に新しい政策を推進する力が見られなかったことから排除されたと推測している。古渓宗陳を推挙したのは千利休であっただろう。しかし足利尊氏にとっての夢窓疎石、あるいは徳川家康と以心崇伝の関係には成り得なかったようだ。また秀吉自身の興味も、旧主の菩提を弔う大寺院の建立から、東山に大仏を建立することに移ってゆく。この方が民衆を宗教的に支配することに秀吉は気がついたのであろう。
九州に配流された古渓宗陳は、小早川隆景の領内にあった大同庵に蟄居している。千利休の援助により翌天正17年(1589)には京へ戻ることができているが、既に総見院の院主は宗陳の法嗣であり第130世玉甫紹琮が任命されていたため、宗陳が総見院に戻ることはなかった。
天正19年(1591)1月22日に、秀吉の異父弟である豊臣秀長が大和郡山城内で病死している。享年52。同年1月29日に行われた秀長の葬儀において、秀吉は秀長の近臣が依頼した南派の第123世竹澗宗紋を退け、北派の古渓宗陳を導師に定めている。宗陳は秀長の法号を大光院殿前亜相春岳紹栄大居士と付し、葬儀の際には「威あって武からず、靄然として仁有り」と仁将として讃える一方で、豊臣政権の軍資金を担っていた一面にも言及している。文禄元年(1592)古渓宗陳を開山に迎え、豊臣秀長の菩提を弔う大光院が、大和郡山に創建されている。
その前年の天正19年(1591)2月28日の千利休の切腹事件によって、利休の木像を大徳寺山門に祀った責任を問われる。激怒した秀吉は大徳寺僧の長老2、3人を磔にし、大徳寺破却を考えたとされている。磔の方は大政所と秀長の未亡人の取り成しによって思いとどまったが、大徳寺破却に関しては、徳川家康、前田利家、前田玄以そして細川忠興の四人の使者が遣わされることとなった。古渓は懐の刀を出し「貧道先ず死有るのみ」と自らの命をかけて抗議を行なっている。
この大徳寺破却は古渓宗陳にとって、天正寺の創建途上での九州への配流に次ぐ、秀吉によってもたらされた第二の危機であったと思われる。同年使者からの報告を受けた秀吉は破却を撤回し、大徳寺は残ったとされている。恐らくこの逸話は千利休が切腹した直後のことであったと思われる。それにもかかわらず、翌年の大光院の開創に開山として古渓宗陳を迎えている。このような出来事を前にし、秀吉と宗陳の人間関係がどのようなものであったかを考えても、全く思い浮かぶものがない。
古渓宗陳は洛北の市原にある常楽院に隠遁し慶長2年(1597)に寂している。
豊臣秀長の大和豊臣家を継いだ秀保は、秀吉の姉の日秀の子であり秀長が養子として迎えている。秀保には秀次事件で悲惨な最期を迎えた豊臣秀次と江の2番目の夫で文禄の役で病死した豊臣秀勝の2人の兄がいる。文禄4年(1595)療養のために訪れた大和十津川で、秀保は変死を遂げる。享年17。死因は疱瘡の悪化とされるが、秀保の後見役の藤堂家関係の史料には、「十津川に遊覧に出かけたところ、小姓が秀保に抱きつき、ともに高所から飛び降りて転落死した」とある。また、殺生関白の異名をとった秀次と同様に、秀保にも嗜好殺人などの非道行為を繰り返した暴君だったという言い伝えが残されている。秀保の変死により大和豊臣家は廃絶となっている。
このようにして、文禄元年(1592)に大和郡山で創建された大光院は、開創から3年後には最大の檀越を失っている。その後、秀保の後見役を務めていた藤堂高虎が大光院を大徳寺の金龍院の南、高桐院の西、すなわち現在の京都市立紫野高等学校の校地に移している。この移建の時期は、慶長初年(1596~)あるいは元和年間(1615~24)とされ、以降北派輪住により護持されてきた。しかし文化13年(1816)に火災にあい、文政年間(1818~30)に再び藤堂家により再興されている。昭和29年(1954)に小堀大嶺和尚により龍光院南の現在地に移建されている。
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