大徳寺 総見院 その2
大徳寺 総見院(そうけんいん)その2 2009年11月29日訪問
孤篷庵の前の見事な石畳を歩き、今宮門前通を越えると、いよいよ大徳寺の境内という気分になる。水上勉は「日本名建築写真選集 12 大徳寺」(新潮社 1992年刊)に寄稿したエッセイ「純禅の道 大徳寺随想」でも下記のように記している。
この孤篷庵へののぼる石畳の道はほかの塔所より、距離がながいこともあって美しい。私の育った紫野中学校(現・紫野高校)の校舎の横のなるい勾配の坂道である。
龍翔寺の山門前を過ぎると、近衛家廟所の周囲に調和していない石積みの塀が見える。その先に総見院の山門が現れる。
2008年11月に訪問した時には何かの催しが行なわれていたようで、着物を着た女性が山門の中へと入って行くのを見かけた。恐らく茶会でも行なわれていたのであろう。この時は山門から本堂前の前庭までしか入ることが出来なかったが、今回は秋の特別公開で拝観することが可能となった。 小振りながら豪壮な雰囲気を与える唐破風の正門の脇に信長公廟所の碑が建つ。総見院は大徳寺117世住持古渓宗陳と開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流されたため、130世住持玉甫紹琮が継いだことより、総見院は古渓と玉甫を両祖としている。
古渓宗陳は天文元年(1532)越前国の戦国大名 朝倉氏一族に生まれている。出家して下野国足利学校で修学し、その後京都大徳寺の大徳寺第102世で大仙院第2世を務める江隠宗顕に師事する。江隠も古渓と同じく越前の出身であった。天正元年(1573)大徳寺第107世笑嶺宗訢の法を継ぐため、泉州南宗寺から大徳寺の住持職となる。この際に堺時代に知り合った千利休から祝儀を受けていることから、既に親交があったことが分かる。
先にも触れたように天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり自害する。利休らの依頼を受けた古渓は、10月11日より百ヶ日法要を行う。2体造像された織田信長坐像の内の1体を納めた棺槨は金砂金襴でつつまれるなど目を見張るほど豪華な葬儀が7日間かけて執り行われる。法要後の10月23日、大徳寺領並びに門前以下田畠山林等を安堵される。これは元亀元年(1570)11月に織田信長が大徳寺に対して御朱印状を出していたものを、秀吉も「任総見院殿御朱印旨、如先々御当知行尤候」と承認したことによる。
秀吉は信長の一周忌を行なうため、古渓宗陳を開山として白亳院の地に総見院を建立する。天正11年(1583)6月2日に総見院において信長一周忌法要が催される。参列した秀吉は十二間四方に新造された位牌所を「様体一向不更利」とし取り壊しを命じている。そして下記のように天正寺の創建へと進んで行く。川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、この天正寺創設までの間の一時的な措置として仮客殿が建てられ、信長の尊像が祀られていたと考えている。また関白に任官した天正13年(1585)に、秀吉は総見院で茶会を開催していることから、この仮客殿で行なわれたのかもしれない。
総見院に満足しなかった秀吉は、翌年の天正12年(1584)大徳寺の南西にある船岡山に、信長の新たな菩提寺建立を企図している。当初は総見寺とされていたが、後に太平山天正寺と名付けられる。年号を寺名とする元号寺は延暦寺、建長寺、建仁寺、寛永寺など、天皇によって寺号が下賜される。天正寺建立事業は古渓に任され、同年12月1日には正親町天皇の勅額まで下賜されている。しかし天正16年(1588)石田三成との衝突が契機となり、秀吉の勘気に触れ九州博多に配流となっている。川上氏の「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」では、天正寺造営経費の支出について秀吉の不興を買ったとしている。
この天正16年(1588)は紀州、四国、越中の攻略、そして九州征伐が終わる時期にあたり、既に秀吉の天下統一は時間の問題となっていた。この時期にわざわざ信長の権威を借りる必要もなかったことは事実であり、今更かつての主君であった信長を思い出させることは秀吉にとっても不都合になりつつあった。すなわち天正12年(1584)には天正寺建立の必要性はあったものの、4年経た天正16年(1588)には全くの不要となっていた。事業を中止するための口実として、古渓宗陳の配流が決定したというのが意外にも真相であったかもしれない。
天正16年(1588)秀吉は母の大政所の病気平癒を祈願し、玉仲宗琇を開山として天瑞寺を大徳寺内に創建している。実に起工から数ヶ月で造営が完了している。病も快癒した大政所は玉仲に帰依し、秀吉に千石の寄進を要請している。秀吉は寺領の過多は後の憂いを引き起こしかねないと考え、総見院と共に各々300石を寄せている。天正13年(1585)3月10日に秀吉は、大徳寺並びに塔頭。緒末寺領等を安堵し、臨時の課役と徳政を免除している。さらに同14年(1586)には大徳寺領として1545石を寄進するなど、秀吉による大徳寺保護は一層進められている。
なお、竹貫元勝氏の「紫野 大徳寺の歴史と文化」(淡交社 2010年刊)では以下の羽柴秀吉寄進状より、天正寺の境内地を現在の龍翔寺の地としている。
新紫野天正寺敷地境内東西百間、
付紫野間可為林、
南北百弐拾間并船岡山之事
天正寺の境内は新紫野と称され、紫野の大徳寺との間を林で区切ることとなっている。そして船岡山も天正寺に寄進することが決められていた。現在の龍翔寺の地には、上記のように天瑞寺が建立されていたことが確認されている。東西100間とは、およそ180メートルになるため、総見院に隣接しても今宮門前通を越えた西側までが寺域となってしまう。むしろ今宮門前通の西側に計画したほうが、船岡山との位置関係から見ても自然なような気がする。いずれにしても天正寺建立は中止となり、時期的にはその後すぐに天瑞寺が建立され、明治まで存続したことになる。
九州に配流された古渓宗陳は千利休の援助により京へ戻ることができ、天正19年(1591)1月29日に行なわれた豊臣秀長の葬儀の導師を務めている。しかし同年2月28日の千利休の切腹事件によって、利休の木像を大徳寺山門に祀った責任を問われる。激怒した秀吉は大徳寺僧の長老2、3人を磔にし、大徳寺破却を考えたとされている。磔の方は大政所と秀長の未亡人の取り成しによって思いとどまったが、大徳寺破却に関しては、徳川家康、前田利家、前田玄以そして細川忠興の四人の使者が遣わされることとなった。古渓は懐の刀を出し「貧道先ず死有るのみ」と自らの命をかけて抗議を行なった。使者からの報告を受けた秀吉は破却を撤回し、大徳寺は残った。その後、古渓は洛北の市原にある常楽院に隠遁している。
天瑞寺と総見院は享保2年(1745)に大徳寺がまとめた末寺帳に「塔頭弐拾四宇」に数えられていた。もともと大徳寺の経済的基盤は御朱印高と開基檀越の資助によっていた。しかし明治に入り、新政府の政策によりそれらは断ち切られ、塔頭は堂宇の維持に窮するようになる。ここで取畳、合併、切縮が余儀なくなり、明治11年(1878)3月11日に京都府知事槇村正直宛に「合併切縮之儀ニ付御伺」を提出している。
天瑞寺ヲ本寺大徳寺エ合併 総見院ヲ同上
上記のように、13塔頭が合併、4塔頭が切縮して、20塔頭を永続塔頭とすること願い出ている。このように総見院は大徳寺に合併されたことにより、事実上の廃寺となる。大正年間(1912~1926)に堂宇は再興され、昭和36年(1961)信長380年忌に、本山に遷され安置されていた信長木像が本堂に戻されている。
唐破風の正門と土塀は創建当時のものとされている。現在は塀の外側に置かれている鐘楼も総見院のもので、桁行三間梁間二間袴腰付、入母屋造本瓦葺で重要文化財に指定されている。梵鐘は信長の家臣堀久太郎秀政の寄進によるもので、銘文は古渓宗陳による。 本堂に祀られている木造織田信長坐像は、ヒノキ材を用い、頭体を別材から造っている。頭部は前後二材、躰部は正・背面各三材を中心に数材を寄せて箱状に組まれている。玉眼嵌入の彩色像で、袍は黒、表袴には白と黒で石畳文の地に五葉の木瓜文を描いている。像底の朱書銘には、本像が天正11年(1583)五月吉日、七条大仏師宮内卿法印康清によって製作されたことが記されている。面貌はかなり写実的に作られ、唇が薄く頤が尖った面長で、神経質そうな顔立ちは、神戸市立博物館本や長興寺本の特色をよくとらえている。平成9年に重要文化財に指定されている。
本堂を拝観した後、北側に建てられた三席の茶室に移る。最も奥にある壽庵は、大阪に山口商店を興した山口玄洞が寄進した8帖の茶席。襖には五七の桐の紋が見られる。龐庵には表千家而妙斉の筆による扁額がかかる。龐は龍でさえも棲めるほど大きいという意味があり、32帖もの広さをもつ大きな茶席。香雲軒は、表千家13代即中斎好みの8帖の茶席。
現在も使用されている掘り抜き井戸は、創建当時のものとされている。加藤清正が文禄慶長の役の際に朝鮮から持ち帰った朝鮮石を繰り抜いて井筒としている。
境内の北西隅には織田家墓地があり、信長と信忠、信雄、秀勝、信高、信好の5人の子と信雄の嫡男である秀雄の墓が一列に並ぶ。
嫡男の信忠は本能寺の変の際、二条新御所で奮戦した後、自害している。
次男の信雄は、信忠亡き後の織田家の後継者を目指すものの、信忠の子の三法師(秀信)を推戴した秀吉に勝てなかった。その後関ケ原の戦いで石田三成についたため改易されるが、大阪冬の陣で東軍に情報を流したことが評価され大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石が与えられ、寛永7年(1630)死去。享年73。嫡男秀雄は父と共に関ケ原の戦い後に改易され、大阪冬の陣に参ずることなく慶長15年(1610)京で亡くなっている。享年28.
秀吉の養子となった四男の秀勝は病弱だったため、天正13年(1585)丹波亀山城で病死。享年18。
七男の信高は信長とお鍋の方の長子とされている。関ケ原の戦いでは西軍に属したと考えられ、戦後失領し慶長7年(1602)死去。享年28。
まだ幼かった十一男の信好は、本能寺の変後に羽柴秀吉に引き取られてその家臣となっている。慶長14年(1609)死去。
その脇には正室の帰蝶と側室のお鍋の方の墓もある。
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