大徳寺 塔頭 その8
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その8 2009年11月29日訪問
北派の塔頭その2に引き続き、さらに北派の塔頭について記してゆく。
三玄院は第111世春屋宗園を開祖とし、石田三成、浅野幸長、森忠政等が檀越となり創建されている。創建年次については、天正14年(1586)や天正年間(1573~92)とする説もあるようだが、京都市の駒札に明記されている天正17年(1589)が一般的な説となっている。創建時の位置は龍翔寺の西隣で大徳寺と龍翔寺の買い取ったことが「大徳寺西之林充状」と「龍翔寺西之林充状」が高桐院文書として残っている。これらによると寺域は南北20間(36メートル)、東西39間(71メートル)であった。 慶長20年(1615)には、本坊(客殿)・玄関・大庫裏・小書院・小庫裏・連絡廊下・雑部屋・柴部屋・雪隠・衆寮・門などがあったことが確認できる。創建当所の本堂の平面間取は資料が失われ不明であるが、桁行七間半、梁行六間半の規模で、龍源院や興臨院の本堂と同じ大きさであったと推測される。慶長20年(1615)までに、檀那側の仏事参列者の数が増加したため、西側に2室と入側縁を増設したと考えられる。
本堂や庫裏は改造が加えながらも幕末まで維持されてきたが、明治に入り全てが取り壊され、隣の龍翔寺の土地と建物をもとに、現在に残る三玄院として再建されている。
春屋宗園は聚光院の開祖笑嶺宗訢の法嗣である。北派で総見院の開祖となった古渓宗陳や、南派で黄梅庵を黄梅院に改めた玉仲宗琇と同世代に当たる。近世初期の大徳寺を代表する長老の一人である。
宗園は享禄2年(1529)京都に生まれている。俗名は園部氏。はじめ建仁寺の驢雪鷹灞に師事し、足利学校にも学んでいる。文字言語の研鑽を止め、正法眼蔵の仏智を得ようと決めた頃に、大徳寺の江隠宗顯に謁することを勧められる。宗顯に参じた後、笑嶺宗訢に師事し嗣法している。永禄12年(1569)3月28日に41歳で大徳寺第111世として住する。しかし同年4月18日には堺の南宗寺に住している。さらに元亀2年(1571)4月1日に大徳寺再住となり、大徳寺出世後は龍珠軒に居している。天正8年(1580)津田宗及が堺に創建した大通庵の開山として迎えられている。また千利休の画像に着賛し、千宗旦の参禅を受けるなど、春屋宗園は茶人や堺の商人等との交流が深かった。
慶長4年(1599)石田三成が近江佐和山に瑞嶽寺を創建した際には、開山として迎えられ、第138世董甫宗仲、第153世澤庵宗彭、第156世江月宗玩を伴って入山している。三成は翌年の慶長5年(1600)9月15日の関ケ原に戦いに敗れ、10月1日家康の命により六条河原で斬首されている。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園と沢庵宗彭に引き取られ三玄院に葬られている。
慶長5年(1600)範叟規座元により大徳寺方丈の北に移されている。その寺地は第90世大林宗套が創建した栽松軒址とされている。すなわち永禄8年(1565)栽松軒が拡張し、その後聚光院となってゆく前の栽松軒の地であったのだろう。寛文年間(1661~73)に寺地を拡げ寺宇を添えた雲甫首座が、第196世傳外宗佐を中興としている。久我家が檀越となり墓塔を立てる。
清泉寺は准塔頭の初例とされ、北派独住の塔頭となっている。「龍宝山大徳禅寺志」の三玄寮舎の項に、
清泉寺、二十石九斗七升二合、慶長年中造
とあるため、三玄院の寮舎とされている。
高桐院は第130世玉甫紹琮を開祖として、慶長6年(1602)細川忠興が父幽斎の菩提所として創建している。慶長年間(1596~1615)大徳寺では高桐院、玉林院、昌林院などの塔頭を始めとし、寮舎子庵の創建が続いたが、その中でも高桐院の創建は初期にあたる。
利休七哲の人として数えられ、茶道の三斎流の開祖でもある細川忠興は、永禄6年(1563)に細川藤孝の長男として生まれている。足利氏、織田信長、豊臣秀吉そして徳川家康と4代の権力中枢に仕えた忠興は、戦上手な武将だけではなく、戦国政治家としても一流であったことは間違いない。正室の玉子は明知光秀の三女であり、ガラシャ夫人として有名である。忠興は本能寺の変の際も逆臣の娘を離縁することなく、幽閉するなどで逃れている。しかし、関ケ原の戦いが勃発する直前の慶長5年(1600)7月16日、西軍の人質となることを恐れ、大阪玉造の細川屋敷で方法は異なっているものの自害している。忠興は関ケ原の戦いで東軍に属し戦功をあげたことにより、丹後12万石から豊前中津藩39万9000石の大大名となり、小倉城に入る。
忠興を継いだ3男の細川忠利は寛永9年(1632)小倉から熊本54万石に加増移封されている。これは肥後国熊本藩の加藤忠広が改易されたためである。細川忠興は正保2年(1646)に没する。享年83。
玉甫紹琮は天文15年(1546)三淵晴員の子として京都に生まれている。室町幕府の幕臣三淵晴員は、細川藤孝の父でもある。すなわち高桐院に祀られている細川藤孝とその開祖の玉甫紹琮は兄弟に当たる。藤孝は、晴員の兄であり細川家を継いだ細川元常の養子となり細川姓を名乗り、肥後細川家を創設している。紹琮は古渓宗陳に師事し天正14年(1586)奉勅入寺して大徳寺第130世となっている。紹琮は、この頃には既に大仙院内の意北軒を預かり、同時に後述する白毫寺とその寺領の管理を任されていた。さらに天正寺創設に関わり天正16年(1588)古渓宗陳が秀吉の勘気を蒙り九州に配流されると、紹琮は総見院の第2世として迎えられている。慶長18年(1613)68歳で示寂し、高桐院に塔されている。後陽成天皇より大悲広通禅師の諡号を賜わっている。
高桐院は玉甫紹琮と細川藤孝の関係から、紹琮の塔所と細川家の菩提所の2つの性格を持つ塔頭であったと考えられる。院の位置は三玄院の西、天瑞寺の南にあり、盛時は南北51間半(94メートル)、東西83間(151メートル)と巨大な寺地を保持していた。同時代の真珠庵の2.5倍、大仙院と比較すると7.5倍にもなる。院内施設の構成は三玄院に似ており、本堂・庫裏・書院・小庫裏が主な建物となっているが、本堂は桁行9間半、梁行7件と三玄院と比べて少し大きくなっている。また塔頭開山よりも檀那を優先する扱いが見られるのも、近世における菩提所塔頭の性格を現わしている。
現在の高桐院には創建当所の建築が残されていない。本堂は明治初年に失われたが、肥後細川家第16代当主細川護立によって再建されている。
本堂の北には、書院の意北軒が建てられている。かつて聚楽第にあったという利休邸を移築したものとも謂われているが、その由来は明らかではない。また造立年次を確定できる資料がないが、天明8年(1788)の奉行所への届書には、
「桁行6間、梁行5間、小棟造屋根杮葺」
とあり、現在の書院と規模は一致しているが、高桐院の創建時代まで遡ることは困難なようだ。また書院に接続して西北隅に三斎好みの茶室と伝える松向軒と勝手間が所在している。天承15年(1587)豊臣秀吉が主催した北野大茶湯の折に三斎が建てたものを移したとも伝えられている。幕末の古図には記載されていないが、幕末以降に移築したものかもしれない。松向軒の扁額には、寛永5年(1628)に第170世で高桐院第2世の清巌宗渭の記した銘文が残る。開基の細川忠興が松風を聞き、茶をたしなむために院の後園に小庵を構え、松向と命名している。扁額の寛永5年(1628)以前に松向庵は造立したと考えられるが、現在の建物が当時のものである確証はないようだ。
寺宝としては、南宋の画家李唐の落款がある国宝の絹本墨画山水図2幅 附絹本墨画楊柳観音像がある。また重要文化財に指定されている絹本著色牡丹図は元時代の作品とされている。 細川家の廟所には三斎が愛でた石灯籠を墓標とし、石盥を手水鉢に使っている。これらは正保2年(1645)の三斎の逝去後に、菩提を弔うために細川家が廟所を造営した際に設置したと考えられている。なおこの石灯籠の元の所有者は千利休であり、秀吉と三斎から請われたため、利休が笠の一部を欠き、秀吉の申入れを断ったという逸話が残されている。
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