乙訓寺 その2
真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら)その2 2009年12月9日訪問
乙訓寺では、既に古い時代より多くの人々が乙訓寺の周囲に住んでいたことについて記してきた。縄文時代から古墳時代にかけての今里遺跡、5世紀前半の今里車塚古墳や6世紀後半から7世紀初頭にかけて造営された今里大塚古墳などからも人々の営みが良くうかがえる。また現在の乙訓寺本堂の北側から長岡第三小学校にかけての乙訓寺遺跡から、長岡京造営以前よりこの地に寺院が存在していたことも分かっている。昭和41年(1966)から始められた発掘調査により、講堂と推定される大規模(桁行九間27メートル、梁行四間12メートル)な礎石建物や僧房と考えられる掘立柱建物5棟や瓦窯跡、火葬跡が見つかっている。これらから当時の伽藍配置図を推測することは困難であるが、周辺の地割より東西1.5町以上、南北2町以上の寺域を誇る巨大な寺院が存在していたことは確実である。「日本書紀」継体天皇12年(518)条には下記のような記述がある。
この乙訓寺の旧跡が継体天皇の弟国宮に造営された寺院だったのではないかと地理的に思いを馳せることもできるが、年代的にはそれよりも100年近く新しい時代のものと考えられている。寺伝では推古天皇の勅願、聖徳太子による創建とされているが、太秦の広隆寺が秦河勝によって建立されたように、7世紀頃の郡司クラスの豪族、もしかしたら賀茂氏あるいは秦氏に関連する人々が建立した郡寺であったのではないかとも考えられる。
延暦3年(784)桓武天皇がこの乙訓の地に遷都された際、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築されている。この当時の寺域は南北百間以上もあり、上記の発掘調査の結果から桁行九間の梁行四間の講堂が分かっている。これは難波京の大安殿と同じ規模のもであった。
しかし長岡京遷都後間もない延暦4年(785)9月23日夜、造長岡宮使の藤原種継は監督中に矢で射られ翌日に死亡している。この暗殺事件は根の深い対立を産み出し、桓武天皇の皇太弟であった早良親王にも嫌疑がかけられる。首謀者と目される大伴家持は春宮大夫を務めており、逮捕者の中にも皇太子の家政機関である春宮坊の官人も複数いたことより、早良親王は乙訓寺で監禁さることとなる。親王は身の潔白を示すため断食され、流罪処分となり淡路島に護送途中の9月28日、河内国高瀬橋付近(現在の大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死している。それでも刑は執行され、遺骸はそのまま淡路に送られ、その地で葬られている。この後都では天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、悪疫の流行、天変地異が発生している。これらが全て早良親王の祟りとされ、ついには延暦13年(794)の平安京遷都につながっている。事件の15年後の延暦19年(800)には早良親王を復権させ、崇道天皇と追号し陵墓を奈良に移すなどの措置を講じている。さらに洛北三宅に崇道天皇を祀る崇道神社を貞観年間(859~77年)に創建している。
さてこの項では、乙訓寺と空海との関係を中心に現在に至る乙訓寺の歴史を見てゆくこととする。
弘仁2年(811)11月9日、嵯峨天皇は太政官符をもって空海を乙訓寺の別当にしている。太政官符とは、天皇の裁可もしくは国政の枢要を担う太政官会議での決定を受けて、弁官局で文書が作成され諸司諸国へ発給される公文書である。空海の任命は以上のような手続きが執られたのであろうが、その裏には早良親王の祟りを恐れた宮廷は、大師の祈祷の効験に期待したという説もあるようだ。いずれにしても空海は入寺し寺院の修造を行う一方、乙訓寺を真言宗に改めている。空海が別当職にあったのは1年間で、その間も高雄山寺(現在の神護寺)との間を行き来していたようだ。
空海の入寺した当時の乙訓寺は、
というような有様だった。空海は国家料銭の支出を請い、乙訓寺の修造に充てている。
乙訓寺の本尊は合体大師像と呼ばれる秘仏である。空海が八幡大神の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神が現れ力を貸すので協力して一体の像を造ろうと告げた。八幡大神は大師の姿をもとに肩から下、大師は八幡大神の姿を写し首から上をそれぞれ別々に彫り上げた。出来上がった像を組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したと伝えられている。この像は制作縁起から互為の御影と語り伝えられ、本堂の付宮殿に祀られている。
弘仁3年(812)10月27日、最澄は奈良興福寺の維摩会の帰途、乙訓寺に一泊している。最澄は神護景雲元年(767)近江国滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生まれたとされている。空海の誕生が宝亀5年(774)であるので7歳年上にあたる。延暦23年(804)7月、最澄は空海と共に九州を出帆し唐に渡る。最澄が入唐求法の還学生に選ばれ官費による短期留学だったのに対して、私度僧であった空海は20年間日本に帰ることがない留学生として唐に渡った。最澄は既に天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたのに対して、空海はまったく無名の存在であった。
最澄は湛然の弟子の道邃と行満について天台教学を学び、さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然から禅、順暁から密教を相承する。延暦24年(805)5月、帰路の途中和田岬(現在の神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創している。そして滞在中に書写した経典類は230部460巻を携え、同年7月に上洛を果たしている。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒の祈祷を行っている。
これに対して空海は、長安の醴泉寺で印度僧般若三蔵に師事し、密教を学ぶために必須とされている梵語を身につけている。そして般若三蔵より、梵語の経本や新訳経典が与えられている。その後、密教の第七祖である長安の青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事し、大悲胎蔵の学法灌頂、金剛界の灌頂を受ける。そして伝法阿闍梨位の灌頂を受け、この世の一切を遍く照らす最上の者、すなわち大日如来を意味する遍照金剛の灌頂名が与えられる。元和元年(806)3月長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在し、土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集している。そして同年8月に明州を出航して、帰国の途についている。途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港している。そこで真言密教を開宗している。20年間の留学期間を僅か2年で切り上げ帰国した空海は、大同元年(806)10月大宰府に到着している。既にこの年の3月には、桓武天皇が崩御し平城天皇が即位している。さらに空海に入京の許しが出たのは大同4年(809)のことであり、平城天皇は退位し嵯峨天皇が即位した年でもある。
最澄が天台宗を究めるために唐に渡たり、帰国の直前に越州の順暁を訪ね密教を学んでいる。これに対して空海には最初から密教を学ぶ明確の目標があった。この2人の僧が帰国した当時の日本では、現世利益も重視する密教、あるいは来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教に関心が向けられていた。そのため最澄が始めて密教を日本に持ち帰ったものの、本格的な密教は青龍寺において修学した空海の帰国を待たなければならなかった。
弘仁3年(812)10月27日に最澄が空海を乙訓寺に訪れたのは、空海より密教の教えを受け天台教学の完成を目指したためと考えられている。空海より年長であり、さらに宗教界での地位も高かった最澄が、空海の弟子となり密教を学ぼうとした。空海は最澄に金剛界・胎蔵界の尊像、曼荼羅を見せ、高雄山寺での再会を約したとされている。既に空海は高雄山寺に永住することを決め、最澄と別れた同月29日には乙訓寺を去っている。
最澄はこの訪問の前に、空海より真言、悉曇(梵字)、華厳の典籍を借り、研究を行っており、同年12月14日、最澄は弟子の泰範、円澄、光定らと共に高雄山寺において空海より胎蔵界灌頂を受けている。
さらに翌弘仁4年(813)1月には泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣し、密教を学ばせることを申し入れている。3月まで弟子たちは高雄山寺に留まったが、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に戻ることはなかった。そして11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たのに対して、空海は拒絶する。ついに空海と最澄の交流はここに以って終了する。乙訓寺は、一時であったものの空海と最澄の間に交流があったことを示す遺蹟として記憶されることとなった。
寛平9年(897)第59代宇多天皇は突然皇太子敦仁親王を元服させ即日譲位を行っている。皇太子は即位し醍醐天皇となられる。これらは仏道に専心するためと考えられてきたが、現在では政治的な理由によって行われたと見られている。乙訓寺は宇多上皇の行宮とされ、堂塔が整備され寺号も法皇寺に改められている。このことは「山城名勝志」に以下のように記されている。
上皇は昌泰2年(899)10月24日に出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入り法皇となられている。そして昌泰4年(901)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰権帥として大宰府へ左遷する昌泰の変が起きている。
中世に入り兵火などにより乙訓寺は荒廃したと考えられている。平安時代の仏像や明応2年(1493)の修理銘の入った狛犬一対などがあるものの、中世文書は同寺に伝わっていない。室町時代、衰微したものの十二坊あったとされている。しかし内紛により、足利義満は僧徒を追放し、寺は南禅寺の伯英禅師に与えられている。そのため乙訓寺は一時、禅宗に改宗されている。その後、南禅寺塔頭の金地院の兼帯地となっていた。さらに永禄年間(1558~69)には織田信長の兵火により焼失し衰微したが、元禄年間(1688~1704)第5代将軍徳川綱吉の母桂昌院により再興されている。100石の寺領を持つ郡内では抜きん出た寺社となった。中興第1世となった隆光住持は、綱吉及び桂昌院の寵を受けた僧侶として有名である。隆光が金地院と、東山の豊国神社付近にあった文殊院屋敷と乙訓寺の交換により寺地を取り戻し、再び真言宗に改め「乙訓寺法度」を制定している。徳川家の祈祷寺となった乙訓寺には、諸大名・公卿の信仰も集まった。明治初年の廃物棄釈や第二次世界大戦後の農地改革など苦難の歴史を経て、「今里の弘法さん」として親しまれる寺院となっている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には現在と同じ乙訓寺の境内の姿が描かれている。本堂は元禄8年(1695)建立。正面3間の側面5間、一重宝形造の本瓦葺。前拝一間と後門一間。朱塗りの惣門(南門)も元禄8年(1695)建立、一間一戸の薬医門で切妻造本瓦葺。東門も元禄8年(1695)の建立、一間一戸の高麗門で両脇練塀付、切妻造本瓦葺。他に毘沙門天立像を祀る毘沙門堂と、太平洋戦争時に供出され1968年に鋳造された鐘がある鐘楼などがある。
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