松尾大社 上古の庭 その2
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ)その2 2009年12月9日訪問
松尾大社 上古の庭では磐座と磐境のことでほぼ費やしてしまったが、ここからは話しを上古の庭に戻す。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)には大判の松尾大社庭園設計図①と②が付けられている。①は上古の庭と曲水の庭を1枚で著したもの。②は蓬莱の庭のみの設計図である。重森三玲が設計した庭だから実測図ではなく設計図となる。実測図とは異なり、設計意図を表現したものであり、恐らくこれだけを見て施工することは不可能であったと思われる。大社で庭を拝観した後で、この設計図を読むと、色々なことが分かってくる。まず石は三段構成で積むことを意図している。設計図によると、先ず一番低い位置に13石を円弧状に配置している。その後ろに築山状に2つの丘を築いている。その先に7石をほぼ直線状に配置しようとしている。再び2つの丘があり最上段に8石を比較的集中的に置いている。
建物側には細かい砂利を敷き詰め、この範囲が拝観者の立ち入れる場所と定めている。その先には薄く石垣を積み、庭の始まりを宣言している。設計図の上では芝と丹波笹を敷き詰めることとなっているが、実際には柔らかな笹の斜面にしか見えない。また築山のように描かれていた起伏も、実際には山裾の奥から押し寄せてくる波のような表現になっている。恐らく5~6波にわたる起伏の上に巨石が据えられている。ここでも石は図的な構成ではなく、もう少し各石が有機的なつながりを持って配されていることに気が付く。先ず一番手前に左右に距離を置いた2石がある。その先に円弧状に置いている様にも見える。そして宝物殿の近くにはかなり高い位置まで石が置かれている。このあたりが磐境と考えても良いだろう。さらに二段目の石群がやはり左右に配される。これも磐境の一部と見える。そして最後の三段目は中央の2石が松尾大社の二神、大山咋神と市杵島姫命を現わしている。「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)には施工中の写真が掲載されているが、この二つの巨石が最初に置かれたことが分かる。中心部の5石が組みあがった後に、印象的な影向石が施工されている写真が続く。磐座を現わす石組の中で最も北に配置された石は北側の宙空を指し示すように斜めに据えられている。影向石は神が降臨する際に御座として使われるために配された石である。多くの石が斜面に対して前傾あるいは後傾するなかで、この影向石だけが斜面の傾斜と関係なく北側を指している。
上古の庭は回遊する形式で造られた庭ではなく、基本的には社務所側から見上げるように造られた庭である。磐座を構成する石がその手前の磐境の石とそれ程違いない大きさに見えるが、遠近感を考えると恐ろしく巨大な石を用いたことが分かる。先の「松尾大社造園誌」には18t級の石を8個、5~7t級の石を20個使用したと記されている。そして庭を拝観するものに松尾大社の二神が分かるように、磐境の石が配置されている。そのためにも磐座を囲むように磐境を置く必要があったともいえる。松尾大社の三庭に用いた庭石は、そのほとんどが徳島の緑泥片岩である。
宝物殿の縁を巡ると上部の磐座の比較的近くまで寄ることが可能になり、その石組の巨大さが伝わる。ただし、ここからの眺めは作庭者の意図したものとは異なっているようにも思う。この角度からでは磐境によって磐座が囲まれたようには見えない。また北側に設けられた塀の内側のメンテナンス用の通路を登りながら石組を眺めることも同様である。ただし下側からでは判らないような石の前後の傾斜がよく見て取れて面白い。一見、無技巧に見えるものでも必ずしも単純ではないことが分かる。恐らくここには立ち入ってはいけなかったのだろうと後で思った。この塀の外側に出ると松尾山にある磐座の登拝口につながる。この塀を意識的に低く抑えることで、上古の庭の石組の大きさを引き出している。塀の外側を登る際、塀越しに上古の庭を見ることも可能である。こちらからの眺めは、遠近感が無くなり、シルエットとしての石組の群構成の美しさが良く分かる。
「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に付けられた重森三玲の日記を読むと、昭和45年(1970)3月19日に河田晴夫宮司と出会っていることが分かる。同月30日には松尾大社に出向き、神楽殿や参集殿の位置を確認し、設計図について意見を述べている。これは松尾大社 松風苑 その2で記したように、「松尾大社造園誌」には重森三玲氏に初めて出会ったのは昭和45年(1970)の春であり、宝物収蔵庫、儀式殿、渡廊下等の位置形状等の顧問として設計上の指導をお願いしたという記述に一致する。 昭和49年(1974)4月28日の条には、朝から松尾大社神苑の設計に掛かったことが記されている。しかし来客があったため、上古の庭と曲水の庭の大体の設計で終わり、蓬莱の庭は中途で中止している。翌29日も昼間は設計ができずに夜に設計を行ったことが記されている。そして5月10日に門弟の斎藤忠一氏が設計図の清書を持参したので、ネームを入れ完成させている。これを同月25日に河田宮司に披露したところ、29日が大安であるため、造園の着工日としている。
昭和49年(1974)5月29日11時より松尾大社造園工事着手の奉告祭を執り行うが、実際に石組が始まるのは、6月9日からだったようだ。午後より3メートルもある巨石をレッカーを使い組上げる。この日は2石を組んで夕方をむかえている。恐らく松尾大社の二神の石を組上げたのであろう。翌10日は朝から石組を始めている。ここには上古の庭を作庭する心構えのようなことが下記のように記されている。
この石組は天津磐座だから、あくまでも無心に組む必要があり、更に又無技巧の技巧といったやり方でこそこそ神の立場で組むということより外ない。上代の人々はそのままで純真であるが、吾々現代人は矛盾に満ちている。それを純真な立場でということは中々至難なことである。庭としての石組でなく、磐座だけに尋常一様では組めない。すべてを超脱することにむずかしさがある。
この後、6月15・16日と三玲は石を探しに伊予に出かけ、四国から石が届いた7月3日の朝から磐境の石組を再開している。
夕方までに、ものすごい石組となった。これで全国庭中、上古以来これほど荒荒しい雄健な石組はないと思われるほどのものが出来て嬉しかった。すっかり疲れてしまった。
そして10日に磐境7石を円形に組み、11日にレッカーの故障に見舞われ2石を組み二段目の磐境石組の大体を完了している。三玲は23日と24日に高松へ再び石を探しに出かけている。7月31日は午後遅くから石組を開始し、磐境5石を組上げたのは7時半のことだった。翌8月1日は朝から磐境の石組に入り、午後自宅に戻るも、再び夕方には松尾に戻り磐境の最後の石組を行い、この日をもって磐座磐境の全部の石組を完了させている。すなわち6月9日より始まった石組は、2ヶ月弱後の8月1日の夕方をもって終了している。この日記を読む限り途中2回、石を探しに四国に渡るなど、実際に石組を行ったのは5日間ということらしい。
ものづくりをする者にとってはなかなか難しいことであるが、この項の最後に以下のような三玲の言葉を書き残しておく。
古い時代の内容のままとか、古い時代の形のままという庭を作ったとしても、実はその庭を設計したり施工したりするその人は、今の人でしかない。今の人は今の時代に生きている人である限り、厳密な意味では、絶対に古い時代の内容や、古い時代の形の庭を作れる筈はない。だからこの場合は、一種のイミテーション程度のものしか作れない。だとすると、これは何の意味もないことである。
従って、伝統的な古い時代の庭というものを再現するのではなく、古い時代のものをよく研究することによって、それを参考として、現代の庭を作るべきである。参考にするということは、イミテーションを作るということではない。とかく古い庭を参考にすると、古い庭に似たものになり易い。それも決してよいことではない。従って、古い時代の伝統的なものを作るということは、実にむずかしいことである。
そこで、古い庭を十分研究し尽した上で、そうした伝統を一切捨て去ることが必要である。それは一番大切なことだが、いちばんむずかしいことでもある。
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