大悲閣千光寺
黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ) 2009年12月20日訪問
渡月橋より大堰川右岸の大悲閣道を凡そ1キロメートル上流に歩くと、大悲閣千光寺へと続く石段が現れる。この石段の始まる左手には、松尾芭蕉の「花の山 二町のぼれば 大悲閣」句碑と称するものがある。確かに芭蕉は弟子の去来が買い求めた落柿舎に元禄4年(1691)4月18日から17日間滞在し、嵯峨の山川名跡を訪れ「嵯峨日記」を残している。しかし前記の句は「嵯峨日記」にも掲載されていない、出典不詳の句とされている。
司馬遼太郎の「街道をゆく 二十六」(朝日新聞社版 1985年刊)に仙台・石巻とともに嵯峨散歩が掲載されている。嵯峨散歩は「週刊朝日」昭和60年(1985)1月25日号、連載666回より始まっている。連載は、水尾の村、水尾と樒が原、古代の景観、大悲閣、千鳥ヶ淵、夢窓と天竜寺、豆腐記、渡月橋、松尾の大神、車折神社 と続く。すなわち司馬は、水尾の里から嵯峨に出て大悲閣、千鳥ヶ淵と大堰川右岸を歩き、天竜寺を拝観した後、その塔頭・妙智院で豆腐を食している。さらに渡月橋を渡り松尾大社へ、そして車折神社を参拝する道のりであったようだ。司馬は了以像を見るために大悲閣に登ったものの、冬季のため参道は途中で封鎖されており果たせなかった。恐らく昭和59年(1984)の年末に近い頃に取材したのであろう。そして千鳥ヶ淵の号で先の芭蕉の句碑について以下のように記している。
花の山二町のぼれば大悲閣
なにやら挨拶じみた句で、芭蕉の作品とするには気の毒のような出来である。芭蕉もこの句を『嵯峨日記』に入れていないし、重んじもしなかったようで、私の手もとの二種類の『芭蕉句集』にもこの句はない。おそらく地元で句会をひらいたとき、ひとびとの手帳にこの句が記録されたのであろう。
なお司馬は明治11年(1878)の碑文に「且ツ、此ノ閣ニ登ル道標ト為ス」とあることを示し、この句が実用を果たしていることも記している。そして司馬は、芭蕉が大悲閣に登ったとは考えていないこともこの随筆より分かる。
「嵯峨日記」(新編日本古典文学全集 71(小学館 1997年刊))の5月2日の条に下記のような記述が見られる。
二日
曽良来リテよし野ゝ花を尋て熊野に詣侍るよし。
武江旧友・門人のはなし彼是取りまぜて談ズ。
曽良
くまの路や分つゝ入ば夏の海
大峯やよしのゝ奥を花の果
夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、
嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮ニ及で歸る。
この日、曽良は落柿舎を訪れている。「曽良旅日記」(「天理図書館善本叢書 和書之部 第10巻」(天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編 1972年刊))によると、曽良は3月4日に江戸を出立し吉野・高野山・熊野・和歌浦・須磨・明石などを巡遊して、5月2日に嵯峨落柿舎に到着している。
「曽良旅日記」は「紙数百数」とあるが、表裏の表紙2枚を除いた全98丁の構成となっている。その内94丁には墨書きされているが、残りの4丁は白紙となっている。この旅日記には「神名帳抄録」「歌枕覚書」「元禄二年日記」「元禄四年日記」「俳諧書留」「雑録」が記述されている。最初の2つは奥の細道の旅のために曽良が事前に準備した部分である。3番目の「元禄二年日記」は正に奥の細道についての旅日記であり、11月13日の深川帰庵を以って終了している。今回の江戸から熊野を経て京に入る旅は「元禄四年日記」であり、「元禄二年日記」が終わる第52丁オ(表の意味)に引き続いて書き込んでいる。この「芭蕉紀行文集」は原本を写真複写したもので、残念ながら私の乏しい読解力では読みこなすことはできない。しかし上記の落柿舎に到着した5月2日から4日については、第59丁ウ(裏の意味)から第60丁オにかけて記されていることは分かった。
「嵯峨日記」では、芭蕉は曽良とともに大堰川に舟を浮かべ、戸難瀬のあたりから両岸の景色を楽しんでいる。しかし右岸に上陸して大悲閣に登ったとは記されていない。「新編日本古典文学全集」の註に従うと「曽良日記」には下記のように記されている。
サガヘ趣、翁ニ逢。去来居合。船ニテ大井川ニ遊ブ。
雨降故帰ル。次第ニ雨甚シ。
「嵯峨日記」の記述とほぼ同じだが、この舟遊びには去来も加わっていたことが分かる。また芭蕉が記したよりは、雨が激しくなったのであろう。この雨は翌日の3日も降り続き、芭蕉は曽良から江戸の話しを聞きながら夜明かししている。雨は4日の昼頃に止み、曽良は久我に向かう。この後、芭蕉も「五月雨や色帋へぎたる壁の跡」という句を残し5月5日には落柿舎を去っている。
以上のような状況からすると雨の降る中、芭蕉等は大堰川の舟上より大悲閣を臨んだに留まったと考えるのが妥当であろう。
槇野修著の「京都の寺社505を歩く 下」(PHP新書 2007年刊)でも、この句を地元の人の饗応を受けたお返しの挨拶句であり、舟遊びの時に得た距離感を詠んだものとしている。ただし、このあたりは司馬の嵯峨散歩の影響が見られる部分でもある。
現在、大悲閣千光寺は黄檗宗の単立寺院となっている。山号は大悲閣山とするものもあるが、大悲閣千光寺の公式HPでは山号を嵐山、寺号を大悲閣千光寺としているので、これに従う。もともとは天台宗の寺院で清凉寺の西の中院にあった。中院とは現在の右京区嵯峨二尊院門前北中院町で、「山城名跡巡行志」(「京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))によると、
中院 所名 四足門之西ノ町也
傳ヘ云愛宕山ノ末院古在二三所ニ一
山上ヲ云二上院ト 下院ハ者有ニ鳥邊ニ一 今大仏殿邊也
と記されていることから、愛宕社の中院があったことが分かる。後嵯峨天皇の祈願寺として中院に建立された千光寺であったが衰退していった。
慶長11年(1606)に保津川舟運開通を成し遂げた嵯峨の角倉了以が、同19年(1614)現在地に千光寺を移し、大悲閣を建立し二尊院の道空了椿を請じて中興の開山とした。
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