有智子内親王墓 その2
有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか)その2 2009年12月20日訪問
常寂光寺の山門を出て東へ道を進むと、100メートル足らずで視界が開ける。角には三宅安兵衛遺志の小倉山・常寂光寺・歌仙祠の碑が建つ。この石碑は愛宕街道に建ち、常寂光寺への曲がり角を示すためのものである。北東側には「北 二尊院 祇王寺 愛宕道」、南西には「南 亀山公園 嵐山」とある。現在、嵯峨野を訪れる人には無料の観光地図が配布されるのでその必要性は薄れているが、碑が建立された昭和4年(1929)には十分役割を果たしていたと思われる。 この角から見る風景が一番嵯峨野の魅力を感じさせる。目の前に広がる畑の奥には有智子内親王の墓と落柿舎が並び、密度の濃い木立の奥には嵯峨野の山々が見える。特に落柿舎の前の畑が宅地化されたら、この見事な景観は失われてしまうだろう。畑が駐車場などにならず、いつまでも畑のままでありつづけることを強く願う。
常寂光寺からの角より愛宕街道を北に50メートル進むと、有智子内親王墓に達する。丁度一年前にもここを訪れ、有智子内親王が賀茂神社の初代斎王となる契機となった薬子の変について簡単に触れているので、今回は有智子内親王の生涯についてもう少し書いてみる。 野宮神社 その2でも書いたように、伊勢神宮の斎宮が正式に制度として確立したのが天武天皇の時代であった。「扶桑略記」には、壬申の乱が終結した天武天皇2年(673)2月27日に天皇に即位し、大和国高市郡明日香清御原宮に都を移している。同年4月14日の条に以下のようにある。
以二大来皇女一。 献二伊勢神宮一。
始為二斎王一。 依二合戦願一也。
壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの第二皇女を捧げている。賀茂神社の斎院も弘仁元年(810)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、嵯峨天皇が有智子内親王を斎王としたのが始まりとされている。「延喜式」巻六 神祇六に斎院司がある。「定斎王」には下記のように記されている。
凡天皇即レ位。定二賀茂大神ノ斎王一。
仍チ簡テ二内親王未レ嫁者一卜之
[若無二内親王一者。依二世ウヲ次一。簡二諸女王一卜レ之。]
「延喜式」巻五 神祇五の斎宮とほぼ同じ記述となっている。すなわち制度の上では、譲位あるいは崩御された際に斎院は退下し、新たな天皇が即位すると新たな斎院が選ばれることとなっている。伊勢神宮の斎宮では即位毎に交代されることが多かったが、都に近い斎院では数代に渡って勤めることもあった。第16代の選子内親王は5代57年間勤めている。
初代の斎院となった有智子内親王は嵯峨天皇の第二皇女として大同2年(807)に生まれている。母は交野女王で、山口王の女であった。天智天皇、志貴皇子、光仁天皇、桓武天皇そして嵯峨天皇という系譜に対し、天武天皇、舎人親王、三原王、山口王、交野女王と連なる。三原王の子で山口王と兄弟となる小倉王の子の夏野は清原姓を名乗り、その女である春子は嵯峨天皇の後の淳和天皇の宮人となっている。また清原深養父、清原元輔そして清少納言も舎人親王の子の貞代王の末裔にあたる。
交野女王については不明な点が多い。「続日本後紀」巻十七の承和14年(847)十月戌午(廿六日)の条に有智子内親王が薨去されたことが記され、内親王の薨去伝が続く。その中に下記のような一節がある。
先太上天皇幸姫王氏所二誕育一也
所京子氏は「有智子内親王の生涯と作品」(聖徳学園女子短期大学紀要 第12集 1986年刊)で交野女王の乳母か母方が河内国交野を本拠とした漢帰化人系氏族、例えば交野忌寸などと推測している。嵯峨天皇の女御には百済王慶命や百済王貴命などの百済王家の子女が入っているので、交野女王が百済王家に関係していても不思議ではない。 有智子内親王が生まれた大同2年(807)時点で後の嵯峨天皇は未だ神野親王であり、平城天皇の即位した延暦25年(806)に皇太弟となっている。しかし平城天皇が病弱であったことから、大同4年(809)4月1日、神野親王に譲位し、同年12月には旧都である平城京に移り住んでいる。即位した嵯峨天皇は、すぐに平城天皇の子の高岳親王を皇太子に立てている。そして桓武天皇の皇女である高津内親王を妃とし、橘嘉智子と多治比高子を夫人としている。このような経緯から考えると、嵯峨天皇は橘嘉智子と出会う以前に交野女王と出会い、有智子内親王が生まれたと考えることもできる。
有智子内親王17歳の弘仁14年(823)2月、嵯峨天皇は斎院に行幸されている。花宴が催され、文人達に春日山庄詩を賦されている。内親王は見事な七言律詩を詠み、天皇より三品を授けられている。さらに詩文を究めるために文人召料として封百戸を賜っている。また母の交野女王にも従五位上が授けられている。
同年4月、嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位されているが、斎院の交替は行われなかった。内親王の退下は天長8年(831)12月壬申(八日)のことであった。「日本後紀」巻三十九逸文として「日本紀略」前篇十四に下記のように記されている。
賀茂斎内親王歳老身安依天令二退出一
この時、25歳であった内親王が“歳老”というのは腑に落ちないが、恐らく病等の理由を以って退下されたのであろう。天長10年(833)2月28日、淳和天皇が譲位され3月6日に仁明天皇が即位している。有智子内親王の異母弟にあたる。同日を以って内親王に二品が授けられる。「続日本後紀」巻三の承和元年(834)二月甲申には下記の記述がある。
伯耆国会見郡荒廃田百廿町賜二有智子内親王一
有智子内親王の詩文は、「経国集」が編纂された天長4年(827)を境として文献等から見出すことは出来ない。大曽根章介氏は「平安初期の女流漢詩人 有智子内親王を中心として」(「日本女流文学史 古代中世篇」同文書院 1969年刊)において内親王の詩が弘仁期の遺風を継ぐものであり、承和5年(1838)には白居易による白氏文集が渡来し、新たな詩文に移行していたと指摘している。恐らく内親王の詩作は、嵯峨上皇が健在であった承和9年(842)頃までは続けられたとも思われる。しかし上皇の崩御後の生活が生前と同じものであっただろうか?特に宇多・醍醐朝以降は和歌和文が盛んになり、漢籍は女性の手から奪い取られることとなる。次に女流漢詩人が現れるのは江戸時代になってからである。
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