京都御苑 近衛邸跡 その3
京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その3 2010年1月17日訪問
幕末期に近衛家の当主となったのは第27代の近衛忠煕である。文化5年(1808)に左大臣・近衛基前の子として生まれている。鷹司政通が寛政元年(1789)、九条尚忠が寛政10年(1798)、三条実萬が享和2年(1802)、鷹司輔煕が文化4年(1807)、青蓮院宮が文政7年(1824)、そして孝明天皇が天保2年(1831)に生まれている。つまり忠煕は鷹司政通と九条尚忠の次の世代にあたり、三条実萬や鷹司輔煕とはほぼ同じ頃に生まれ、青蓮院宮と孝明天皇よりは一回り上の世代にあたる。
忠煕は文化13年(1816)に元服、従五位上に叙位される。文政7年(1824)には正二位に昇叙し、さらに同年に内大臣に就任している。天保11年(1840)東宮傅を兼任する。仁孝天皇の東宮・統仁親王は後の孝明天皇であり、忠煕は皇太子の教育を司る役に就いている。弘化3年(1846)の孝明天皇践祚に伴い東宮傅を辞す。翌弘化4年(1847)右大臣、さらに安政4年(1857)正月4日に左大臣に転任している。既に京都御苑 九條邸跡 その2で記したように、文政6年(1823)に関白に就任した鷹司政通は、安政3年(1856)8月8日に関白を辞している。「維新史料綱要 巻二」(東京大学史料編纂所 1937年発行 1983年覆刻)の同日の条には以下のようにある。
関白鷹司政通ヲ罷ム。内覧故ノ如シ。勅シテ三宮ニ准ズルノ宣旨ヲ賜フ。
左大臣九条尚忠ヲ関白ト為シ、内覧・隋身・兵杖・牛車宣下等例ノ如シ。
九条尚忠は鷹司政通より9歳年下になるが、あまりにも長く政通が関白職にあったため、弘化4年(1847)6月15日に左大臣に就任して以来昇進がなかった。そのことに関しては、尚忠の行状の悪さや能力に疑問を感じさせる点があったとされている。また、政通の関白辞任は本人の意思ではなかったと思われるが、子の鷹司政通の昇進を考えるとこのような形になるのであろう。孝明天皇も九条尚忠に関白を任せることを決意したものの、関白を辞した鷹司政通に内覧を残しているのには尚忠に全幅の信頼を置いてなかった証だと家近良樹氏は「中公叢書 幕末の朝廷 若き孝明帝と鷹司関白」(中央公論社 2007年刊)において推測している。さらに政通は、安政3年(1856)12月9日に長年の勤労を嘉賞し特旨を以って太閤と称されている。これは同年10月25日に右大臣・近衛忠煕が提案したものである。もともと太閤とは摂政または関白の職を子弟に譲った人物を指すもので、未だ関白でない鷹司輔熙の父・政通が賜るべき称号でないにも拘らず、孝明天皇はこれを承諾しているのにも主上の政通に対する配慮が見られる。
そして安政4年(1857)正月4日に前年の8月8日に以来、九条尚忠が兼任してきた左大臣を近衛忠煕に譲ることとなった。そして空位となった右大臣に大炊御門経久が就任している。さらに2月8日には右大臣・大炊御門経久に替わって鷹司輔熙を昇格させている。関白・九条尚忠に実権がなかったことは明白であり、この時点においても宮中人事は政通を中心として巡っていることを見せ付けている。
この後の忠煕の官歴は、安政5年(1858)9月4日内覧宣下、左大臣は元の如し。同年10月19日内覧を辞す。安政6年(1859)3月28日左大臣を辞す。同年10月19日落餝という記述になる。この安政4年(1857)正月4日の左大臣就任から翌年の落飾までが、条約勅許問題から戊午の密勅そして安政の大獄による処罰の執行までにあたる。9月の内覧宣下から10月の内覧を辞すまでの期間が、京都御苑 九條邸跡 その6で記した所謂正義派による九条尚忠の排斥と長野主膳と島田左近等による復権活動の鬩ぎ合いでもある。そして有志者達を弾圧すべく、梅田雲浜、頼三樹三郎等の捕縛もこの時期より始まっている。
近衛忠煕の正室・興子は薩摩藩主・島津斉宣の女の郁姫であった。文政8年(1825)に近衛忠煕と婚約した際、斉宣は既に隠居させられていたため当時の藩主で兄に当る斉興の養女となり、名も島津興子に改めて近衛家に嫁いでいる。この輿入れの際に、上臈として郁姫に随行したのが幾島である。忠煕との間に忠房を儲けるが嘉永3年(1850)に死去。享年43。
忠煕と興子の子である近衛忠房も薩摩藩主・島津斉彬の養女・貞姫を正室に迎えている。この様に近衛家と薩摩藩の結び付きは文政年間(1818~30)より始まり、文久3年(1863)の貞姫の輿入れによってさらに強いものとなった。嘉永6年(1853)島津斉彬は第13代将軍徳川家定の御台所とするため、一門の今和泉領主・島津忠剛の女を養女に迎え篤子とする。そして安政3年(1856)に右大臣であった近衛忠煕の養女となり、同年11月に家定の正室となっている。この輿入れの際に、近衛家の上臈となっていた幾島が年寄として大奥に入っている。この篤姫輿入れに関する活動は、島津家々史によると嘉永6年(1853)9月頃より阿部正弘と島津斉彬との間で始まり、最終的には将軍継嗣にもつながって行く。この活動に松平慶永(春嶽)が加わり、一橋公擁立の色彩が色濃く表れてくる。そして慶永が橋本左内を、斉彬が西郷隆盛を立てたことにより、この両人が安政の大獄の際に継嗣問題で一橋派の代表者となる。
西郷は安政元年(1853)1月21日に島津斉彬の参勤交代に従って江戸に向っている。これが西郷の国事鞅掌の始まりとなる。同年7月5日に水戸藩の藤田東湖を訪ねている。そして翌2年(1854)12月26日に橋本左内が来訪し国事を論じている。これを機に左内とは数度にわたり面会を繰り返す。また5月1日には水戸藩の武田耕雲斎等と会い、一橋慶喜擁立の協力を求められる。同年12月には篤姫輿入れ準備のために奔走している。安政4年(1857)4月3日に藩主斉彬に従い、鹿児島に向けて江戸を立つ。この途上の京都、大阪で諸有志を訪問している。また熊本では長岡監物を訪問し時事を談じている。5月24日に安政元年(1853)の上府以来の始めての帰藩となる。11月1日に鹿児島を立ち、熊本、福岡を経て下関から船で江戸へ向う。12月6日に江戸に到着すると8日には越前邸に橋本左内を訪ね、島津斉彬の将軍継嗣に関する書簡を松平慶永に呈す。13日にも左内と面会し一橋擁立について協議を行う。さらに左内との間で三通の書簡を遣り取りしている。
安政5年(1858)1月19日、篤姫に働きかけ一橋擁立運動を行う。3月に篤姫の近衛忠煕宛ての手紙を携え京に向う。京では月照、津崎村岡と内勅降下についてはかる。3月20日に近衛忠煕の答書を携え江戸に帰り、3月25日には家老・鎌田出雲を訪問している。5月16日江戸の越前邸を訪れ、橋本に帰藩する旨を告げ、松平慶永より斉彬宛の書を携え翌17日に江戸を発ち、6月7日に鹿児島に到着している。
6月18日には斉彬の松平慶永と川路聖謨へ贈る書を携え鹿児島を発つ。24日に福岡藩主・黒田長溥に拝謁している。7月7日に大久保要を訪ね、6月24日の不時登城と翌日の継嗣決定により関東の形勢が一変したことを知る。10日に京都に入り、梁川星巌、春日潜庵等に会い時事についての意見を交換する。一度大阪に行き、再び京都の戻った後の7月27日に島津斉彬の急逝の報に接する。月照に慰められ帰藩して殉死することを思い留まる。
西郷は8月2日に京を離れ7日には江戸に到着し、水戸藩邸に家老・安島帯刀を訪問している。有村俊斎つまり後の海江田信義の回顧「続日本史籍協会叢書 維新前後実歴史伝」(東京大学出版会 1891年出版 1980年覆刻)によれば、水戸に下されるべき内勅を西郷が奉じて江戸に下ったとしている。これは同書の解題にも記されているように、内勅ではなく内勅案の写しであったと考えるほうが自然であろう。内勅の写しとされている引用文には月日が入っていないが、「尚忠公記」(「日本史籍協会叢書 九條尚忠文書1」(東京大学出版会 1916年発行 1986年覆刻))に記載されている勅諚にほぼ一致する。なお九条尚忠の書いたとされる添書は勿論「実歴史伝」にはないが、連署に一條内大臣忠喬(忠香)と二條大納言斎政(斎敬)の誤りが見られる。有村俊斎がその場に立ち会った実歴と思われるものの、このような誤記が信用を失う原因となっていることは明らかである。この後、海江田の言に従うならば水戸も尾張も内勅を請けることができなく、西郷は内勅の奉還を有村に託し、今しばらく江戸に留まったとしている。内勅あるいは内勅の写しの存在を証明するものはないが、江戸の西郷が京の月照に宛てた8月11日付の書簡(「西郷隆盛全集 第一巻」(大和書房 1976年刊)の三一)に「柳馬場の鍵屋へ御出会下され候て大封物御受取り下さるべく候」という一文が見られる。これが月照を通じて近衛公から8月2日の上府の際に渡された重大な密書が入っており、有村によって京に戻されたとしている。このあたりは「実歴史伝」の記事と一致する。この書簡には月照が近衛家の老女・津崎村岡への依頼の一文が付けられている。このように西郷は江戸の水戸藩邸に赴き勅諚受容れの打診を行い、京都の水戸藩留守居・鵜飼吉左衛門と関東の家老・安島帯刀との温度差を体感したことについては確かであろう。
そして25日に江戸を発ち、30日に再び京に入っている。井伊大老を排斥し幕政改革を行う道筋について諸有志と謀ったとされている。9月7日に江戸より上京した有馬新七と有村俊斎、伊地知正治と共に会合を行っている。この時期、水戸に降下した密勅の写しを土佐、越前、宇和島、徳島、鳥取の各藩に下し、義兵を募ろうとした。そのため西郷は大阪に滞在中の薩摩藩江戸邸守衛の交代兵を禁闕警衛に充てるべく動いていた。翌8日にも月照とこの計画について打ち合わせたが、9日になると月照が来訪し梅田雲浜の就縛を告げている。そして10日に近衛家の召しに応じ参殿すると、西郷は月照の保護を依頼される。月照が捕縛されると近衛忠煕に危険が及ぶためでもある。その日の深夜には京を出て伏見に入る。有村俊斎に月照を大阪で潜伏させることを依頼し、西郷は2人を伏見から乗船させている。自分は再び京に引き返し、鵜飼吉左衛門を訪ね、小林良典を通じて鷹司右大臣に勅書写しを各藩に伝えること、さらに各藩より義兵を募ることの説得を依頼している。そして15日より島津斉興公に大阪にある交代兵を禁闕警衛とすることを請う書を書き、17日には近衛忠煕に薩摩藩兵を禁闕警衛とすること告げ、さらには老中・間部詮勝が暴発した際には挙兵する計画を立案している。9月23日夜に大坂から下関に向う船に乗り、10月6日に鹿児島に入る。10月15日、薩摩藩より月照を日向で追放するように命じられたため、西郷は錦江湾にて月照と入水する。月照は亡くなり西郷は一命を取り留める。この後、西郷は文久2年(1862)2月12日まで奄美大島に配流される。
このように、「西郷隆盛全集 第六巻」(大和書房 1980年刊)の西郷隆盛年譜を追ってゆくと、西郷の京都滞在時間が限られたものであったことが良く分かる。安政4年(1857)春の帰藩の際に大阪及び京都に立ち寄ったこと、さらに安政5年(1858)の3月、7月、9月の計4回であったと思われる。また戊午の密勅が降下した8月8日は関東にいたことも分かる。そして有志達の捕縛の始まった9月は月照を京から逃がす間に、斉彬による率兵上京、水戸への勅諚降下の失敗に続き、最後の手として勅書写しの各藩への伝達と禁闕警衛の義兵召集に奔走している。
長野主膳の手が及んだのは安政5年(1858)9月18日のことであった。世古格太郎の「唱義聞見録」(「野史台 維新史料叢書 雑3」(東京大学出版会 1975年刊))によれば、18日に町奉行より差紙を以って父子呼び出しがあり、奉行所に出頭するとすぐに捕らえられ裏門から六角獄舎の揚り屋に送られ禁固となった。従者も聞いていなかったので空駕籠のまま立ち帰ったとしている。息子の幸吉は町奉行の命は受けないと言い放つと、幕吏は父が命に服したのに子は拒むのかと問うている。父とは別に禄を受けているので父には拘わらず命に応じないと答えたが、遂に幕吏は東町奉行ではなく老中・間部詮勝の命だと宣言し幸吉を縛している。世古は京人話として「唱義聞見録」に記している。吉左衛門は覚悟していたようで、「書付類は大体丙丁付して」出頭したとしている。しかし「大日本維新史料 類纂之部 井伊家史料10」(東京大学史料編纂所 1973年刊)に掲載されている長野主膳が安政5年(1858)9月20日付で宇津木六之丞に宛てた書簡(10・五八)と翌21日付で彦根藩家老宛に送った書簡(10・五九)には鵜飼吉左衛門が日下部伊三次に送った書簡を運ぶ飛脚を召捕り、内容を改めたことが記されている。有馬新七の「都日記」(「野史台 維新史料叢書 日記2」(東京大学出版会 1973年刊))によれば「九月廿三日の夜に我藩の士日下部伊三次老中松平和泉守より御用召有りて捕はれに就きぬ」とあるが、「維新史料綱要 巻三」(東京大学出版会 1941年発行 1983年覆刻)には9月27日の条に記されているので、日下部就縛の日を9月27日としておく。つまり鵜飼父子に長野の手が及んですぐに日下部も江戸で捕縛され、勝野豊作は失踪している。そして吉左衛門の書いた書簡によって宮中における正義派と有志達の関係が白日の下に曝される事となった。
長野が手に入れた鵜飼吉左衛門の書簡(10・五九)は、9月15日に日下部伊三次に送ったものであり、当時の京都の正義派の実情を伝えるものであった。情勢の悪化に伴い三条実萬が弱気になり、間部老中の上京を待ち意見を聞こうと譲歩している。また西郷が起案し近衛忠煕が進めている義兵召集についても不要とし忠煕を当惑させている。そして月照や池内大学が退避し、梁川と山本が病死、梅田は捕縛されているため、吉左衛門が小林良典を通じて鷹司輔熙に入説している。その上で下記のような一文を加えている。
赤鬼之方へ致一発切込もの有之候へは、直ニ林志(綸旨)を
出ス事は安きとの内話も御座候、御勘考可被下候
この一文より義兵を挙げて井伊直弼と対決することも視野に入れていたことが分かる。それを記した鵜飼から安島宛の書簡も長野の手中に落ちている。この書簡には西郷の名もあり、薩摩兵255騎、銃隊500大砲4門を伏見、土佐兵は大阪、長州兵は神戸に配備し、関東に兵を割いて手薄になっている彦根佐和山城に押し寄せれば、尾張兵も呼応するという西郷の計画が全て白日の下に曝されることとなった。
この記事へのコメントはありません。