光格天皇御胞塚
光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか) 2010年1月17日訪問
護浄院の境内に、五輪塔とともに光格天皇御胞塚の石碑が建つ。碑文は光格天皇御胞塚とあるだけで建立年や建立者も記されていない。碑文も摩滅し読み辛くなっているため、「第百十九代光格天皇御胞塚」という駒札が新たに建てられている。さらに読み方が示すために「おんえなづか」とふり仮名も付けられている。
胞衣とは胎児が生まれた後の胎盤などを表わす言葉である。胞衣は生命の誕生に関連するものであり、昔から神聖なものとして扱われてきた。妊娠し出産した後も子供が成人するまでは、胞衣は子供の分身として扱われていたようで、子の成長や運命に影響を与えるものと考えられていた。そのため胞衣を害するようなことが無いように埋納したため、胞衣納めという風習が生まれた。平城京跡から胞衣を納めた壷が出土していることから奈良時代には既に確立していたが、その起源は縄文時代まで遡ることができるようだ。
胞衣納めは単に胎盤だけを大事に保管するだけではなく、男児は銭や算盤、女児は筆などを埋葬品とする決まりもあった。埋葬する際は占いにより日時や場所を定めることもあったが、地域毎に言い伝えられた方法やしきたりも存在していた。そのため全国的に統一された方法で行われてきたものでは無かった。もともと奈良時代から平安時代にかけては天皇や公家が行う風習であったが、鎌倉時代に入り武士が台頭すると将軍家や武家も前の時代の権力者たちを真似るようになっていく。さらに近世に入り一部の人々の胞衣を神社や塚に納めるようになっていくと、胞衣信仰自体が大衆にも普及して行く。その様は俳諧や川柳そして落語にも残されている。例えば落語の氏子中には荒神様のお神酒で胞衣を洗うとその子の父親の紋が浮き出るという話がある。また「門徒寺土葬のやうに胞衣を埋め」という川柳も残されている。これらは胞衣信仰が民衆に広まっていた証であろう。
しかし明治になり西洋医学が日本に入ってくると、胞衣が伝染病の感染源と見なされるようになる。限られた人の胞衣納めは神社などで行われてきたが、全ての人々が出来た訳ではなかった。地域によって埋納の場所が異なるものの、多くの人々は家屋の床下や敷地内あるいは近くの川や山に埋めていたようだ。これらが悪疫の根源とされ隔離すべきものとなっていった。大正から昭和にかけ、胞衣及産穢物取締規則が各地で決議されると、自由に胞衣を埋納することができなくなる。胞衣は産汚物と共に、定められた取扱場で集積、焼却されることとなり、この条例に違反するものには罰則が設定されていた。これにより都市部から胞衣納めの風習が急速に失われていった。
胞衣塚を示す他の石碑は、フィールド・ミュージアム京都を探しても東山区五条通東大路西入北側の若宮八幡宮内にある孝明天皇御胞衣埋納所と北区紫竹牛若町の牛若丸胞衣塚の2箇所のみである。また吉祥院天満宮の境内には菅原道真の胞衣塚、また日野誕生院には親鸞聖人の胞衣塚があることは一般にも知られているのではないだろうか。これらは菅原道真や親鸞聖人本人を崇敬するのと同じく、本人の分身である胞衣塚も拝礼の対象となっている。
光格天皇の胞衣塚については、光格天皇実録(「天皇皇族実録 巻126 光格天皇実録 巻1」(ゆまに書房 2006年刊))には下記のように記されている。
二十一日、御胞衣ヲ清荒神ノ境内ニ納メラル、
[閑院宮日記] ○閑院宮所蔵
明和八年八月廿日、
一、御誕生若宮御胞衣被納候吉方、幸徳井主計頭ヘ勘進被仰付候處寅卯之間と勘文差上候也、
廿一日、
一、清荒神江御胞衣被納候、金子百疋添松代青銅貳十疋、外様持参、尤昨日案内申置候也
光格天皇つまり師仁親王は明和8年(1771)8月15日に閑院宮典仁親王の第6皇子として閑院宮邸に生まれている。母は大江(岩室)磐代という鳥取藩倉吉出身の医師岩室宗賢の娘であった。幸徳井主計頭は陰陽道を家業としていた幸徳井家の人で、胞衣を納める場所を占ったのである。そして降誕から7日目の8月21日に「寅卯之間」すなわち東北東から東の間にあたる清荒神に納めている。
後に仁孝天皇となる恵仁親王は寛政12年2月21日に光格天皇の第6皇子として生まれている。仁孝天皇実録(「天皇皇族実録 巻131 仁孝天皇実録 巻1」(ゆまに書房 2006年刊))には、やはり光格天皇と同じく胞衣を納める様子が記されている。
寛政十二年二月二十一日、午刻、降誕アラセラル、
是日、陰陽頭土御門泰栄、御産所ニ候シ、御乳付、御臍緒落、御湯殿始、御胞衣納、御産髪垂、御産衣著御始等ノ日時勘文ヲ上ル、是日、御父光格天皇ヨリ御守刀一腰及ビ御産衣ヲ受ケサセラル、
[寛宮御降誕書記]
寛政十二年二月廿一日
一 未半刻比土御門殿御産家ヘ御参有之、前大納言殿御面会後、勘文豊前守ヘ御渡、
今月今日若宮御誕生雜々日時
御ちつけの日時 今月今日きのへたつ 時今
御ほぞの緒をきらるべき日時 今月今日きのへたつ 時今
御湯殿の具を造らるべき日時 今月今日きのへたつ 時今
御うぶ湯めさるべき日時 今月今日きのへたつ 時申
但ひつじさるの方の流水を汲まるべし
御ゑなおさめらるべき日時 今月廿三日ひのへむま 時う
但ひつじさるの方へおさめらるべし
御うぶかみたれらるべき日時 今月廿六日つちのとのとり 時み
御うぶきぬめさるべき日時 今月廿七日かのへいぬ 時たつ
但みどり色のきぬをめさるべし
寛政十二年二月廿一日 やす栄
陰陽頭土御門泰栄とは陰陽寮の長官を務めていた土御門泰栄のことである。陰陽寮は奈良時代に天武天皇によって設置された中務省に属する機関で占い・天文・時・暦の編纂を担当する。土御門家は、阿倍晴明の14代目の子孫にあたる室町時代の陰陽師安倍有世の末裔で、泰栄は倉橋有儀の長男として生まれ、後土御門家に養子入りしている。当時の陰陽頭であった土御門泰栄が御乳付から御産衣著御始の日時までを皇子誕生の日に決めていたことが分かる。仁孝天皇実録の2月23日の条は下記の様に記されている。
二十三日、御胞衣納ノ儀アリ、
[寛宮御降誕書記]
寛政十二年二月廿一日、雨
御胞衣納日時等お末おまんへ申入置、持人白丁二人、御使番之供刀指一人、下部一人、并挑灯持松持両人。其外釣臺等廻。右之松御花壇奉行より受取酒肴ハ吟味役御賄より受取、明後廿三日晩、丑半刻御産家へ参着候様、仕丁頭小菅弥右衛門へ申渡、尤御使番茶代百文使丁同弐百文、呉服所より受取可申様と申渡す、
松樹一本明日植木屋より取寄仕丁頭へ被相渡候様、御花壇奉行水谷右衛門尉へ申渡ス、
右御場所竹垣并松植人夫等、卯刻社地へ参着候様、修理職岡田権大夫へ申渡ス、
御胞衣納之儀御場所等并参着刻限之儀、右を以前大納言殿へ申入、
一 明後日御胞衣納ニ付、白木長持一棹鋤鍬等、明日御産家江高岡平四郎相納候儀、可申渡様勘使帳役山岡久蔵へ申渡、湯川右近へも為心得申達置、
廿二日、
一 御胞衣西院春日社地へ被納候旨被仰出候ニ付,今日右神主ヘ案内申遣ス、半切紙ニ認如左、
以手紙申達候然者今度
御降誕宮様御胞衣、依吉方明廿三日卯刻、其御社地ヘ被納候旨被仰出候ニ付、役人壹人相添罷越候、御場所之儀ハ其節右役人可及御示談候、右之段可申入如此御座候以上、
二月廿二日
米川安芸守殿 勢多
右御請文到来使詰之使丁差遣ス使之仕丁ヘ茶代百文遣す、
廿三日、晴、
一 御胞衣納に付寅刻前のしめ著用出仕、進藤右近番町のしめ、非常附仕丁両人白張着用、外ニ釣舟持御使番ヘ刀指下部挑灯持等各丑半刻参集、
一 右相揃候段右近を以申上ル、前大納言殿御面会、御胞衣桶上ニ、御へら一対、大和錦二包、青石二、ゴマメ二、水引二結白練絹二包、御封致臺乗、御渡受取ニ而、進藤右近番町呼寄相渡、外ニ御燈明臺、宮様御用白木□とう臺、油杯二枚、鋤、鍬等白木長櫃ニ入鎰は進藤懐中ス、神主米川安芸守へ、為御祝儀金三百疋、色紙文とニ入、進藤へ相渡、長櫃ハ白丁之仕丁両人奉擔、右釣舟ニハ松樹一株御酒肴、御所より御用意、寅剋過出立、尤植木屋壹人同時ニ取越候様、昨日申付置、竹垣取立人夫并竹等用意、是ハ春日社地ヘ直接相廻候様昨日申付置候、
一 巳刻前のしめ着用御産殿ヘ参ル、
宮様御機嫌伺御局様御安否相伺候、
同時進藤右近番町御胞衣納無滞被為済候旨、御産殿ヘ帰参面会、於御場所御酒肴頂戴御礼有之并神主より御請伝達有之、今明日中ニ神主御請ニ罷出候由、白丁両人刀指草履取斗召連帰リ、其余ハ路より御所へ帰し候段、番町より届有之、
一 右無御滞被為済候、御届且恐悦申上候義、右近を以申上ル、御返答有之、
この寛宮御降誕書記から、仁孝天皇の御胞衣は西院の春日神社に納められたことが分かる。そして貴人の胞衣納がいかに大変な儀式であったかが上記の文書からよく伝わる。
ちなみに正親町家記の記述より、孝明天皇の「御胞衣ハ若宮八幡社地ニ被納」たことが、孝明天皇実録(「天皇皇族実録 巻134 孝明天皇実録 巻1」(ゆまに書房 2006年刊))で確認できる。さらに明治天皇についても、「明治天皇紀 第一」(吉川弘文館 1968年刊)にかなり詳しく記されている。その場所は吉田社境内で、「山上斎場を距ること八間、御産所より卯辰即ち東々南に当る地」であった。なお明治天皇降誕は嘉永5年(1852)9月22日であるのに、御胞衣の埋納が10月2日まで行われたことについて、明治天皇紀では下記のように説明している。
凡そ御胞衣は降誕の後二三日にして之を埋蔵するを例とする。然るに今度九月中に土用の節あり、降誕の後三日の間は猶其の節に属し、地を穿つを憚る。而して土用終れるの翌日は節替にして猶之れを忌む、二十七日は六日垂に当り、其の翌日は順子内親王の斎日なり、二十九日は七夜の礼を行ふ、三十日及び十月一日は共に日次宜しからず、仍りて是の日之れを行ふ、蓋し陰陽頭土御門晴雄をして予め勘ぜしむる所なり、
明治12年(1879)8月31日に降誕した大正天皇の御胞衣は、9月6日の午前8時に、「御苑内梅林御茶屋の西二十間の浄地」に埋納されたことが、「大正天皇実録 巻一」(ゆまに書房 2016年刊)に記されている。御苑とは青山御所のことと思われる。その場所には「穉松を植ゑて其の印と為す」とあるので昔らの伝統に基づいて行われたと考えられる。
昭和天皇についても、刊行されたばかりの「昭和天皇実録 第一」(東京書籍 2015年刊)の御胞衣埋納の条によれば、5月5日の早朝に「青山東宮御所内梅の御茶屋西後の丘に埋納され、丘上に松三株」を植えたことが記されている。恐らく大正天皇の御胞衣納の場所に近い位置と思われるが確認する術がない
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