織陣
織陣(おりじん)2010年1月17日訪問
宝暦・明和事件の背景とその影響を記すために、藤井右門邸跡から始まり、その2、その3、その4、その5までと、思ってもいなかった程の長文になってしまった。この明和事件の発生した明和4年(1767)は、幕末維新の100年前に当たる。まだ幕府の基盤も安定していた時期であり、尊王の意識はあったものの、実際に倒幕が可能だという見通しは藤井らにとっても無かったと思われる。現在から250年前に発生した小さな事件が、幕末維新の大きなうねりに繋がっていくためには、まだまだ多くの人々の登場を待たねばならなかった。
明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)は、初期の犠牲者として藤井右門、山縣大弐、竹内式部の3人を記している。明田氏は右門を「明和四年八月二十一日江戸で斬、獄門。」とし、獄死扱いにはしていない。しかし同年8月22日に処刑された山縣大弐や12月5日に三宅島で病死した竹内式部よりも、藤井右門の死が早かったために幕末維新に殉難した人々の中でも第一の犠牲者としている。その後には高山彦九郎、大塩平八郎、渡辺崋山そして高野長英等の有志達の名が続く。
烏丸通上立売上ルにある藤井右門邸跡を離れ、上立売通を西側に進む。室町通を越えて新町通を北に入っていくと左手に異形な建築が現れる。建築家の高松伸が設計した織陣である。織陣は3期に亘って建設されたもので、その第Ⅰ期の竣工は昭和56年(1981)、所謂バブル景気が始まった年にあたる。この建物は、ひなや本社社屋として事務所、展示施設として計画されている。建築名となった織陣はOrignを意図して付けられたが、京都の老舗の帯問屋さんの建物ということで、この漢字を使用したのであろう。第Ⅱ期が同57年(1982)、そして第Ⅲ期の織陣Ⅲが昭和61年(1986)に完成している。これ等の建築は同じ敷地内に東側から順次建設されていった訳である。
高松は昭和23年(1948)島根県仁摩町(現大田市)に生まれ、昭和46年(1971)に京都大学工学部建築学科卒業している。そして昭和55年(1980)同大学院博士課程修了し、高松伸建築設計事務所を設立している。つまり織陣は事務所を開設して直ぐに完成した作品であり、自らのデザインスタイルを確立した作品でもあった。昭和59年(1984)には日本建築家協会新人賞を受賞している。高松伸の公式HPに収められている彼のコラムを読むと、村野藤吾、カルロ・スカルパの名が出てくる。共に建築ディテールを磨き上げることで作品の質を高めてきた現代建築の巨匠である。恐らく直接的な言及は無くても、高松が目指す建築と同じ方向を歩んだ先人である。そして何れも建築を芸術作品の領域まで仕上げてきた建築家である。
高松が当時流行し始めたポストモダン建築の旗手として華々しくデビューし、1980年代後半の建築デザイン界に常に新しい作品を世に送り出して来たことを鮮烈に記憶している。ポストモダン建築とは、画一的なモダニズム建築への反省からこれらを打破する表現手法を見つけるための運動である。後により急進的な脱構築主義建築(デコンストラクション)へと続いて行く運動の初期のものであった。当時はその行く末を見通せる者も少なく、近代建築が否定してきた色々な表現を再び建築に取り戻そうと、あらゆる時代のデザインに皆が目を向けていた。確か、クロード・ニコラ・ルドゥーやエティエンヌ・ルイ・ブーレーそしてカール・フリードリッヒ・シンケルなどへの注目が始まったのもこの頃であった。つまり、今まで評価されてこなかったデザインが、ある日を以って認められるなど、建築デザインの世界が非常に速い勢いで変わっていった時代でもあった。例えば山下和正や石井和紘などのポップでキッチュな作品が台頭する中、アール・ヌーボー様式への傾斜の強い村野藤吾の建築や白井晟一の精神性の高い作品が再評価されるという両極端な動きもあった。
マイケル・グレイヴスのポートランド・ビルのデザインに賞賛が集まると、国内でも良く言えばグラフィカルな、その実態は書割としか思えない顔を持つ建築が都市の中にいくつも出現した。その中でもミース・ファン・デル・ローエの正統継承者であったはずのフィリップ・ジョンソンが、ニューヨークのAT&Tビルを発表した時の衝撃は大きかった。何と古典的なペディメントを頂部に載せた超高層オフィスを設計したのである。ニューヨークの中心に現れた巨大な置時計は、1922年に行われたシカゴ・トリビューンタワーのデザインコンペを思い出させるのに十分なインパクトを持っていた。ここに至り、遂にポストモダン建築自体が正気で行われているかを疑わざるを得ない状況となった。
このように余りにも多くの表現に関する試みが世界中でバラバラに行われたため、ポストモダン建築からデザイン運動としての共通性が失われていった。今から考えても何までがポストモダン建築であったかという領域すら分らなくなった。ただ玩具箱をひっくり返しただけの時代になっていることを強く記憶している。これはチャールズ・ジェンクスが1978年に「ポスト・モダニズムの建築言語」を記した頃から、この運動の結末はある意味で約束されていたのかもしれない。ジェンクスはモダニズム建築を乗り越える可能性のある潮流として8種類の建築も紹介している。このような混迷のシナリオはこの運動の開始時期から予想されていたことが今さらながら気付かされる。
さて日本におけるポストモダン建築の流行が、バブル経済の発展と同一時期にあったということを忘れてはいけない。今から振り返って見ても、ポストモダンの建築=バブルというイメージが定着している。確かにこの時代に建てられた建物は、それまでの高度成長期の建築と比べ、どれも高価な仕上げ材を使用するなど現在の建物と比較してもその建設工事費は巨額であった。そのような時代状況を背景として、機械の持つクールで鋭利で躍動感に満ちたイメージを建築デザインに持ち込んだのが高松伸であった。メタルワークを多く用いた伏見のARK 仁科歯科医院の設計過程が、Locomotiveという名でコラムに記されている。線路に面した敷地に計画されたクリニックは、一見して分るように蒸気機関車そのものである。ここでは建築自体が蒸気を吐き出し、遂には機関車のように動き出すのではないかと思わせることに成功している。ただし、これが彼の第1案ではなく、何と13番目に提案したものであることが彼のコラムから分る。そこまで直接的な表現を用いることに躊躇があったのであろう。しかしARKは織陣とともに高松の代表作となり、またポストモダン建築の展開を示す好例となった。
そのような高松伸の作品群の中でも、特に北山通の一連の商業施設や道頓堀のキリンプラザ大阪にバブルの時代の印象を色濃く残しているのは何故だろうか?単に個人的な感想だけではなく、どうも世間一般の感じるところと不思議に一致しているようだ。これは高松伸の作品に対する建築論評ではなく、バブル時代の建築に対する印象形成について述べていると理解して欲しい。若くして華々しくデビューした時期が丁度バブルの膨らみに一致したこと、必ずしも全てではないものの高価な素材を多用したこと、映画「ブラック・レイン」のように建築作品自体がメディアによってバブルの象徴として取り扱われ、印象付けられたこともあった。しかし高松の建築ディテールへの執着を理解できず、本来建築にとって必要の無い物を付加していると感じた人も、当時少なくなかったはずである、さらには若くして成功した建築家達に対する羨望を含めた複雑な気持ちが世間や建築界にあったことも否定し難い。若い美容師をカリスマ・デザイナーという言葉を使い持ち上げていたのも、この時代の週刊誌であった。そのような色々な記憶が入り混じって、高松伸の作品に対する複雑なイメージが出来上がったというのは言い過ぎだろうか。
さて、わざわざ織陣という作品を取り上げてバブル時代を思い出してきたことには、それなりの理由がある。それはこの織陣が既に解体され、この世に存在しなくなってしまったからだ。この訪問した2010年1月時点では、まだ撮影できる状態であったし、その後2011年6月にも再び撮影している。どうやら2013年頃に解体され、現在では洛和会ヘルスケアシステムの洛和ホームライフ御所北になっている。つまりポストモダン建築の代表作が、何の変哲もない介護付有料老人ホームに建替えられた訳である。これが現在の社会の要請であるということが強く示されている。
道頓堀の行灯として親しまれたキリンプラザ大阪が既に建替えられていることは有名な話である。北山通のWEEKもSYNTAXも既に姿を消している。また、東京都中央区新川にあったキリン本社ビルも既に解体され、Brillia THE TOWER東京八重洲アベニューになっている。一般的に個性的な建築はオーナーが変わると姿を消すことが多いとされているが、特に高松の商業施設はその傾向が強いように思われる。建築の個性を共感できる間は大事に使われるが、その建築の個性を理解できない者に所有権が移ると、残念ながら建築として使われることすら無くなるということらしい。
また高松の建築自体が、本来計画された時点の要求を満たすように設計されたもので、後に誰かの意思に依って改めることが困難なものなのかもしれない。世田谷区砧にある隈研吾のM2が東京メモリードホールにコンバージョンされた方が、むしろ珍しい事例なのである。元々スポーツカーのショールームとして計画されたM2は、最初の役割を果たし与えられた新たな使命がメモリアルホールであった。当初自動車の展示場であったため積載荷重を多めに見て設計していたのであろう。そのため機械設備の重い新たな用途への変更が技術的に可能であった。しかし生まれ変わった用途が葬祭場であったというのは、何とも皮肉である。元々イオニア式の柱頭を模した軽妙な建物外観は、厳かな葬儀を行う場としては少し居心地が良くない。まあ、ポストモダン建築の頃ならば、それも一つのジョークとして計画されたのかもしれないが、現在となってはみるとそのようなアイロニーも通用しない。
バブル景気を経験した者にとって、あの時代の印象を一口で表現することは難しい。何となく罪悪感を感じながらも、かつての元気があった時代への憧れのようなものを感じるという所が本音である。バブル景気自体は経済的に問題の多いものであったが、決してあの時代が全否定されるものではない。それでも憧れや懐かしさに後ろめたさを感じる。勿論、ポストモダン建築に対しても同じである。今から見るとつまらない建築を多く排出した時代であったという感が強い。しかし今以上に建築デザインに対する討論が行われ、活気に満ちた時期でもあったことは確かである。織陣の前に立った時に感じる大きな違和感とある種の懐かしさは、あの時代を経験した者の記憶そのものである。
古い京都の町並みが崩壊し画一的なマンションに変わって行く中で、織陣Ⅰの赤い御影石の壁面や織陣Ⅲの赤い屋根を持った黒い塔は、今から考えると高松伸による新しい価値観の提示であった。それは単にモダニズム建築に対する挑戦だけではなく、変わりつつある京都の景観に対する提案でもあったはずである。織陣は周囲の建物とほぼ同じスケール感で計画されている。巨大な建築を古い町家の中に持ち込むような乱暴なことを行った訳ではない。むしろ後になって建設されたマンションの方が町並みに大きな影響を与えている。つまり数軒分の町家の敷地を纏めたことで、この規模の建築が可能になったのである。これは顔の無い経済性というモノによる景観破壊に他ならない。
高松伸の代表作を失い変わりに得たものが、余りにも現在社会のニーズと経済論理による産物であったことを知り、例えようの無い喪失を感じている。それでも中途半端に保存され、当初計画と異なった使われ方をされるよりは、すっぱりと姿を消した方が織陣にとっても幸せであったのかもしれない。そう考えるしかない現状になってしまったのである。
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