藤井右門邸跡
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)2010年1月17日訪問
相国寺墓地の禁門変長州藩殉難者塔より、再び方丈の横に戻る。境内を南に歩き経蔵の角を右に曲がると塔頭の瑞春院と西門が見えてくる。この門は上立売通に建てられているので、境内を出るとすぐに烏丸上立売の交差点となる。横断歩道を西側に渡ると目の前に大きな藤井右門邸跡の石碑が現れる。尊王論者であった藤井右門が京都に構えた邸宅の跡である。
藤井右門について書く前に、宝暦事件と明和事件の経緯を確認する。既に一度、宝暦事件については慶光天皇廬山寺陵で触れているが、明和事件に至る過程を説明する上でも重要な事件となるので、改めてここに記す。徳富蘇峰は近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1964年刊)の刊行についての一文で以下のように述べている。
国典の研究は、必ずしも直接に、幕府制度に対する打撃でもなく、脅威でもなかつた。国学者は寧ろ幕府の現状に向つて、恭順であり、而して幕府の保護の下に、其の発達の若干を成就した。然も其の本質に於て、国学其物は、危険性を帯びてゐた。少くとも幕府制度と国学とは、其の根本観念に於て、相ひ両立し難きものであつた。是等の事情は、国学の諸先輩も、果してそれを自覚したる乎、幕府の当局者も、それに気付きたる乎。恐らくは当時に於ては、両者共に無我夢中であつたであらう。
儒教や仏教の影響を受ける以前の古代日本にあった独自の思想や精神世界を明らかにする国学は、すぐに復古思想と結びつき、やがて尊王思想に変わって行く可能性を秘めている。蘇峰は竹内式部の思想が山崎闇斎から発していることを指摘したものの、闇斎の思想が国体論や勤皇論と結びつき、やがて尊皇攘夷論に発展することを本人は予期していなかったと推測している。闇斎は一人の学究の徒であり。決して自らが革命家になることを目指してはいなかった。しかし彼が所信に向って驀進したことにより、その思想が彼の想像を超えた力を持つこととなっていった。蘇峰は、「深山の木葉を潜る数滴の水が、やがて滔々たる長江大河となる」と表現し、思想の伝播者こそが社会を変革させる有力な運動者と成り得るし、山崎闇斎や竹内式部こそがその当人であるとも記している。
そして蘇峰は宝暦事件を以下のように見ている。
宝暦事件は、決して京都対江戸の事件ではない。此れが事件として取扱はるゝに至つたのは、江戸からの干渉でもなく、注意でもなく、警告でもなく、刺激でもない。江戸とは寧ろ殆ど没交渉であつた。
然らば何故に事件化した乎。そは京都に於ける公家仲間の葛藤の為めだ。詳に言へば、摂関家対平ら公家間の葛藤だ。
朝廷の儀式の復古に力を入れ、大嘗祭の再復活や新嘗祭、奉幣使などの他の儀礼の復活にも力を注いできた桜町天皇は、延享4年(1747)に第一皇子の遐仁親王(桃園天皇)に譲位している。桜町天皇の推し進めた朝儀復興は朝廷の権威向上を目指すものであった。さらに譲位も幕府からの干渉を避けるための院政を狙ったものという見方もある。しかし譲位から3年後の寛延3年4月23日(1750)に31歳の若さで崩御したため、院政を敷く余裕は与えられなかった。
遐仁親王の母は典侍の姉小路定子であったことより、父である桜町天皇の女御二条舎子の養子となり、儲君治定、親王宣下、立太子を経て桃園天皇として即位している。天皇は寛保元年(1741)に誕生しているので、即位した時は僅か7歳であった。後光明天皇の御再来と評判されるような英邁な君主でもあった。幕府は禁中並公家諸法度を制定し、天子には和歌及び源氏物語や伊勢物語等の学問を奨励し、兵馬や政治に関心が及ぶことを避けてきた。後光明天皇はこのような花鳥風月を愛でる学問に飽き足らず武芸を好んだ。このことについて諌めた京都所司代・板倉宗重と衝突するなど、父の後水尾帝同様、幕府に対しては物言う天皇でもあった。桃園天皇もその気性は引き継いでいたようである。
若き天皇にとっての障害は京都所司代の松平輝高ではなく、当時の関白・近衛内前等であった。元々摂関家が幕府の手先にも似た行動を行うのは、単に摂関家としての現状を維持するためのことであり、自己防衛の一環であった。そのために天皇に対して、承久の乱の前例を持ち出し、その行動に慎重を期するようにと圧迫してきた。
桃園天皇の向学心を示し始めた様子を、徳富蘇峰は「宝暦明和篇」で岩倉家筆記に残された岩倉具集の言葉を記している。
桃園院帝、宝算巳に十五(宝暦五年)と為り玉ふに因り、徳大寺公城、久我敏通は、君徳を培養するを以て、急務と思惟し、議奏東久世宰相通積と商義して、山崎闇斎の学説を聞こし召し玉はんことを言上あるに、桃園院帝速に採納し玉ふ。因て侍讀伏原宣條は、其師竹内式部の説に依り、大学章句、孟子集註を進講せり。桃園院帝の山崎闇斎の学説を聞こし召し給ふは、後光明帝の漢唐の古注を捨てゝ、程朱の新注を取り玉ひ、侍讀の堂上に、我より古を為すと仰せ玉ひし聖慮に劣らずと、有志の堂上は皆雀躍感喜せいしとぞ。
桃園天皇に二三の公卿が竹内式部の学説を進講したことが宝暦事件の発端であり、その予兆は以上のように宝暦5年頃まで遡ることができる。この事件は由比小雪等が引き起こした慶安の変ほどは一般に知られていない。それは慶安の変が直接幕府の転覆を狙った計画であったのに対して、宝暦事件にはそのようなことが見られなかったからである。しかし由比小雪の際とは異なり、今回の事件は朝廷の周辺から発生し、後に尊王思想の発達を進めたため、より重大な影響を後世に与えたとも言える。そういう別の観点から見ると、宝暦事件と明和事件における幕府の処置が注目される。
事件の主犯とされた竹内式部は、正徳2年(1712)現在の新潟市本町通九番町の医師の家に生まれている。式部の幼名は分かっておらず、その式部も後に徳大寺家に仕えた後より用いたものである。晩年には正庵と称しているが、これは家代々の通称である。名は敬持で羞庵と号している。事件後の松岡仲良口書本紙によれば、「右式部儀、十七八歳之節、国元より罷登り候由にて、則私儒学神学門人に相成、四年程指南仕、其後神学は、私師匠玉木韋斎え私世話仕候」とあるので享保13年(1728)頃に京都に出てきたと考えられている。すぐに徳大寺家に賓師と迎えられたわけでないので、おそらく最初は僕として仕えたのであろう。当時の徳大寺家の当主は享保16年(1731)に権大納言となった徳大寺実憲であった。しかし元文5年(1740)病に罹り、同年7月16日に享年27で薨去している。徳大寺家を継いだのは享保14年(1729)生まれの公城であった。公城も父同様に清華家当主として速い昇進を繰り返し、寛延元年(1748)には従三位となり、公卿に列している。その後も権中納言・踏歌節会外弁を経て宝暦4年(1754)に権大納言となっている。式部は父の実憲と年少の公城の二代に仕え、特に公城に大いなる感化を与えたと思われる。
式部の学説については、本来それを一般に広めるための著述がほとんど残っていない。また文章あるいは詩歌もないため、学説に留まらず式部自体の人物像も明らかになっていない。例えば明和事件で捕えられた山縣大弐には柳子新論という著書があるので、その学説は現在の私達にも伝わる。しかし式部に関してはそれがないために不明となる部分が実に多い。
蘇峰は竹内式部について下記のように表現している。
彼は徂徠派・堀川派の如く、純粋の漢学者でなく、又た荷田東満や、賀茂真淵の如く、純粋の国学者でなく、山崎闇斎晩年の学問、殊に垂加流の神道を学び、加ふるに崎門の高足、浅見絅斎一派の学問、即ち国体を重んじ、王を尊び覇を賤しめ、大義名分を明らかにし、気節を砥礪する底のものであつたであらう。要するに彼は、書斎的な学者でなくして、寧ろ教育家的の学者であり、更らに世間的な学者であつたらしい。
蘇峰の最後の一文が本質的な竹内式部像であるように思う。式部の門人は公卿から地下の人々、そして一般の人々まで及び、全国で七百とも八百人とも謂われている。これらの門人の核となる部分は、彼の口供書に列せられた公卿の名前を見れば明らかである。そして、その大部分が中以下の公家であったことも、宝暦事件の持つ様相を良く現わしている。恐らく式部は自らの学説の新しさによって門人を集めたのではなく、接する者を感化させる能力に長けていたことにより、門人を拡げたと考えられる。
徳大寺公城の日記に依れば、宝暦7年(1757)正月、桃園天皇は史記侍讀を行っている。そして同年6月4日には日本書紀進講に及んでいることが分かる。徳大寺を始めとする式部の高足門人の公卿たちは式部の垂加説を御前にて講読する機会が到来したことを喜んだが、これを猜疑の目で眺めていた者も存在していた。これより前の宝暦6年(1756)12月18日に伝奏より京都所司代に竹内式部の風説についての調査依頼が出されている。これは同年4月頃に主上の近習等が武芸を嗜む様になってきたことから発しているようだ。式部は同年12月22日に奉行所に呼び出され、糺問が行われるが構い無しという判断となった。
宝暦7年(1757)3月16日に一条道香が関白を退き、近衛内前が就任している。内前は式部一件について前関白より引き継がれたので、右大臣・九条尚実、大納言・姉小路公文や烏丸光胤等と事を穏便に終結するための協議を行っている。先に引用した岩倉具集の言葉の後段には以下のような記述がある。
此後同七年の夏に至り、正親町三条公積、西洞院時名は、議奏姉小路大納言公文と商議し、更に神書を聞こし召さんことを言上あり。桃園院帝之を允し玉ふ。徳大寺公城、坊城俊逸、高野隆古、西洞院時名、及び白川右中将資顕等は、小番に更るぐ日本紀を進講し、竹内式部の説を用ひらる。
元より前関白・一条道香、そして紆余曲折があったものの主上の養母である青綺門院は、主上への神書進講を反対している。当時の5議奏の内、正親町三条公積と東久世通積は積極的な賛成派、姉小路公文、五辻盛仲、葉室頼要は事に冷淡ではあるものの賛成派であり、伝奏の柳原光綱は鮮明な反対派、広橋兼胤は曖昧な反対派であった。関白・近衛内前は上記のように穏便な解決を望んだが、前関白と女院(青綺門院)の強硬な反対、そして右大臣・九条尚実もこれに追従しているため、事態の収拾に苦慮していた。
同年8月16日、主上への垂加流神書進講が女院及び大官の諌止により中止となる。しかし桃園天皇は、9月29日に女院に対して書付を以って進講の再開の宸意を明らかにしている。この時は女院の説得により収まったが、同年11月12日、宝暦8年(1758)正月27日にも明確な宸意が示されている。そして遂に同年3月25日より神書進講が、関白近衛内前臨席の下隠密裡に再開される。
このような流れに対して、摂関家を中心とした反対運動は同年6月頃から活発になる。反対派の中核は前関白・一条道香、関白・近衛内前、右大臣・九条尚実、内大臣・鷹司輔平であった。6月6日、関白は道香等の進講中止奏上委任を携え参内、女院からの依頼を受けた姉小路公文と共に長時間に亘り主上に奏上を繰り返した。1に女院の反対、2に重臣等全ての反対の2点をその根拠とした。これにより6月10日の進講は取り敢えず中止、さらに同日に正親町三条公積と徳大寺公城に対し近習御免の儀が申し渡されている。
しかしそれでも主上の垂加流神道に対する気持ちは変わらず、愈々摂関家との衝突が避けられなくなる。反対派は問題の原因となっている近臣の一掃を図るため、6月末には京都所司代に竹内式部処分を依頼している。しかし式部の罪状を吟味しても何等新たな罪状は現れなかった。それでも式部の門人である日野資枝が師匠である式部と同学生への絶交を神文として提出すると状況は変わって行く。
反対派の摂関家は日野を取り込み、再度竹内式部の罪状を作り上げ所司代に追及を迫ると共に、7月23日近衛家に集い、正親町三条公積、徳大寺公城の永蟄居を始めとした公家27名の処分案を作成する。翌24日、近衛関白は右大臣、前関白以下を伴い女院御所に参り前日の説明を行った後に参内、事前に説明のないまま主上に拝謁を求める。勿論、彼等の拝謁の目的は近臣一掃についてであろう。遂に主上から「せう事がない、どふなりとも宜申付」の聖旨を引き出すことに成功する。このような厳罰を関東への相談もなく断行した朝廷側に対して、所司代は伝奏に対して苦情を申し入れている。
竹内式部父子に対する処罰の申し渡しは宝暦9年(1759)5月6日に行われている。申渡書の正文は下記の通りである。
其方儀、堂上方え神書相伝候。堂上方々は神道其家々も有レ之事に候得者、被二相望一候共、相断可レ申処無二其儀一、殊経学計指南いたし候由申候得共、靖献遺言等、堂上方へ致二講義一、其上三本木え堂上方被レ参候節、罷越酒宴いたし、都而教方不レ宜に付、堂上方弟子之分御咎被二仰付一候。殊に色々軍書、武器等之風聞も有レ之候付、武蔵、相模、上野、下野、安房、上総、下総、常陸、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、甲斐、駿河、河内、近江、丹波、越後。
右国々追放被二仰付一候。
一番に公卿に神書を教えたこと、さらに経学や浅見絅斎の靖献遺言を教えたこと、三本木での堂上人の酒宴に参加したこと、そして軍書や武器等集めているという風聞が流れていることが罪状として挙げられている。しかし何れも重追放に結びつくものではなかったが、朝廷から要請された京都所司代としては罪状を上げ処罰を行わなければなかった。
最後に三本木事件と堂上人の処罰について書く。三本木事件とは宝暦8年(1758)5月29日鴨川で洪水が発生した際に、川沿いの三本木の座敷を借り見物をした公卿がいたということのようだ。これは鹿ケ谷の密談のような陰謀の類ではなく、単なる公卿達の物見遊山であった。しかし式部の門人の公卿が関与し、市中の風評に上ったためこれが処罰の格好の名目となった。竹内式部の追放が決まった2日後の宝暦9年(1759)5月8日には堂上方に対する三本木事件の処分が行われている。町尻、高倉、高野、西洞院、勘解由小路は既に蟄居等に処せられていたのでその沙汰はなかったが、議奏であった東久世は差扣、冷泉、三室戸は急度叱りを申し付けられている。
更なる処罰が翌10年(1760)4月29日に下されている。徳大寺、正親町三条、烏丸、坊城、高野、西洞院、中院の7名に対して落飾、一家に預けられ永蟄居となった。また今出川、高倉、西大路、桜井、裏松、町尻の7名は所労を名目として出仕致さないように申し付けられている。このようにして桃園天皇が近臣と頼んだ垂加説を奉ずる公卿達は見事一掃された。
この宝暦事件は、摂関家と中流公家の間で行われた主導権争いであったが、直接的に摂関家と中流公家の間に闘争があった訳でなく、桃園天皇を介して行われた点に大きな問題があった。英邁であったが、未だ17歳の青年に摂関家が養母を味方に付け、圧力を掛けて近臣を一掃することを承引させている。さらに京都所司代を使い竹内式部の罪状を強引に作り出している。明らかに幕府は朝廷によって、この事件の幕引き役を演じさせられている。これが宝暦事件の本質であった。
若い天皇の失望はとても大きなものであっただろう。そして天皇も宝暦事件の処罰が下された2年後の宝暦12年(1762)7月21日に世を去った。
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