藤井右門邸跡 その3
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その3 2010年1月17日訪問
藤井右門邸跡 その2では、明和事件の主犯とされる山縣大弐の経歴と事件の遠因となった柳子新論、そして事件の発端となった小幡藩での吉田玄蕃監禁について書いて来た。この項では山縣大弐逮捕に至った経緯と関係者に対する処分について書いてみる。
吉田玄蕃監禁事件の関係者に対する処分を明らかにするために、明和4年(1767)8月21日の小幡藩の国替、藩主の交代と隠居蟄居が行われたことまで記した。再び監禁事件が発生した明和3年(1766)12月まで時間を戻す。上記のように小幡藩内で監禁事件が発生し、玄蕃の罪案に山縣大弐が関係していたことが、どのような経路かは分からないが江戸の大弐の門人にも伝わっている。門人で浪人の桃井久馬と佐藤源太夫、禅僧の霊宗、医師の宮澤準曹は自らに禍が降りかかるのを恐れ出訴している。幕府は桃井等の針小棒大な申立によって容易ならぬ謀反が企てられていると考え、明和3年(1766)12月21日に大弐逮捕が実行される。与力・三井伴次郎が大弐の自邸を訪れ、奉行所への同行を求めている。逮捕の場にあっても泰然自若たる大弐の態度にうたれた与力は縄を打つことなく奉行所に連行した。門人の富永道生、盲人の東壽、僕の弥助等もこの時に捕えられている。
そして今回の訪問地の住人であった藤井右門も吉原に誘い出され捕縛されている。右門の宝暦から明和に至る経緯は次の項で改めて書く予定であるので、ここでは詳しくは書かない。右門が逮捕されたのは、当時大弐の家に同居していたためである。奉行所は大弐の自邸を謀反の巣窟として念入りに捜索したが、何等目ぼしい書類も出なかったようだ。既にこのような日が来ることを予期していた大弐が処分したためであろう。
元々、幕府も奉行所も山縣大弐の内偵を進め自らの手で摘発した訳ではなかった。むしろ桃井らの出訴によって事件となった節がある。恐らく逮捕当初は桃井らの証言により謀反の企てを疑ったと思われるが、幾ら調べてもそれを立証する証拠が現れなかったのであろう。また当時の幕府は大弐等に対して拷問などを用いた形跡もない。つまり嫌疑者一同に対して厳科に処そうとも思っていなかったのであろう。この辺りは、ほぼ百年後に行われた安政の大獄とは様相が大きく異なっている。
ただし事件として大弐等を連行した建前上、無罪に処すこともできない。さらに柳子新論の作者で幕府にとって危険思想の持ち主と見ていた人物であるので、何らかの罪状を示さなければならなかったというところが真実であろう。逮捕から宣告に至る8か月間に、竹内式部が伊勢より、大弐の兄である市郎右衛門と地守の孫八、そして幼少の大弐に学問を付けた加々美光章とその子で山王権現神主の加々美光起等が甲府より江戸に拘致され、取調べを受けている。この頃より大弐の罪は、謀反ではなく、彼の思想自体に移って行ったのではないだろうか。
明和3年(1766)12月21日に逮捕された山縣大弐の処罰が決定したのは、翌4年(1767)8月21日のことであった。これは小幡藩での処罰と同日であった。山縣大弐の宣告は以下の通りである。
長澤町安兵衛店浪人
山縣大弐
四十三歳
其方儀、常々弟子共へ渡世又は芸術の励にも候間、門弟其外入魂致候得ば、兵乱或は変事有レ之候節、何れの用にも相立、事に寄り立身等致べき旨申聞候段、兵乱を好み道理に相当り、且又甲府御城付御武具員数の儀ども覚え候に任せ、申散し、熒惑星心宿に掛り、右は兵乱の萠の由、古書に有レ之候処、其後上州辺百姓ども騒立候間、少は其験有レ之事の由相咄し、当時は禁裏行幸も無レ之、囚同前の由雑談致し、堂上方の、古賀に背ける趣を草紙に認め、或は兵学の講釈致し候に付、地利へ引当ず候ては、相分り難き品は、甲州其外、見聞に及び候国の地利、地名、城々へ引当て、御要害の場所を譬に取用ひ、講釈致し候儀ども、旁恐れ多き不敬の至、不届至極に付、死罪申付る。
徳富蘇峰は近世日本国民史「宝暦明和篇」(時事通信社出版局 1964年刊)で大弐の罪が何であったかを下記のように記している。
此れも亦頗る意義が明瞭を欠いてゐる。但だ強ひて、其の文脈を辿りて、推定すれば、
(第一)兵書を講じ、生業を営むに際し、其の門人等に向て、一旦緩急に際し、奇功を建て、立身す可き旨を語りたるは、兵乱を好む意味合となりたる事。
(第二)甲府城の武器員数等を、覚えに任せ(按ずるに大弐は會て甲府城の与力であつた)言触らしたる事。
(第三)熒惑星心宿に掛る、是兵乱の徴。即ち上州に於て、百姓の騒ぎありたるは、其の徴候と云ひたる事。
(第四)主上を押籠め奉り、幽閉同様になしつゝありと語りたる事。
(第五)堂上方の古実に背ける事を、文書に綴りたる事。
(第六)兵書を講ずるに、甲州其他の要害を、実地に於て、引証したる事。
要するに、以上に他ならぬ。此れでは固より謀反と云ふ可き筋は、一点もない。但だ詮じ来れば、処士横議と云ふ迄だ。されば之を不敬と云うたのは、他に罪名の付け様が無かつたからであらう。
以上のように山縣大弐の処罰は「旁恐多き不敬の至、不届至極に付、死罪申付る」であった。翌22日に刑に処せられ、その門人小泉養老等は、遺骸を四谷全徳寺に葬っている。全徳寺は廃寺となったため同じ四谷の全勝寺に移されている。大弐は罪人であったため、山縣家とは名乗らず斎藤家の墓に葬られている。大弐の最初の妻は甲州龍王町の斎藤左膳の娘で次郎兵衛という子を生んだ後、宝暦8年(1758)8月晦日に病死している。大弐は前妻の眠る墓に合奏された訳である。ちなみに小幡藩の吉田玄蕃と親交を深めたことにより、上州那波郡馬見塚村の深町半弥の妹を後妻に迎え、次男の長蔵を得ている。後に今村長順を名乗り伊勢崎藩藩医となっている。しかし明和元年(1746)に大弐は離縁し、妻と息子を生家に帰している。これは謀反の企てのためではなく、日頃の言動より後難が家族に及ぶことを予期して行ったことと考えられている。
大弐の兄の市郎右衛門の宣告は以下の通りである。
久保平三郎代官所、甲府巨摩郡龍王新町に元居候百姓
山縣斎宮事 市郎右衛門
四十六歳
其方儀、先達て病死致し候百姓市郎右衛門株を相続し、人別帳への市郎右衛門と記し置候上は、百章に相成候処、他国へ罷越候節は、以前の通り、山縣斎宮と名乗り、帯刀致し、且又弟、永澤町浪人山縣大弐兵学講釈の節、甲府其外御要害の地利、地名へ引当て、攻方防方等の儀申散し、不敬の至に候所、譬に申聞候事は、苦からずと差置き。心附も無レ之罷在候段、不届に付、追放申付る。
市郎右衛門は野沢豊後と姓名を改め、東海道鞠子駅の長禅寺に住み、寛政12年(1789)閏4月7日に75歳にて没している。
甲府から江戸へ送られた地守の孫八加々美光章とその子の加々美光起、そして大弐逮捕の日に奉行所に引っ立てられた門人の富永道生、盲人の東壽、僕の弥助、さらには長澤町家主や柳荘に出入りしていた諸藩の武士は構い無しとされ一件は8ヶ月の時間を経て落着している。
山縣大弐の墓のある四谷の全勝寺には、大弐の刑死から200年さらに明治100年にあたる昭和42年(1967)に山縣大弐記念碑が建立されている。大弐の命日である明和4年8月22日は1767年9月14日になるが、どういうわけか碑の建立は9月3日になっている。表面には山縣大弐のレリーフと柳子新論の一節が記されている。第12篇利害の
而志在興其利 則放伐亦且以可以為仁矣 無它與民同志也
の部分だと思われる。碑面が読み辛い状態にあったので、使用した漢字が異なっているかもしれない。「人民の利益を興すことを志すならば、君主を放伐することさえも仁と認めることができる。それは人民と志を同じくするからである。」という大弐の討幕思想の現れを示す一節である。戦後になってからの建碑であるから尊王討幕というよりは革命思想の発露としてこの言葉を選んだのだろうか。裏面は以下の通りである。
明治維新ノ思想的・実践的先駆者デアツタ山縣大弐ノ没後二百年ヲ記念シテ明治百年ノ年大弐ノ命日ニコレヲ建ツ
一九六七年九月三日
日本人民有志
山縣大弐の墓は全勝寺の墓地に入り左に進んだところにある。4つの墓石が一列に並んだ中の右側から3番目に山縣氏一族累代一切諸精霊等とあるので合葬墓である。右から
俊昌院卓英良雄居士 明和四亥八月廿二日
俊貞院歓山妙喜大姉 宝暦寅八月晦日
正体院金岳良剛居士 安政四巳七月廿五日
正寿院英林貞■大姉 明治十三年■月十二日
の4人が葬られている。最初の2人が山縣大弐と病死した前妻である。この二人の間には次郎兵衛好春という長男がいたが、母が宝暦8年(1758)8月晦日に没した後は斎藤左膳の手元で養われていた。大弐が刑死した後は斎藤姓を名乗り江戸高輪で引手茶屋を営み、文化9年(1811)8月7日に没している。次郎兵衛には二男三女がおり、長男は9歳の時に出家し芝増上寺で摂門と称していた。摂門の弟妹は、たつ、次郎吉、いの、よねという名であった。町田源太郎が著した「山縣大弐」(顕光閣 1910年刊)の「大弐君の子孫」には、以上のことを記した上で、「其後は何れも今残つて居る」としているので、上記墓石の残りの2名は斎藤家に戻った次郎兵衛の子孫であると思われる。右側の3つの墓石は左から「斎」「藤」「氏」と彫られていることからも先妻の実家である斎藤家の墓所である。ならば斎藤家に関係する人が葬られていると考えるのが自然であろう。なお、山縣氏一族累代一切諸精霊等と記された墓石には「氏」と大きく彫られているが、その前に置かれた香立には山縣氏とある。
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