本法寺
日蓮宗本山 叡昌山 本法寺(ほんぽうじ) 2010年1月17日訪問
水火天満宮のある天神公園から、かつての小川の痕跡を求め、小川通を寺之内通まで下り、百々橋 その2、その3、その4の礎石まで来てしまった。今一度、小川通を北に裏千家の今日庵の前まで戻ると、通りの西側に本法寺の山門が現れる。この山門の前には、小川に掛っていた石橋が今も残されている。
本法寺は日蓮宗の本山で、室町時代の日蓮宗の僧侶・日親によって築かれた寺院。その開創の時期や場所については諸説あるようだが、本法寺の公式HPでは、
永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享十二年(1440)に、日親上人の幕府諫暁が原因で破却され、康正年間(1455-57)に四条高倉で再建しました。
としている。
日親は応永14年(1407)上総国の豪族・埴谷重継の子として生まれている。現在の千葉県山武郡山武町埴谷にあたる。埴谷氏が帰依していた妙宣寺で父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427)には上洛し、京都や鎌倉など各地での布教活動を行う。永享5年(1433)肥前国へ赴き指導した際、厳しい折伏を行い門徒より反発を買い、同流から破門されている。これは日親が不惜身命の折伏と純正法華信仰を迫ったことにより、領主の千葉氏と法華経寺貫主日有の怒りを得たとされている。
その後再び上洛し本法寺となる「弘通所」を開いたとされている。この弘通とは、仏教が広く世に行われることを表わす言葉で、東洞院綾小路あるいは四条高倉に建てられたとされているので、現在の四条烏丸の南西の現在では飲食店の密度の高い場所にあたる。
上記の公式HPにも記されているように、日親は法華経によって国土を治めるべきことを説いた「立正治国論」を著し、永享12年(1440)第6代将軍足利義教に対して諫暁、すなわち将軍の信仰上の誤りについて指摘している。この将軍義教とは応永10年(1403)に青蓮院へ入室し、応永26年(1419)には第153代天台座主となった青蓮院門跡義圓である。応永32年(1425)に第5代将軍足利義量が急死し、引き続き政治を行なっていた第4代将軍で父の義持も応永35年(1428)に後継者の指名を行わないまま亡くなっている。残された管領・畠山満家ら群臣と三宝院満済は評議により、石清水八幡宮で籤引き行い義圓を次期将軍としている。所謂、籤引き将軍であり、後に万人恐怖と恐れられた人物でもある。天台座主・義圓は「天台開闢以来の逸材」とされた人物であったので、日蓮宗の僧侶より諫暁されたことに怒りを覚えたのであろう。義教を捕え、灼熱の鍋を冠せ舌端を切るなどの拷問を行ったとされている。このことによって後世「鍋冠日親」と呼ばれるようになった。(ただし上記の公式HPには鍋冠についての記述がない。)儀礼や訴訟手続きなどを義満時代に戻すことで幕府の権威復興を目指していた義教は、永享7年(1435)には延暦寺との抗争に勝利し、続く永享11年(1439)の永享の乱において鎌倉公方の足利持氏等を自害に追い込んでいる。すなわち、日親が諫暁した永享12年(1440)は将軍の権勢が最も拡大した時期であり、まさに「万人恐怖」の時代に信念を以って行われたものであった。
日親が獄にあったのは、それ程長い期間にはならなかった。嘉吉元年(1441)6月24日、赤松教康が「鴨の子が多数出来」したと将軍義教の「御成」を招請する。将軍は何も疑うことなく少数の側近を伴って赤松邸に出かけ、そこで赤松家の武者によってあっけなく暗殺されてしまう。さらに襲撃した赤松氏も市中混乱の中、領国の播磨に無事に帰還ししてしまう。将軍家及び幕府は何も為す事ができなかった訳であり、幕府の権威は著しく失墜する。その後、細川持常、山名宗全によって編成された討伐軍が赤松氏を追討し、赤松氏は一時滅亡する。ここまでの騒乱が嘉吉の乱である。
日親を罰した義教が亡くなったことにより、赦免され康正年間(1455~57)には四条高倉で本法寺再建を果たしている。その上で全国各地を巡る布教活動を再開する。しかし。寛正元年(1460)肥前で布教したことにより、再び本法寺は破却の憂き目となる。かつて日親は肥前において、領主の千葉氏を激しく批判した経緯があり、永享5年(1433)の中山門流破門の契機となった地である。今回も日蓮聖人の教えを守ることを厳しく要求し、他宗を激しく攻撃している。「鍋冠日親」は将軍義教によるものではなく、この時の他宗派からの迫害であったとする記述も見られる。ついに第8代将軍足利義政は日親に対して上洛命令を出し、同3年(1462)11月千葉元胤によって京都に護送されている。京に戻った日親は細川持賢邸で禁錮されたが、翌年の寛正4年(1463)8月に臨時の大赦が行われ再び自由の身となっている。日親は自ら伝道の旅に出ることを少なくし、町衆の本阿弥清延の協力を得て三条万里小路に本法寺を再々建し、教団の整備に尽力する。この時期は丁度、応仁の乱(応仁元年(1467)~文明9年(1477))と一致する。そして乱後の長享2年(1488)に入寂、享年82。
天文5年(1536)洛中の他の法華系寺院とともに本法寺も焼失している。これは京都における宗派間の紛争であり、日蓮宗にとっては「天文法難」、他宗派では「天文法華の乱」と呼ばれる騒乱であった。妙覺寺の条でも少し触れたように、延暦寺と法華寺院との紛争の火種は、かなり以前から始まっていた。寛正7年(1466)2月16日、日住が中心となって洛中法華寺院の不受不施と受不施の和解盟約、寛正の盟約に成立させている。これは前年の寛正6年(1465)1月より始まった延暦寺による本願寺破却事件に影響を受けている。大谷本願寺の蓮如が天台色を一掃し、延暦寺に対する上納金の支払いを拒否したことに端を発し、延暦寺は同年1月8日本願寺と蓮如を仏敵と認定する。早くも翌9日には西塔の衆徒が大谷本願寺を破却するという暴挙に出ている。3月21日にも再度破却し、蓮如は祖像を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とすることとなった。 洛中の法華寺院達にとって、延暦寺の本願寺襲撃は他人事ではなかった。何度も過去より被害を受けてきたことから、今回も法華寺院が狙われることが想像できていた。そんな緊張関係の中で本覚寺の住持であった日住が同年10月15日に鹿苑寺参詣の途上の足利義政を待ち伏せ、妙法治世集という書物を手渡している。これに激した延暦寺は日住の本覚寺のみではなく、洛中の法華諸寺院に糾弾の書を送り付け寺院破却の予告を行った。当時の京都の町衆の半数が法華寺院に帰依していたため、山門が破却に及んだら洛中で想像を絶するような戦いが行われることとなる。そのために教義の違いによって反目し合っていた法華寺院も互助しあうようになったのが寛正の盟約である。
天文元年(1532)、本願寺の門徒の入京の噂が広がると日蓮宗徒の町衆は、細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺寺院に対する焼き討ちを行っている。これが山科本願寺の戦いである。この後、法華衆は京都市中の警衛などの自治権を獲得して地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都での勢力を拡大させていった。六条本圀寺などの法華寺院を中心に、日蓮宗の信仰が町衆に浸透し一大勢力になっていた。延暦寺としても敵対勢力と目した本願寺に代わり、門徒拡大を続ける日蓮宗を見過ごすことができない状況になっていった。
天文5年(1536)2月、延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されるという松本問答が起こる。延暦寺は日蓮宗が法華宗を名乗るのを止めさせるよう室町幕府に裁定を求めたが、この裁判でも延暦寺は敗れさらに面目を失うこととなった。同年7月、遂に延暦寺は実力行使に出た。僧兵と宗徒に加え近江の大名・六角定頼の援軍を動員、入京して日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払っている。法華衆徒は洛外へ追放となり以後6年間京に於いて日蓮宗は禁教となる。天文11年(1542)11月14日に京都帰還を許す勅許が下り、天文16年(1547)に延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立する。この乱で本法寺も京から追い出され堺に逃れたが、和議が結ばれた後、本法寺は一条堀川に再建されている。応仁から天正にかけての京都を表わしたとされる中昔京師地図には一条堀川の西に浄菩提寺とともに本法寺が描かれている。
ちなみに現在の本法寺の地には惣持寺地、瑞花院地そして大慈院と記されている。百々橋の条でも触れたように、光厳天皇の皇女恵厳禅尼によってこの地に宝鏡寺が再興されたのは、応安年間(1368~75)のことであった。そしてこの宝鏡寺には継孝院、養林庵、大慈院、恵聖院、瑞花院など末寺があった。地図に記されていた瑞花院地と大慈院は、この地にあった宝鏡寺のことである。 もう一つの惣持寺は臨済宗の尼門跡寺院であったが、その名は現存していない。総持院は日野榮子(浄賢竹庭)を開基とした門跡尼寺であった。同じ時期に浄賢竹庭によって慈受院も開創されている。この2つの寺院に曇華院を加え、通玄寺の三子院として本山が衰退した後も存続した。もともと、総持院と慈受院は浄賢竹庭とその跡を継いだ二世桂芳宗繁(足利義持の娘)によって兼帯されてきたが、その後はそれぞれ住持を迎え独立していた。しかし明治時代に入り衰退したため、大正8年(1919)に総持院を併合し、慈受院が再興されている。現在、宝鏡寺の西側、堀川通に面して薄雲御所という名でかつての慈受院が継承されている。つまり中昔京師地図に記された惣持寺は慈受院として、そして大慈院は宝鏡寺として現在に残ったことになる。
天正15年(1587)聚楽第建設に伴い、本法寺は現在地である堀川寺之内へ移転している。かつての本法寺があった一条堀川の福大明神町のあたりは聚楽第の本体に掛っていないものの、如水町や小寺町に隣接することからも黒田如水邸に面している。そのため立ち退きが命じられたのであろう。この時の貫首であった日通は、外護者であった本阿弥光二、光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備している。安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」には下記のような記述とともに図会が残されている。
叡昌山本法寺は大応寺の南にあり、法華宗にして開基は日親上人なり。本堂の額は光悦書す。初は綾小路の西にあり、中頃一条堀川の西に移し、又天正年中に今の地にうつす。
しかし天明8年(1788)の大火で本法寺は経蔵と宝蔵を残し灰燼に帰する。上記の図会は天明の大火以前の姿であり、小川に掛けられた石橋と山門も描かれている。大火後の再建により本堂、開山堂、多宝塔、書院、仁王門などが整備される。
元は34の塔頭があったとされているが、文久3年(1863)時点では蓮光院、興徳院、真蔵院、本養院、十乗院、興造院、執行院、大雲院、興雲院、玉樹院、寿量院、法昌院、玉昌院、信教院、教学院等の17院が確認されている。現在は、尊陽院、教行院、教蔵院の3院が境内に残る。
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