妙顯寺
日蓮宗 龍華 具足山 妙顯寺(みょうけんじ)2010年1月17日訪問
宝鏡寺の特別公開を拝観した後、寺之内通を100メートル程度東に進むと、妙顯寺の山門が現れる。妙顯寺は日蓮宗の大本山、開基は日像である。
日像は文永6年(1269)下総国に生まれている。俗姓は平賀氏で幼名は経一丸。建治元年(1275)日蓮の弟子で兄の日朗に師事し、後に日蓮の弟子となっている。永仁元年(1293)日蓮の遺命を受け、京都での布教を始める。上洛して間もない永仁2年(1294)には、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い造酒屋の柳屋仲興や大覚寺の僧で後に妙顯寺2世となる大覚らの帰依を受ける。しかし徳治2年(1307)延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から迫害を受ける。さらに朝廷に合訴され、京都追放の院宣を受けてしまう。それでも真言寺の実賢、極楽寺の良桂、歓喜寺の実眼らと法論を行い折伏している。
真言寺とは洛西の鶏冠井村(現在の向日市鶏冠井町)の真言宗寺院の真言寺のことであり、住持・実賢が日像に帰依したため日蓮宗に改宗されている。寺号も真言宗の「真」と日像の経一丸より「経」の字を採り真経寺に改めている。関西では初めて日蓮宗寺院になり、鶏冠井村はその拠点になっている。極楽寺の良桂も同様である。
極楽寺は、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握り阿衡事件を引き起こした藤原基経が発願し洛南の深草に建立した寺院である。当時の住持であった良桂は日像との法論を行い、日像に帰依している。真言律宗寺院であった極楽寺は延慶年間(1308~11)日蓮宗に改宗している。日像は法華経の首題を書刻した石塔婆を京の七口に立てたたが、極楽寺もその1つとなった。興国3年(1342)妙顯寺で入寂した日像は、その遺言により極楽寺において荼毘に付されている。廟所が造られ、寺号を鶴林院宝塔寺に改め常寂寺と称していた。日蓮宗に改宗された常寂寺は応仁の乱で焼失し、長らく再建されなかった。天正18年(1590)8世日銀が伽藍を再建し、寺名を宝塔寺に改めている。
歓喜寺も洛北・松ヶ崎の天台宗延暦寺派の寺院である。日像の説法により村人全てが改宗し、住持の実眼も天台宗から日蓮宗に改宗し、寺号も歓喜寺から妙泉寺に改めている。このように既存教団の信徒を改宗させ日蓮宗の寺院を拡張したため、他宗派から弾圧が加えられることとなった。
徳治2年(1307)の追放は延慶2年(1309)赦され日像は京都へ戻るが、翌3年(1310)になると再び諸大寺から合訴され京都から追放される。そして同4年(1311)赦免、元亨元年(1321)に追放そして赦免と、目まぐるしく追放と赦免を繰り返した。
日像は布教の拠点である法華堂を綾小路大宮(四条大宮の南)に建てていた。これは日像が裕福な洛中の商工人を信徒としていたためであり、この地は商工人街であった。元亨元年(1321)今小路に妙顕寺を建立している。現在の上京区大宮通上長者町で安居院の旧地とされている。安居院は比叡山東塔竹林院の里坊があった場所の地名で現在の上京区前之町にあたる。平安時代末期の安居院には坊舎があったことが史料から分かる。鎌倉時代以降、延暦寺門跡の院家として活動したことにより朝廷・貴族・武家との結び付きが密接になっていった。そのため安居院には山門系の諸坊が群集していた。しかし応仁の乱で悉く焼失した後は再興されることがなかった。後に豊臣秀吉によって妙覚寺、妙顯寺、本法寺、西福寺などが安居院の地に移され、超勝院や大応寺なども新しく建立されている。そのためかつての里坊である安居院を復興した西法寺は北側の上京区新ン町に建つこととなった。
元弘3年(1333)3月、護良親王は隠岐配流中の後醍醐天皇の京都帰還を祈念する令旨を日像に下している。そして帰還が決まった同年5月12日には尾張国松葉荘・小家郷そして備中国穂太荘が寄進されている。建武元年(1334)には後醍醐天皇の綸旨を賜わり勅願寺となる。これは法華宗における初めての勅願寺であり、日蓮法華宗の独立を朝廷が認めたものであった。さらに建武3年(1336)には、室町将軍家の祈祷所、同4年(1337)に光厳院の祈願所になっている。そして暦応4年(1341年)光厳院の院宣により、四条櫛笥(現京都市下京区・中京区の境)の1町を賜わり寺地を移転している。これ以降、妙顕寺を四条門流と呼ぶようになった。
このような洛中での繁栄は再び比叡山衆徒の反感を買うこととなり、正平7年(1352)2月に法華堂を破壊されている。それでも正平10年(1355)には足利尊氏より近江国、備前国、備後国などの寺領を安堵され、祈祷を行うべきの御教書を与えられるなど、公武政権と密接な関わりを深めていった。延文3年(1358)に賜わった後光厳天皇の綸旨に「為二四海唱導一」の一句が見られる。四海唱導とは,天下・世の中・国中に教えを説いて人を導いたという意味である。妙顕寺は、門流分立する法華宗の中にあって北朝より宗内最高の寺院の公認を得たと捉えている。以降、四海唱導妙顕寺と称する一方、境内に四海唱導之霊蹟の碑を建てている。また日像を継いだ2世大覚は、同じく延文3年夏に祈雨祈祷を行い、その功績により、日蓮に大菩薩号、日朗と日像に菩薩号を勅許され、大覚には大僧正を任ぜられた。
上記のような朝廷及び将軍家からの崇敬を集めると、再び妙顕寺と延暦寺衆徒との争いが激しくなる。嘉慶元年(1387)延暦寺衆徒による襲撃で妙顕寺は破却、住持・日霽は若狭小浜に逃れている。ここより二世紀後の天文の法難まで延暦寺衆徒との争いは常に続いていく。妙顕寺破却直後の同年8月15日、後小松天皇より「四条以南、綾小路以北、壬生以東、櫛笥以西敷地」の安堵を得ている。つまり壬生川通四条の南東角の地である。さらに明徳4年(1393)7月8日には足利義満より「押小路以南、姉小路以北、堀河以西、猪熊以東」の地が与えられ、寺地を移すとともに寺号を妙本寺に改め再建している。同じ年、上野国戸矢郷も寄進されている。応永5年(1398)義満は妙本寺を詣で摂津国と相模国の寺領を安堵している。応永18年(1411)には足利義持の祈願寺となった。日霽の後を継いだ三条家出身の月明は、同20年(1413)に僧正となっている。これに延暦寺衆徒が反応して同年6月25日に再び妙本寺を破却している。この時も住持の月明は丹波に逃れている。永正から大永年間(1504~28)にかけて、寺号を妙顕寺に戻し、永正18年(1521)足利義植の命により二条西洞院の南に転じている。下記の天正3年(1575)の安堵と同じ敷地であれば、北は二条通から南は三条坊門小路、すなわち現在の御池通まで、西は油小路通から東は西洞院通までの東西1町南北2町の敷地になる。
秀吉の命による移転が行われた天正11年は、本能寺の変の翌年にあたる。本能寺の変では織田信長が宿泊した本能寺で戦闘が行われたが、それ以外にも信長が築いた二条新御所でも交戦があった。二条新御所は烏丸通御池の北西角に築かれた。もともと二条殿として二条家の邸宅として使われてきたのを、縁戚関係にあった信長は上洛時の宿舎とするため京都所司代の村井貞勝に命じ、旧二条邸を譲り受けて改修を行っている。天正5年(1577)閏7月に初めて入邸し、8月末には改修を終えている。以後2年にわたり二条御新造に自ら居住し、京の宿所として使用している。天正7年(1579)以降は、この邸に正親町天皇の第5皇子で皇太子誠仁親王を住まわせることになり、誠仁親王とその皇子である五宮邦慶親王(織田信長猶子)がこの二条新御所に転居している。本能寺の変がおきた天正10年(1582)6月2日、この二条新御所には皇太子誠仁親王が在宅していた。西隣の妙覚寺より二条新御所に移った織田信忠は、明智光秀と話し合い誠仁親王を御所へ移した後、二条新御所に籠城し自害して果てている。享年26.この戦いで二条新御所は妙覚寺とともに焼失している。
天下統一に乗出す時期にあった秀吉にとって、この後朝廷との交渉が増えてくることから京都に自らの城館を築く必要があった。そして妙顕寺の敷地を選択した訳である。この地は上記のように織田信長が築いた二条新御所にも近く、信長の後継者を目指す秀吉にとってこの地に城館を築くことはイメージ戦略上重要であったと思われる。妙顕寺城は聚楽第が落成するまでの京における豊臣家の拠点となった。
江戸時代に入ってからも延暦寺衆徒との争いは続いたようだ。慶長年間(1596~1615)に三度目の法華宗号盗用の訴えを受けている。この回も建武元年(1334)の宗号綸旨を持ち出して叡山に勝っている。度々の火災に遭ったものの全国200有余の末寺を有して江戸時代は栄えた。安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」は妙顕寺の図会を所収している。参照している国際日本文化センターの都名所図会は天明6年(1786)の再板本であるが、天明の大火以前の妙顕寺の姿を見ることができる。 天明8年(1788)に発生した天明の大火により妙顕寺は伽藍の大半を焼失している。現在の建物の大半は大火の直後に再建されたものである。
現在、妙顕寺には下記の9つの塔頭が存在している。
久本院
十乘院
泉妙院
法音院
恩命院
善行院
本妙院
實成院
敎法院
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