白峯神宮 その9
白峯神宮(しらみねじんぐう)その9 2010年1月17日訪問
白峯神宮 その8では、幕末維新期の白峯神宮創建に尽力した中瑞雲斎の前半生について書いてきた。この項では神宮創建後に生じた瑞雲斎に関する事件について調べてみる。
明治2年(1869)正月5日、新政府の参与・横井小楠が京都寺町通丸太町下ルで十津川郷士の襲撃を受け暗殺されるという大事件が発生する。小楠が暗殺された理由とは、日本のキリスト教化を推進しているとされている。歴史的にも有名な事件にも拘らずその実相を明らかにした資料は実は多くない。開明的な思想を持つ横井は因習に固執した尊皇攘夷激派の生き残りに殺害された、これがこの事件の一般的な見方となっている。
実行犯は上田立夫、中井刀禰尾、津下四郎左衛門、前岡力雄、柳田直蔵、鹿島又之允の6名。横井の襲撃は十津川郷士によって為されたと言われてきたが、上田は石見、津下は備前、柳田は郡山、鹿島は尾張の出身で前岡と中井だけが十津川出身の郷士であった。また横井の出身地である肥後藩や招聘した松平春嶽の越前藩の関係者も含まれていなかった。
襲撃の際に重傷を負った柳田直蔵は当日の内に捕縛され、1月12日にその疵のために死亡している。そして同日中に十津川郷士の屯所にいた上平主税、前木競之進、滝久男、増田二郎、前岡覚五郎の5人が勾引されている。まだ十津川出身の実行犯が捕縛されていなかったにも関わらず、何故か最初から十津川郷士に嫌疑が懸けられていた。
襲撃直後、実行犯である刺客たちは支援者の家を巡り、事件翌日の夜までには4人が京都から脱することに成功している。捕縛された柳田を除くと津下だけが潜伏先が定まらず、市中を転々とした後同月14日に自訴している。事件当日捕縛された柳田の供述により、事件発生2日目となる6日には小和野監物を初めとする6名も勾引される。小和野は大和国宇知郡(現在の奈良県五條市)の郷士で、泉州南郡河合村の長徳寺で住職を務めていた人物である。これにより実行犯を除く事件関係者の勾引は、前日の上平等十津川郷士5名と合わせ11名になった。事件前、捕縛された柳田は鹿島と共に小和野の許に宿泊していた。また逃亡中の中井と前岡も十津川郷士の上平と同宿していたことを当局は既に知り得ていたようだ、
事件3日目の7日、事件当夜に上田、前岡、中井、鹿島の刺客4名を匿った谷口豹斎が逮捕されている。谷口は公卿の広幡家に仕える家来であった。しかし捜査の手が広幡家に及ぶことは無かったようだ。
さらに4日目の8日には3人の刺客が留守宅に逃げ込んだ宮太柱も逮捕されている。宮は備中小田郡笠岡で代々医業を営んできた宮太立の子、後に家業を継いで医師となっている。安政2年(1855)、西洋科学一般に対する知識を見込まれ、石見銀山の鉱山病対策を依頼されている。3年後の安政5年(1858)その対策を「済生卑言」に纏めている。その経歴を見る限り、単純な尊皇攘夷激派ではなく、むしろ暗殺された横井小楠と同じ開明派に属する人物であったように思える。
同じく1月8日、事件直後に刺客が立ち寄った金本顕蔵と中瑞雲斎が自訴している。瑞雲斎は当日に取調べを受けているので、やがて逮捕が迫ることを悟っての自首であったのだろう。この日、6人の実行犯が特定され鹿島、前岡、中井の人相書が回付されている。この6名の内2名に誤認があったものの捜査はかなり事件の核心に迫ってきた。そして事件10日目の1月14日、逃亡中の5名が上田、中井、津下、前岡、鹿島であると確定する。この日、京で潜伏していた津下が自訴する。この他に黒幕と目されている塩川広平は当日に勾引、あるいはこの8日に逮捕されている。これで実行犯6名と上平、宮、中、金本、小和野、谷口、塩川の事件の黒幕あるいは支援者7名が結びついた訳である。
上田、前岡、中井、鹿島の4名は谷口豹斎の手引きに従い、事件翌日の夜には京を脱し山城国綴喜郡大住村へ向かっていた。ここで10日まで潜伏した後、高野山を目指して出立している。1月16日、高野山の旅籠に潜伏していた鹿島と上田が京都から出張してきた捕吏によって逮捕されている。中井と前岡は次の潜伏場所を探しに郷里の十津川に出掛けた留守中の出来事であった。残る中井と前岡は十津川で1週間潜伏した後、紀州有田を経て入った伊勢から別行動をとった。前岡力雄は明治3年(1870)7月16日に中山道垂井宿で逮捕されたが中井刀禰尾は遂に逃げ果せた。
一見単純だと思われた暗殺事件の裁判は混迷を極めた。小楠暗殺から9ヵ月後の明治2年(1869)9月4日に起きた大村益次郎暗殺事件は、発生後4ヶ月で結審し12月29日には犯人の処刑を済ませている。これに対して横井小楠暗殺事件は22ヶ月を要する案件となった。
暗殺の動機は天主教を海内に蔓延させようとしたというものであった。これは柳田直蔵が所持していた横井小楠斬奸状にも記されている。当時巷には小楠が天主教を弘布しようとした、あるいは天皇を廃して日本に共和制を敷こうとしたなどの流言が飛び交い、このような噂が根強く信じられていた。実行犯はこの類の噂話を信じ込み、国賊・横井小楠を排除するために実行したのである。
政府が推進する欧化主義に対する嫌悪感が開明派と目される横井小楠に対する疑念となり、これが裁判の長期化に結びついた。事件直後から横井暗殺を揶揄するような落首が市中に張り出され、若江薫子が刺客助命の嘆願書を刑法官知事である大原重徳に提出するなどの騒ぎも生じている。薫子は伏見家に仕える若江量長の娘で漢学者にして昭憲皇后の学問師範に抜擢されるような才女であった。大原重徳は文久2年(1862)の勅使となり島津久光を率いて江戸に下り攘夷の決行と共に安政の大獄で失脚した一橋慶喜と松平春嶽を復権させ文久の改革を引き出した人物である。助命嘆願は薫子だけに留まらなかったようで、当時社会の多くの者は暗殺された横井にも非があったと見ていた。
大原は若江の建白書に影響を受けたのか、あるいは元々の本心からか同年2月28日に行政官輔相であった岩倉具視に事件に関する意見書を提出している。小楠暗殺事件は君側の奸臣を除こうとして尽忠の行為であり、これを厳罰に処すると人心の離反を招くので寛典に浴するのが妥当である。これが大原を代表とする攘夷主義者の考えであった。特に大原は頑迷な攘夷主義者であったが、明治新政府の首脳の意見としては大いに問題があったに違いない。明治2年(1869年)4月25日付けで刑法官知事を罷免されている。
そして裁判は同年5月に刑法官副知事に任命された土佐藩出身の佐々木高行の法治主義的考えに沿って主導された。6月に入ると3人の実行犯(津下、上田、鹿島)に対する梟示を初めとする断刑案が作成され、太政官に伺いを立てるまでに進捗した。ここまで事件発生から4ヶ月と大村暗殺事件と同様な経過であった。しかし太政官は断刑案の決裁を下ろさなかった。同年5月に発足した弾正台が犯人減刑を唱え断刑案を承認しなかったためである。当時の刑法官には専決の権限が無かったため刑の執行が滞ってしまった。
そのような中で前述の大村暗殺事件が9月4日に生じる。政府は再度の暗殺事件発生に態度を硬化させる。大村暗殺事件に関しては断刑案通り刑罰を執行する。しかし横井暗殺事件については執行を延期して弾正台に対して小楠の罪状提出を求めた。同時期に生じた2つの暗殺事件はそれぞれ異なった方向へ分岐していく。長州藩出身の大村暗殺については問答無用で刑を執行したが、小楠暗殺事件では熊本藩士であった横井小楠自身に前科がなかったかを調査することになった。柳川藩士の弾正台大巡察の古賀十郎は熊本の阿蘇神社を訪れ、横井小楠が書いたとされる「天道覚明論」を小楠反逆の証拠として持ち帰る。このあたりの経緯については、既に横井小楠殉節地 その7で記している通りである。
さて問題の「天道覚明論」である。この解釈について、未だ定まった説はないとも言えるだろう。山崎正董は「横井小楠 傳記篇」(明治書院 1938年刊)において、裁判経過を淡々と記した後に「第19章 小楠を見直して」「10 尊皇 敬祖」という章を設け、「天道覚明論」の内容について検討していている。森鴎外の稚拙説や元田永孚の河上彦斎による偽書説を取り上げているものの、「天道覚明論」自体が偽書である根拠を示していない。その代わりに小楠の皇室に対する敬愛の情を明らかにすることで小楠の作でないことを立証しようとしている。
これに対して松浦玲氏はその著書「横井小楠」(ちくま学芸文庫 2010年刊)の中で、山崎の立証方法が困難であることを指摘した上で、明治天皇が小楠の眼鏡に適っていたことからこのような一文を書く必要がなかった点を強調している。小楠がいつの時点で明治天皇に出会い、どの書簡にその印象を記したかについては残念ながら触れていない。小楠の血統論については、横井小楠殉節地 その7で記しているのでそちをご参照下さい。 横井小楠はアメリカ合衆国のワシントン大統領を敬愛し、優秀な君主は優秀なリーダーに禅譲すべきであり、決して血統で君主を世襲してはいけないという説が血統論の根幹である。徳富蘇峰や山崎正董は、小楠の血統論が天皇家までを想定してなかったとするのに対して、松浦氏は天皇家も小楠の血統論の範囲内としている。恐らく松浦の考えの方が正しいと思う。小楠は招聘主であった松平春嶽も例外としていなかった。つまり思想の正当性のためならば、一切の例外を設けることを許さなかったと考えられるからである。
その上で松浦氏は小楠の思想を延長すれば「天道覚明論」のような一文を書くことも可能であると考え、最終的には小楠を陥れるために書かれた何者かによる偽書と考えているようだ。また、松浦氏は堤克彦氏が提唱する「天道覚明論」の作者・東皐野人が元田永孚であるという説も退けている。堤克彦氏は「西日本人物誌11 横井小楠」(西日本人物誌編集委員会 1999年刊)において「『天道覚明論』の執筆」という項を作り、いきなり「1887(慶応3)年3月、小楠は問題の『天道覚明論』を著すことになった。」と書き出し、その後「天道覚明論」の大意を紹介している。天道覚明論が横井小楠の作品であるかの実証を一切省いている。この書籍には「あとがき」もないため、説明はこれだけとなっている。未見ではあるが、堤氏の論文「『天道覚明論』の成立背景に関する歴史的考察」1(熊本史学第66・67合併号 1990年刊)及び「『天道覚明論』の成立背景に関する歴史的考察 横井小楠の天皇観の変遷」2(熊本史学第68・69合併号 1992年刊)において学術的な考察が成されているのだと思われる。
以上のように「天道覚明論」次第で、既に定着しつつある横井小楠の評価も大きく変化する。そして150年前の暗殺当時であったら、新たな国家像を描いた幕末の偉大な思想家から天皇制を否定する国賊へ転落しても不思議ではない。
弾正台は「天道覚明論」が小楠の著作であることを確認するために大宮司を召喚するが、曖昧な返答を繰り返し召喚には応じなかった。逃亡していた前岡力雄が明治3年(1870)7月16日に逮捕されたことにより、同年10月8日に刑部省は改めて断刑案を提出する。太政官も「伺之通」と決定し、罪状は確定する。刑の執行は10月10日であった。
梟示 上田立夫
鹿島又之介
津下四郎左衛門
終身流罪 上平主税
宮太柱
谷口豹斎
禁固3年 中瑞雲斎
金本顕蔵
禁固百日 塩川広平
栗谷川虹氏は「白墓の声 横井小楠暗殺事件の深層」(新人物往来社 2004年刊)において、横井小楠暗殺事件の実行犯を支援した黒幕として上平主税、宮太柱、谷口豹斎、中瑞雲斎、金本顕蔵、塩川広平、小和野監物の7名とともに三宅高幸の名を加えている。
三宅高幸は備中の尊攘運動家。森田節斎に入門し平野国臣等と交わり、運動資金を得るため薩摩と備中の交易を図る。安政年間、梅田雲浜により在野の有志達のネットワークが構築されたとされている。小泉仁左衛門宅跡の項でも記したように、地方の豪商達が草莽の志士に対する経済的な支援という形で始まった。やがて京都の福田理兵衛、山口薫次郎、革嶋有尚そして長州の白石正一郎などは経済的な支援に留まらず、自らの身を尊王攘夷運動に投ずることになる。 そして王政復古を迎えた時点で活動を停止した者と、政府の欧化政策を是とせず第二維新を実現するべく活動を継続した者に分かれていく。現在を生きる人間にとり、第二維新を目指した人々を頑迷な攘夷思想から抜け出せなかった時代遅れと見なすこともできる。しかし当人達とっては新政府の方針変更を裏切りと見たであろう。
上平主税や中瑞雲斎達は何を為そうとしていたのか?新しく樹立した政府において、草莽の志士が得られる地位は次第に無くなり始めていた。それでも戊辰戦争の開戦時には諸隊を結成し参戦するという手段が残されていた。実際、塩川広平も岩倉具視に天皇直属の御親兵の結成を慶応3年(1867)12月13日に建言している。王政復古から4日目に提出された建白書である。かつては個々の才覚で周旋してきた志士達も、藩の後ろ盾がなければ倒幕運動に加わることもできなくなっていた。そのため、今後生じるだろう新政府と旧幕府の軍事的な衝突に向け御親兵を結集しなければならいと考えた。薩摩や長州などの雄藩は藩兵を新政府に提供できたが、これらの藩に属さない者達は在野の力を集めた集団を結成しなければ明治維新の政治活動に参画することすら出来なくなった。
戊辰戦争開戦時、新政府は御親兵と称する諸隊を大いに活用した。しかし新政府軍の優勢が確保され、各藩の帰順が明確になり始めると、不都合となった赤報隊の相楽総三、高松隊の小沢雅楽介、花山院隊の児島備後之介・佐田秀を容赦なく切り捨て始めた。
未見であるが、「宮太柱伝」(「昭和詩文 十八帙第九集」(雅文会 1928年刊))という三宅高幸の子で宮太柱に国学を学んだ三宅武彦が著わした書がある。この中に、明治元年(1868)宮太柱が上平主税、中瑞雲斎等と大道組を結成したという記述があるらしい。明治2年(1869)に横井小楠を暗殺した一連の人々には大道組という名称があったようだ。そして大道組の母体となる集団は上記の通り梅田雲浜が組織化したものであり、その盟主は雲浜が最も頼った中川宮朝彦親王であったと想像できる。現実的には慶応2年(1866)12月25日の孝明天皇崩御以降、朝廷における宮の求心力は全く失われていた。塩川が岩倉にツテを求めたように様に、大道組もまた何れかの堂上家と結び、新政府内に入り込む手段を模索したと思われる。あるいは谷口豹斎の主家である広幡家も対象であったのかも知れないが実を結ばなかった。
大道組にはさらなる追い討ちがかかる。明治元年(1868)8月16日、朝彦親王の広島流謫が実行に移される。これは新政府による政治的危機を回避するための先手であった。同年8月27日に予定している明治天皇の即位の礼より前に、京における不安定分子を一掃する必要があると岩倉具視が感じたのであろう。だからこそ謀反の嫌疑が薄弱であっても半ば強引に親王を広島藩に預けている。また親王自身もそのことをある程度理解していたからこそ、黙って京都を退去したのであろう。
親王が京に戻ることが許されるのは明治3年(1870)閏10月20日であった。同年12月5日に父の伏見宮邦家親王家に入る。京には戻れたものの謹慎を解かれること無かった。政府は危険分子が親王と接触し祭り上げることを恐れていたのであろう。ようやく親王の謹慎が解かれるのは明治5年(1872)1月6日であった。徳川慶喜が従四位に叙せられ、元京都守護職 松平容保、同じく京都所司代 松平定敬も同日に赦免されている。かつての一会桑に対する戦後処理が終わった日でもある。親王も宮の称号を許され、三品に叙せられた。赦免の礼を申し上げるため、朝彦親王は同年2月29日に参内し、天皇に拝謁している。ちなみに二卿事件の首謀者二人に対する切腹は既に明治4年12月3日(1872)に終わっている。
話を再び横井小楠暗殺事件に戻し、それぞれの刑が確定した後のことに触れる。
伊豆新島へ終身流罪となった上平主税は赦され、明治12年(1889)3月に島を出て、郷里の玉置神社祠官となっている。明治24年(1891)死去。享年67.
明治3年11月20日に三宅島に流された宮太柱は僅か8日後の11月28日に阿古村で没している。当時島で流行っていた疫病の治療に当たったため、当時体力を衰弱していた宮はすぐに罹病したのであろう。享年44。医者として最期を遂げた宮太柱を惜しみ、島民は彼の墓を三宅島に築いている。
谷口豹斎は流刑になる前に獄死したとされている。恐らく宮太柱より早く亡くなったのであろう。
禁固3年の金本顕蔵は刑期を全うすることなく、明治4年(1871)4月2日に獄死している。
禁固百日に処せられた塩川広平は僅か2ヶ月で刑期を終え、「勤王家塩川広平翁伝」(福島泰助 1910年刊)によれば、12月22日には自由を得ていたようだ。塩川は幕末の頃より岩倉具視の為に働いてきたので、横井小楠暗殺事件に連座しても軽い処罰で済んだのであろう。あるいは暗殺事件の情報を当局に伝えていた可能性すら考えられる。刑期終了後、教部省や司法省に勤め、明治23年(1890)6月2日に死去している。享年48.
三宅高幸は横井小楠暗殺事件に関与しなかったというよりは、疫痢によってできる状況になかったようだ。また息子の武彦も朝彦親王の広島流謫を追い、伏見で捕まったため参画することが適わなかったとされている。それでも高幸は二卿事件に関与したため終身刑となっている。青森監獄に収監された高幸は明治13年(1880)5月に赦され、郷里の備中連島に戻り私塾を開き後身を育てた。同15年(1882)8月22日死去。享年65。
一度は勾引されたものの横井小楠暗殺事件への連座を免れた小和野監物も愛宕通旭と外山光輔による明治政府転覆事件、すなわち二卿事件に連座して終身禁獄に処せられている。暗殺事件の嫌疑をかけた小和野を、当局は見逃してはいなかったようだ。泳がしていた小和野に新たな事件への関与の証拠が現れたことで再び逮捕している。他5名と共に鹿児島藩預かりとなった小和野等は、西郷隆盛の計らいで監獄に繋がれることなく自由であったようだ。しかし西南戦争で投じた西郷軍が敗れたため、改めて獄に繋がれている。その5年後特赦で出獄し、京都で亡くなったとされている。正に波乱に満ちた人生である。
さらに驚くべきことが小楠暗殺事件で弾正台大巡察として働いた古賀十郎に生じている。古賀は二卿事件の首謀者と見なされ梟首に処せられたのである。政府は三宅や小和野のような在野の有志達を監視するだけではなく、政府内に入り込んだ古賀の如き不平分子に対しても注意を払っていたことが分る。
最後にこの項の主人公である中瑞雲斎のその後はどのようなものであったかを見ていく。瑞雲斎は横井小楠暗殺事件に連座し禁固3年の罪を得ている。三宅武彦の談話によれば、大道組の中心人物であった瑞雲斎は暗殺計画の首謀者でもあった。本来ならば終身流罪であるところ、役人を買収してアリバイを作ったことで軽罪になったとしている。明治3年(1870)東京に送致され10月には判決を受けている。その後、岸和田の自宅謹慎中に二卿事件に参画したことが露見し、青森監獄での終身禁獄に処せられる。収監前の明治4年(1871)12月3日に病死している。
横井小楠暗殺事件を纏めた歴史小説・「津下四郎左衛門」を取り上げる。この小説は森鴎外によって大正4年(1915)に発表されている。凡そ発生から50年を経た時点で事件を詳細に描き出している。文末に執筆の動機を以下のように記している。
大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆其儘である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡黙、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫の諸君に質して、二三の補正を加へただけである。
鴎外は6名の実行犯の他に堂上家の某、三宅高幸(典膳)、中瑞雲斎、宮太柱、上平主税、一瀬主殿の氏名を黒幕ないしは支援者としてあげている。栗谷川氏は事件に連座して八丈島に流されたと鴎外が記している十津川の士・一瀬主殿は誤伝であると指摘している。
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