横井小楠殉節地 その7
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問
この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。
新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏が繰り出された。そして京七口には平安隊の兵が固め、大津・淀・伏見の往来を禁じ、犯人の逃走路を遮断した。早くから十津川人と肥後人が犯行に関わっていると見られ、肥後藩重役に呼び出しがかかり、十津川藩邸や屯所も捜索されている。
事件当日、中町夷川通の中村屋梅吉方で重態の柳田直蔵が発見される。襲撃で深手を負った直蔵は自害を試みるも果たせず悶絶しているところを発見されている。懐中より斬奸状が現れた。「日本史籍協会叢書 大久保利通日記 2」(日本史籍協会編 1927年刊 1981年覆刻)の1月5日の条にも斬奸状が写し書かれている。「日本史籍協会叢書 大久保利通文書 3」(日本史籍協会編 1928年刊 1983年覆刻)の大久保家蔵の「横井参與遭難に關する報告書寫」によると下記のようになる。
横井平四郎
此者是迄之姦計ハ不遑枚擧候得共姑舎之 今般夷賊ニ同心シ天主教を海内ニ蔓延せしめんとす 邪教蔓延候節ハ皇國は外夷之有与相成候事顕然たり 併 朝廷御登庸之人を殺害ニ及候事深ク奉恐入候得共賣國之姦要路ニ塞リ居候時ハ前條之次第ニ立到リ候故不得止及天誅者也
天下有志
なお上記の大久保の日記には、直蔵が大和郡山柳田房吉の倅で25歳であること、そして肥後藩の鹿島又之充という名前も記されている。比較的早い段階から犯人の一部は分かっていたようだ。
当日の夜には実行犯以外の関係者として、十津川屯所で上平主税、前木競之進、瀧久男、増田二郎、前岡覚五郎の5名と小和野父子他数名が逮捕されている。その後も谷口豹斎、大木主水(宮太柱)、塩川広平が逮捕、中瑞雲斎、金本顕蔵が自首したことで、事件関係者は30余名に及んだ。それでも実行犯の逮捕には結びつかず、1週間が過ぎる。正月12日、逮捕された唯一の実行犯の柳田直蔵が手当の甲斐なく死去する。14日に市中に留まっていた土屋延雄が自首して縛に付く。16日には高野山中に潜伏していた上田立夫と鹿島又之介を逮捕するが、前岡力雄と中井刀禰尾を捕り逃す。2人は十津川郷に遁走し、前岡力雄が中仙道垂井宿で捕縛されたのは明治3年(1870)7月16日のことであった。中井刀禰尾は丹波国園部の神官の家より失踪した後は行方分からず、遂に逮捕に至らなかった。
上田立夫は石見国大内郡上田所村の郷士上田丈右衛門の次男。長州藩で侍奉公をしていたが、明治元年(1868)に備前藩の伊木若狭が率いる義戦隊に加わるも同年9月に脱退し京都に上る。齢30歳。
土屋延雄の本名は津下四郎左衛門。森鴎外の小説「津下四郎左衛門」(中央公論 1915年)の主人公である。備前国上道郡沼村の名主津下一郎右衛門の倅。18歳の時に伊木若狭方へ侍奉公に入る。その後武者修行として諸国を廻った後、慶応4年(1868)正月、再び伊木若狭の勇戦隊に加わる。この時上田と知り合う。同年5月隊中の者と意見が合わず脱退上京する。齢23歳。 前岡力雄は十津川大原村郷士前岡重蔵の次男で、慶応2年(1866)8月29日、同郷の中井庄五郎・深沢仲麿等と三条大橋の西詰に立てられた制札を鴨川に打ち捨てている。この後の9月12日に同じ事を行った土佐藩士8人と新選組との間で三条制札事件が生じている。なお中井庄五郎は近江屋事件の後、龍馬暗殺は紀州藩の仕業と考え天満屋での紀州藩士三浦休太郎襲撃に参加し討ち死にしている。前岡は十津川兵に加わったが明治元年(1868)12月頃から上京して上平主税の許に同居している。齢26歳。 大久保の日記では肥後藩としていた鹿島又之介は、元笠松県(美濃国)貫属石川太八郎の家来鹿島善次郎の次男。早くから学問武芸修行のため郷里を出て、一時大阪に住む。京都檀王法林寺内の清光寺の住職となるが、還俗し十津川浪士等と交わる。明治元年(1868)12月20日上京し暗殺に加わる。齢24歳。
柳田直蔵は大和郡山藩柳田房吉の倅で、柳沢甲斐守の足軽であったが、暇を出された後に追放にあったため、事件当時は浮浪の身であった。家族に訣別した後、正月4日に上京し小和野方に宿泊して凶行に参加する。齢25歳。
最後に逮捕できなかった中井刀禰尾については、あまり詳しいことは分かっていないようだ。十津川郷士で、上平の許で同居し前岡と行動を共にすることが多かったようだ。年齢も24・5歳くらいと人相書きから山崎は推測している。
いずれも地方の郷士や軽輩の子弟であり、幕末期に国許を離れ、諸国を放浪した後に、吸い寄せられるかのように京都に集まった人々ともいえる。
横井小楠の暗殺直後から小楠の罪科を問う落首が市中に貼られるようになる。これは暗殺を支援した黒幕の所業だけでなく、漠然ではあるものの小楠の開国論に着いて行けない市民の感情も現れていたのではないかと思われる。正月21日に若江薫子という女性から時の刑法官知事大原重徳に刺客の助命を嘆願する建白書が提出される。さらに2月26日にも同様の建白書を再び提出している。この若江薫子とは、若江家第8代当主若江量長の次女として天保6年(1835)に誕生している。幼少時から学問好きの才媛として公家社会の中では有名人であった。慶応3年8月(1867)明治天皇女御となった一条美子の学問師範に抜擢される。そのため明治維新後は皇后付き女官として政治的にも絶大な発言力を誇るようになり、建白書を多く書いた。儒教に根本を置く理想は、欧米文化を重視する新政府の方針と対立することが多く、次第に新政府要人から警戒されるようになる。そしてこの助命嘆願が新政府の不興を買い、皇后から遠ざけられ蟄居の身の上となる。
薫子の建白書に動かされたのか、2月28日に大原重徳は岩倉具視に意見書を出している。要約すると横井小楠は君側の奸臣であり、これを除いた暗殺者は尽忠憂国の士である。これを法で厳罰に処することは政治から人心が離れて行くというような意であった。維新前より大原重徳は岩倉具視と組み、いろいろな謀議を行ってきた人物であるが、頑迷な攘夷主義者のまま明治維新を迎えている。大原重徳は4月25日付で刑法官知事を罷免され、岡山藩主の池田章政が継いでいる。その後、5月15日より正親町三条実愛が刑法官知事を継ぎ、その後の刑部卿にも就いている。正親町三条実愛の下には刑法官副知事として土佐藩の佐々木高行が同日就任し、実質的には佐々木の手によって断刑案が作成され太政官に上申された。この当時、未だ司法は独立しておらず、刑法官知事が専決権限を握っていなかったことによる。
太政官はこの断刑案に決裁を与えなかったため、弾正台から断刑案に対する異議が上げられた。当時の刑法官が警察であれば、弾正台は検察にあたるため、このような異議が可能になった。弾正台の論理では、横井小楠は国賊であり国賊を殺戮した犯人は憂国の士であり、名誉の死を賜るべきというようなものであった。
裁判が迷走している最中に第二の暗殺事件が発生した。明治2年(1869)9月4日、三条木屋町上ルの旅館で大村益次郎が襲撃される。一命は取り留めたものの敗血症となり11月5日に大阪で死去している。刑執行が一時的に停止する粟田口止刑事件が生じたものの、早くも12月29日には大村益次郎暗殺事件の刑が執行されている。
これに対して横井小楠の裁判ではまた奇妙なことが起こる。12月9日弾正台の主張が一部通り、刑執行の延期と弾正台に小楠が国賊である根拠の提示を求めている。本来の暗殺事件と全く関係ない方向に裁判は進んで行く。柳川藩士で大巡察の古賀十郎は弾正台の意を受けて熊本に調査に行った際、阿蘇神社の大宮司より横井小楠が書いたとされる「天道覚明論」なる文書を渡される。大宮司によると前夜拝殿に投げ込まれたものだということだ。古賀はこれを証拠として提出している。
小楠研究を行う者にとって「天道覚明論」は厄介な代物のようだ。山崎正董は「横井小楠 傳記篇」の中で「天道覚明論」を引用することなく裁判の経過のみ記した後、「第19章 小楠を見直して」の中で「10 尊皇 敬祖」という一文を書いている。森鴎外の稚拙説や元田永孚の河上玄斎による偽書説を取り上げているものの偽書かどうかの判断を下さず、小楠の皇室に対する敬愛の情を明らかにすることで小楠の作でないことを立証しようとしている。
これに対して松浦玲氏はその著書「横井小楠」(ちくま学芸文庫 2010年刊)の中で、山崎の立証方法が困難であることを指摘した上で、明治天皇が小楠の眼鏡に適っていたことからこのような一文を書く必要がなかったとしている。小楠がいつの時点で明治天皇に出会い、どの書簡にその印象を記したのかは、残念ながら触れていない。小楠の血統論については、横井小楠殉節地 その5で触れているのでそちをご参照下さい。ここではアメリカ合衆国のワシントン大統領を敬愛する小楠が、優秀な君主は優秀なリーダーに禅譲すべきであって、決して血統で君主を世襲してはいけないという説である。徳富蘇峰や山崎正董は、小楠の血統論が天皇家まで想定してなかったとするのに対して、松浦氏はその範囲から天皇家を外す事はできないとしている。恐らくその推測は正しいと思う。小楠は招聘主であった松平春嶽も例外としていなかった。思想の正当性を守るためならば、一切の例外を設けることを許さなかっただろう。松浦氏は小楠の思想を延長すれば「天道覚明論」のような一文を書くことも可能であるということで、小楠を陥れるために書かれた偽書と考えているようだ。 松浦氏は堤克彦氏の「天道覚明論」の作者である東皐野人が元田永孚であるという説も退けている。堤克彦氏は「西日本人物誌11 横井小楠」(西日本人物誌編集委員会 1999年刊)において「『天道覚明論』の執筆」という項を作り、いきなり「1887(慶応3)年3月、小楠は問題の『天道覚明論』を著すことになった。」と書き出し、その後大意を紹介している。どうして天道覚明論が横井小楠の作品であるかの説明を一切省いている。この書籍には後書もないため、説明はこれだけとなっている。未見ではあるが、堤氏の論文「『天道覚明論』の成立背景に関する歴史的考察」1(熊本史学第66・67合併号 1990年刊)及び「『天道覚明論』の成立背景に関する歴史的考察 横井小楠の天皇観の変遷」2(熊本史学第68・69合併号 1992年刊)において学術的な考察が成されているのだと思われる。これだけでは断定はできないが、天道覚明論が横井小楠の作であるという考え方には同意できないものがある。
弾正台は天道覚明論が小楠の著作であることを確認するために大宮司を召喚するが、曖昧な返答を繰り返し召喚には応じなかった。そして逃亡していた前岡力雄が明治3年(1870)7月16日に逮捕され、10月8日に刑部省は断刑伺を提出し、太政官は「伺之通」と決定し、罪状は確定した。刑の執行は10月10日であった。
梟示 上田立夫
鹿島又之介
土屋延雄(津下四郎左衛門)
終身流罪 上平主税
大木主水(宮太柱)
谷口豹斎
禁固3年 中瑞雲斎
金本顕蔵
禁固百日 塩川広平
刑を免れた小和野監物も愛宕通旭と外山光輔による明治政府転覆事件、すなわち二卿事件に連座して終身禁獄に処せられている。驚くべきことに小楠暗殺事件で弾正台として働いた古賀十郎もこの事件に関係し梟首に処せられている。
なお、栗谷川虹氏は「白墓の声 横井小楠暗殺事件の深層」(新人物往来社 2004年刊)において、横井小楠暗殺事件の実行犯を支援した黒幕として中瑞雲斎、上平主税、塩川広平、大木主水これに三宅高幸を加えた活動に注目し、この組織は安政の時代に梅田雲浜によって構築されたとしている。小泉仁左衛門宅跡の項でも記したように、地方の裕福な商人達が草莽の志士に対する経済的な支援という形で始まったものが、やがて福田理兵衛、山口薫次郎、革嶋有尚そして備前の三宅高幸や長州の白石正一郎などは、最終的に尊王攘夷運動に自らの身を投ずることになる。そして勤王思想の実現として王政復古を迎えた時点で活動を停止したものと、政府の欧化政策を善しとせず第二維新を実現するべく活動を継続した人々に分かれることになる。我々後の時代の人間にとっては頑迷な攘夷思想を持った人々の集団のようにも見えるが、当人達とっては新政府に裏切られた想いが強かったことと思う。栗谷川虹氏は明治元年(1868)8月16日の朝彦親王広島流謫と小楠暗殺事件の関連についても推測している。時期的には事件発生前であるため直接関係ないようにも見える。しかし徳川幕府側からではなく、二卿事件のように新政府の近い場所から朝彦親王を担いだ計画が発生する可能性がなかった訳ではない。親王が京に戻ることが許されるのは明治3年(1870)閏10月20日であった。同年12月5日に父の伏見宮邦家親王家に入る。京には戻れたが、謹慎は解かれること無く政府は親王が面会すること禁じていた。 親王の謹慎が解かれたのは明治5年(1872)1月6日であった。徳川慶喜が従四位に叙せられ、元京都守護職 松平容保、同じく京都所司代 松平定敬も同日に赦免されている。かつての一会桑に対する戦後処理が終わった日でもある。親王も宮の称号を許され、三品に叙せられた。赦免の礼を申し上げるため、朝彦親王は同年2月29日に参内し、天皇に拝謁している。ちなみに二卿事件の首謀者二人に対する切腹は明治4年12月3日(1872)に終わっている。
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