修学院・一乗寺の町並み
修学院・一乗寺の町並み (しゅがくいん・いちじょうじのまちなみ) 2008年05月20日訪問
赤山禅院の鳥居を出て、再び修学院離宮の表総門前、禅華院そして林丘寺の森を見ながら音羽川を南に渡る。そのまま鷺森神社へ向い、境内に入る手前を東に折れ、曼殊院を目指して畑の中の坂道を登って行く。途中で歴史的風土特別保存地区を示す碑を見かける。白川通からわずか500メートル入っただけにも関わらず、長閑な田園風景である。赤山禅院、修学院から曼殊院、詩仙堂がある辺りの地名は修学院と一乗寺となる。
修学院の地名は、10世紀頃の寺院の名称から来ているが、一乗寺もまた園城寺の別院・一乗寺に由来している。一乗寺は康平6年(1063)一条天皇中宮藤原彰子によって園城寺別院として建立されている。この建立以前の天元4年(981)延暦寺と園城寺との対立の中、園城寺別当穆算が難を逃れて住している。また永延2年(988)円融法王が一夜を宿したことなどで知られる。一乗寺は保安3年(1121)延暦寺衆徒によって焼き討ちされるが再建する。しかし南北朝の戦乱によって再び焼失し廃寺となる。一乗寺燈籠本町にある一乗寺集会所内に一乗寺趾の碑が遺されている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会に一乗寺の風景が掲載されている。この図会には、一乗寺村、北山御坊、詩仙堂、八大天王が描かれている。
千日回峰行の行者道として、比叡山から赤山禅院をつなぐ道は、雲母坂と呼ばれている。修学院離宮脇より比叡山の山頂に至る古道で、現在の音羽川の北側、親鸞聖人御旧跡きらら坂の碑が建つあたりがこの道とされているが、Wikipediaでは、その他にも曼殊院道(府道104号部分)や、曼殊院参道とする説もあるようだ。 治承5年〈1181〉浄土真宗の宗祖親鸞が、9歳の時に青蓮院で出家し比叡山延暦寺へ修学のために登った道が雲母坂であり、また建仁元年〈1201〉29歳の春に比叡山と訣別し、六角堂へ百日参籠を行うために下山した道でもある。
この坂の名の由縁は、この山道が花崗岩の砕けた地質であり、その中に雲母が含まれていることによる。
ぬぬにさんのブログ 徘徊の記録 には、雲母坂を経て比叡山へ(http://nununi.net/cgi/archives/001768.html : リンク先が無くなりました )という標題の踏破記録が記されている。興味のある方は是非ご参照ください。
曼殊院から尾根線に沿って南に進むと、一燈寺(葉山観音)、林丘寺宮墓地、圓光寺、詩仙堂、八大神社、狸谷山不動院、本願寺北山別院そして金福寺と巡ることができるが、かなり道を調べて歩かないと無理のようだ。今回は、曼殊院から詩仙堂と八大神社を廻り、一乗寺下り松を見ながら白川通に出て行くことにした。
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