禅華院
臨済宗大徳寺派 解脱山 禅華院(ぜんげいん) 2008年05月20日訪問
鷺森神社から、音羽川に出て林丘寺の昔の表総門とその境内を示す林を見た後、修学院離宮拝観のため修学院の総門に向う。やや音羽川の下流に下ると橋が現れ、これを渡ると宮内庁が管理する修学院の敷地が広がる。一見すると普通の農地のようだが、この耕地こそが田園の中に突如現れた修学院離宮を演出する上で最も重要な役割を果たしている。しかしそのことは離宮の中に入らない限り理解できないだろう。それにしてもビニールハウスまで建てて本格的に農業を行っている風景は、ただ単に演出のためということをはるかに越えている。 この右手の風景に気を取られていると、左手にある門を見過ごしてしまう。石垣と植え込みによって囲まれた敷地内へは、この奇妙な形をした門から入ることとなる。ただし個人邸宅のように見えたため、今回の訪問では中には入らなかった。しかし後日、槇野修著の「京都の寺社505を歩く(上)」(PHP新書 2007年)で調べてみると臨済宗大徳寺派の寺院・禅華院であることが分った。
禅華院は臨済宗大徳寺派の寺院で、山号を解脱山と称す。門前に掲示してある案内板によると、昔は比叡山三千坊の一つであったとされている。
比叡山延暦寺根本中堂へ至る険しい山路である雲母坂の登り口には天台宗の寺院・雲母寺が建立されている。この寺院の姿は、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも残されている。この図会からは西側に建てられた林丘寺と比較しても規模の大きい寺院であったことが分る。しかし雲母寺は残念ながら明治時代に入ってから廃絶し、その旧跡を示す石碑のみが残されている。西の坂本と呼ばれる地に天台宗の寺院があったとして不自然ではないだろう。
先の院主による案内に従うと、禅華院は寛永年間(1624~43)に大徳寺170世の清巌宗渭によって創建されている。清巌宗渭は天正16年(1588)近江に生まれている。9歳で大徳寺130世の玉甫紹琮について得度している。玉甫の没後は兄弟子の賢谷宗良(大徳寺159世)に参じている。南宗寺塔頭徳泉庵・臨江庵、東海寺塔頭清光院、伊賀の龍王寺・妙華寺・玉龍寺、 豊後の円福寺、豊前の祥雲寺、肥後の泰雲寺を開創し、京都の禅華庵・慈眼庵を中興している。大仙門下大光派。
清巌は書画に優れ、茶道に通じ、千宗旦参禅の師でもあった。そのため、その墨跡は茶掛として珍重されている。宗旦が隠居するにあたって茶席を建て清巌を招いたが、約束の時間になっても現れない。そのため宗旦は、「明日に来てください」と言い置いて外出する。遅れて来た清巌は茶席の板張りに「懈怠比丘不期明日(懈怠の比丘明日を期せず)」と書き帰ってしまう。これを見た宗旦は、清巌に「今日今日といひてその日をくらしぬる あすのいのちは兎にも角にも」という一首を献じ、詫びたと言われている。そして、これが裏千家の茶室「今日庵」の由来となったとされている。清巌は寛文元年(1661)74歳で没している。
文政9年(1826)には修学院離宮の中御茶屋の建物を禅華院は拝領している。また昭和3年(1928)京都御所で行われた昭和御大典の終了後、その建物の一部が下賜されて再建されている。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には禅華院について次のような記述がある。
禅華庵〔同所の東にあり、禅宗紫野大徳寺に属す〕
夢想大黒天〔画影三幅対を安ず、又木像大黒天一躰を安ず、長五寸許、共に厨子の内にあり。当庵の開祖省峰禅師、享保十一年三月三日の夜夢の中に、大黒蛭子神拝す。二神禅師に告て曰、汝仏道修行あらんと思はゞ、六十の寿賀に大黒天を画きて、普く諸人にあたへ給はゞ、無二の洪福あらんと、夢見る事続きて三夜なり。禅師奇異の思ひをなし、即老母をはじめ親族を聚め、祝寿の儀式を調へ、大黒天をみづから画き、諸人に与ふ事凡一万六千四百余なり。忽ち霊験ありて何国ともなく諸人こゝに詣し、かの像を授り金銭を投る事夥し、速に土蔵をいとなみ遷仏の供養ありてこゝに安置す。禅師の寿齢は八十六歳にて入寂し給ひけり〕
開祖省峰禅師、享保十一年三月三日の夜夢の中に とあるが、どうも案内板の表記とは異なるようだ。享保11年(1726)とは清巌宗渭による寛永年間(1624~43)の開創から100年近く後のことである。この三面大黒天については、院主による案内にも記されている。
公開されていない本堂には本尊の釈迦如来と左右に地蔵観音二菩薩を安置している。また境内にはいくつかの石仏が祀られている。河合哲雄氏の作成されたHP 「石仏と石塔!」で禅華院の石仏を紹介している。山門の北側に鎌倉時代後期の阿弥陀如来坐像と地蔵菩薩坐像がある。これらは修学院離宮の田圃の中にあったものを移したとされている。また阿弥陀如来坐像の左に祀られている弥勒菩薩坐像と阿弥陀如来石仏の2体も、雲母坂にあったものを昭和52年(1977)にこの地に移している。弥勒菩薩坐像の背面に大治元年(1126)五月八日の銘が入っていることから、平安時代後期の作であることが分る。
禅華院の庭園は小堀遠州作とされている。拝見していないので何とも言えないが、多くの伝遠州作の一つではないだろうか?
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