アーカイブ:2009年 3月
塔の島と橘島
塔の島と橘島(とうのしま と たちばなじま) 2008/05/11訪問 搭の島 十三重の搭 縣神社を出て、あがた通を大津方面に左折し道なりに進む。平等院の裏側を過ぎると宇治川と2つの島が現れる。下流側の大きな島は橘島、上流側の小さな島は塔の島あるいは浮島と呼ばれている。この2つの島を含めた中洲地域を塔の島地区あるいは中の島と表わすこともあるからややこしい。この2つの島と岸を結ぶため、4つの橋、喜撰橋・中の橋・朝霧橋・橘橋が架けられている。 搭の島 喜撰橋 搭の島 喜撰橋から平等院側の岸を望む まず朱の高欄に擬宝殊のある喜撰橋を渡り塔の島に入る。平等院側の岸には鵜飼舟の船… ►続きを読む
縣神社
縣神社(あがたじんじゃ) 2008/05/11訪問 縣神社 橋姫神社の前を過ぎ、さらに「あがた通り(縣神社参道)」をしばらく進むと道は突き当たり、左側は宇治田原経由で大津へ、右側は久御山経由で淀に至る。縣神社はこの分岐する交差点の左角に位置する。 縣神社 本殿 縣神社 本殿 縣神社は木花開耶姫命を祭神に祀る神社。「縣」の名の由来には、木花開耶姫命の別名である「吾田津姫(あがたつひめ)」という説と古代の行政区である宇治県の守護神として祀られていたという説がある。いずれにしても神代の頃からの地主神だとされている。 藤原道綱母によって書かれた「蜻蛉日記」には、宇治の「あがたの… ►続きを読む
橋姫神社
橋姫神社(はしひめじんじゃ) 2008/05/11訪問 橋姫神社 宇治橋を渡り、縣神社の大鳥居をくぐり「あがた通り(縣神社参道)」をしばらく進むと左手に塀の切れ目に小さな鳥居がある。注意して歩かないと見過ごしてしまいそうなほど小さな橋姫神社である。 境内右に大きな覆屋が架けられ、その中に橋姫社(瀬織津比咩尊・せおりつひめのみこと)と住吉明神社が並ぶ。瀬織津比咩尊は、海神・風神・霊界神とともに祓戸の大神四神の川の神・水神である。また住吉神社も同じく水の神である。 放生院でも記したように大和の元興寺の僧 道登が大化2年(646)に宇治川に橋を架けた。このことは宇治橋断碑に記述されている… ►続きを読む
宇治橋
宇治橋(うじばし) 2008/05/11訪問 宇治橋 下流側より 放生院から再び宇治橋東詰に戻り、宇治橋を渡る。 宇治橋 下流側より 宇治橋 東詰め 宇治橋 橋の由来 宇治橋は放生院で触れたように、大化2年(646)に宇治川に架けられた橋である。滋賀県大津市の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」と京都府大山崎町の淀川にかかっていたといわれる「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられている。 現在の橋は、長さ155m、幅25mで平成8年(1996)に架け替えられたものである。擬宝珠を冠した桧造りの高欄という伝統的なデザインは、この地を訪れた人々に宇治の歴史を感じさせるの… ►続きを読む
放生院
真言律宗 放生院(ほうじょういん) 2008/05/11訪問 放生院 山門 京阪本線淀駅から中書島で乗り換え、京阪宇治線の宇治駅に出る。京阪宇治線の西側を宇治川が流れているため、宇治駅を出ると目の前に宇治橋が架かる。橋を渡らず宇治川の東側を平行に走る道に入り、50メートルほど進むと左手に放生院の山門が現れる。 放生院は、山号を雨宝山 寺号を常光寺という真言律宗のお寺である。宇治橋を管理する守り寺とされていることから、通称“橋寺放生院”でよばれていた。 推古天皇12年(604)に聖徳太子の発願により、秦河勝が太子の念持仏である地蔵菩薩像を祀る地蔵院を建てたのがはじまりという。宇治橋… ►続きを読む
淀城
淀城(よどじょう) 2008/05/11訪問 淀城 鯉幟が濠にかかる 井上源三郎が埋葬されたと考えられている辨慶淀店から納所の交差点に向かい、唐人雁木旧趾の碑を探したがどうも見つからなかった。唐人雁木とは江戸時代、将軍の代替わりや慶事の祝賀のために派遣された朝鮮通信使が到着した船着場のこと。通信使の一行は対馬から瀬戸内海に入り淀城下に到着していた。淀で休憩した後、京都を経由して江戸へ向かう。高張提灯が並べられた雁木では、一晩中篝火が焚かれ、饗応されていたといわれている。船着場の階段が鋸状なので雁行をイメージされて雁木といわれたらしい。 旧京阪国道をさらに南西に進むと淀城跡公園へ続く… ►続きを読む
納所と淀小橋
納所と淀小橋(のうそ と よどこばし) 2008/05/11訪問 納所と淀小橋 淀小橋跡 辨慶淀店から旧京阪国道を70メートルほど南西に進むと納所の交差点に出る。 納所と淀小橋 納所交差点 中央の道が府道204号 納所と淀小橋 納所交差点 中央に入っていく道が千本通 納所の交差点には6方向から道が入っている。旧京阪国道の府道13号が北東から入り、南西に出て行く。これに府道204号、府道125号、府道124号と千本通の4つの道が交差点に入り込んでいる。府道124号は中書島を起点にほぼ京阪本線と併走する道であり、また千本通は北区鷹峯から始まるが、九条以南は鳥羽街道とよばれて… ►続きを読む
井上源三郎埋葬推定地
井上源三郎埋葬推定地(いのうえげんざぶろう まいそうすいていち) 2008/05/11訪問 井上源三郎埋葬推定地 辨慶淀店 八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地から再び府道124号を納所交差点方向に戻る。途中、右に折れると小さな流れが現れる。護岸は整備されていたが、昔は湿地帯の中をこのような小川が無数流れていたのではないだろうか。 納所 小さな小川 橋を渡り、UR都市機構伏見納所団地の中を進む。旧京阪国道に出る箇所に、五輪塔型の鳥羽伏見之戦地跡地碑と書かれた碑がある。建立者が明記され、昭和47年(1972)に建てられたことも分かる。八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地が昭和45年… ►続きを読む
八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地
八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地(はちばんうめき ぼしんのえきとうぐんせんししゃまいこつち) 2008/05/11訪問 八番楳木 戊辰之役東軍戦死者埋骨地 2日目は淀→宇治→山城→墨染とかなりの強行軍となる。伏見桃山のホテルを5時にチェックアウトし京阪電鉄伏見桃山駅5:23発淀屋橋行きの普通電車に乗ると淀駅には5:30に到着した。 京阪電鉄淀駅は2011年3月予定で高架化工事がすすめられていた。淀屋橋方面のホームはまだ地上レベルにあったが、京都競馬場の下車駅となるため巨大なホームとコンコースが用意されていた。踏切を渡り納所の交差点を目指すが、途中で道路幅が広くなる場所がある。どう… ►続きを読む
大黒寺
真言宗東寺派 大黒寺(だいこくじ) 2008/05/10訪問 大黒寺 こちらにの門が開いていた 三栖閘門を後にして京都外環状線と宇治側との間の道をしばらく歩き、竹田街道との交差点の手前で交通量の多い環状線を渡る。周囲を見渡したが信号が無いので4車線分を一気に走ることとなった。中書島駅から京阪線で丹波橋駅に出て、真直ぐ西へ歩く。市立伏見板橋小学校に突き当ったところで南に折れると下板橋通に出る。下板橋通を西に入り最初の角を南に入ると京都御駕篭郵便局が右手に現れる。これが大黒寺に続く道の確認となる。さらに20メートルくらい進むとやはり右手に大黒寺の門が現れる。初めての訪問ではなかなか見つけ… ►続きを読む
三栖閘門
三栖閘門(みすこうもん) 2008/05/10訪問 三栖閘門 寺田屋を後にし、竹田街道を南下する。東浜南町を西に入り歩いていくと右手側にモリタ製作所のレンガ造りの建物が一瞬道筋からのぞく。そのまま進み濠川に出る。橋を渡り川沿いに南下し、京阪電鉄の橋梁をくぐると伏見みなと橋と対岸に広がる伏見港広場が見えてくる。巨大な京都外環状線の高架を越えると2本のタワーを持った赤い水門が現れる。これが三栖閘門である。 昔から淀川は氾濫を繰り返してきたが、本格的に治水工事に着手したのは豊臣秀吉が伏見城を築き、城下町を整備してからのことだった。現在の地図からは想像することが難しいが、伏見と宇治と淀を結… ►続きを読む
寺田屋
寺田屋(てらだや) 2008/05/10訪問 寺田屋 大きな提燈に屋号が書かれている 長建寺の山門をくぐり、目の前に広がる濠川の川面に降りていく階段を下りていく。対岸の月桂冠の酒蔵と濠川の流れを見ながら次の蓬莱橋まで歩いていく。蓬莱橋のたもとで再び地上面に上がると橋の先に寺田屋と書かれた提燈が掛けられた町屋が目に入る。既に開館時間を終了しているため、こちらも外からの見学となる。 寺田屋 寺田屋 西側から蓬莱橋方向を望む 寺田屋は南浜に面する船宿である。いつからこの地で船宿を始めていたのかは明らかではないが、寺田屋のパンフレットには、慶長2年(1597)に百姓伊助が伏見京… ►続きを読む
長建寺
真言宗醍醐派 辨財天長建寺(べんざいてんちょうけんじ) 2008/05/10訪問 長建寺 鮮やかな朱の竜宮門 月桂冠大蔵記念館から南に下ると濠川に当たる。弁天橋を渡ると右手側に赤い土塀と竜宮門が見える。これが長建寺の山門。真言宗醍醐寺派に属する寺で、本尊は八臂弁財天。 長建寺 境内はそれほど広くない 長建寺 護摩の跡 弁財天というと関東では江ノ島神社を思い出すが、もともと弁才天は仏教の守護神である天部の1つであるが、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティー(Sarasvatī)が仏教あるいは神道に取り込まれた時の呼び名である。日本では「才」が「財」の音に通じることか… ►続きを読む
伏見の町並み
伏見の町並み(ふしみのまちなみ) 2008/05/10訪問 酒蔵が並ぶ伏見の町並み 月桂冠大倉記念館 伏見奉行所址である桃陵団地を後にし、再び魚屋通に出て近鉄京都線の高架をくぐり京阪電鉄の踏切を越え西に進む。道は大阪町辺りで突き当たり左に曲がる。道なりに進むとすぐにまた魚屋通が現れる。魚屋通はここでクランクしている。また魚屋通に直行する南北に通る道もクランクするため、4つ角の交差点がなくT字路が2箇所近接している。「四ツ辻の四ツ当たり」という城下町に良く見られる遠見遮断の構造である。この場所が伏見城からはかなり離れているため、伏見奉行所防衛のために設けられたものではないかともいわれて… ►続きを読む
伏見奉行所址
伏見奉行所址(ふしみぶぎょうしょあと) 2008/05/10訪問 桃陵団地と伏見奉行所址を示す石標 魚三楼の前から京町通をさらに南に50メートル緩やかな坂町を下ると東西に走る魚町通に出る。ここを左折し近鉄京都線の高架をくぐると目の前に伏見の町並みに調和するように屋根を載せ、妻面を黒板張り風に仕上げた集合住宅群が現れる。これが伏見奉行所の跡地に建設された京都市営桃陵団地である。団地の西側の入口には3つの石碑がある。 桃陵団地の発掘調査を示す碑 一つ目の石碑は上部に笠を載せたようなデザインで、説明文とともに2枚の写真が印刷されている。桃陵団地の歴史を説明するために設置されたようだ… ►続きを読む
魚三楼
魚三楼(うおさぶろう) 2008/05/10訪問 京町通の魚三楼 暖簾の右側の格子に弾痕が残されている 御香宮神社を後にし、再び大手筋の大鳥居をくぐり、西に向う。近鉄京都線・桃山御陵前駅の高架と京阪電鉄・伏見桃山駅の踏切との間の百メートルに満たない地域の中央を京町通が通っている。大手筋から左折し京町通に入り南に30~40メートル進むと、道の右側に「魚三楼」という軒行燈を掲げた間口の広い商家が現れる。 魚三楼のHPによると讃岐出身の三郎兵衛が江戸中期 明和元年(1764)に創業した料亭。伏見港に揚がる瀬戸内海の魚や京野菜と伏見の豊かな湧水を使い、各藩の大名屋敷の料理方などを務めてきた… ►続きを読む