長建寺
真言宗醍醐派 辨財天長建寺(べんざいてんちょうけんじ) 2008/05/10訪問
月桂冠大蔵記念館から南に下ると濠川に当たる。弁天橋を渡ると右手側に赤い土塀と竜宮門が見える。これが長建寺の山門。真言宗醍醐寺派に属する寺で、本尊は八臂弁財天。
弁財天というと関東では江ノ島神社を思い出すが、もともと弁才天は仏教の守護神である天部の1つであるが、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティー(Sarasvatī)が仏教あるいは神道に取り込まれた時の呼び名である。日本では「才」が「財」の音に通じることから財宝神としての性格も付与され、弁財天と表記する場合が多い。また弁天とも呼ばれ、弁才天を本尊とする堂宇は、弁天堂、弁天社などと称される。
弁才天信仰はすでに奈良時代に始まるが、中世以降神道と日本土着の水神である市杵島姫命や宇賀神などと習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。そして近世になると七福神の1つとして祀られるようになる。もともとサラスヴァティーは水と豊穣の女神とされていることから、日本でも水辺、島、池などに祀られることが多い。
慶長19年(1614)に高瀬川開削工事が終わり、伏見から京都の間に高瀬舟による舟運が行われるようになった。寛文年間(1661~1672)には伏見と大坂を航行する過書船、伏見と京都を行き来する高瀬舟の中継地として、寺田屋のある南浜付近が繁栄することとなった。このような状況下で伏見奉行の建部内匠頭が、伏見城築城のころに脇坂中務小輔安治の屋敷があった中書島の開発に着手した。そして元禄12年(1699)に深草大亀谷の即成就院から塔頭の多聞院を移して長建寺を創建した。そして中書島は遊郭などが建ち並び伏見の歓楽街となる。
このような背景で長建寺は舟運の守護神として、また遊郭の遊女の技芸上達の神として信仰を集めた。弁財天の元となるサラスヴァティーは、芸術、学問などの知を司る神でもある。伏見の人々より“島の弁天さん”として親しまれてきた。
境内で男性1人女性2人組みと出会った。女性は和服姿に見えたので何か特別なお参りかなと思ったが、男性のいでたちは明らかに新選組隊士。今一度女性をよく見ると、こちらは花魁姿。何か変な組み合わせではあるが、めったに見れないものを見てしまったような気がしたと同時に、この地が遊郭街であったことを思い出させていただいたと言う得した気持ちになった。
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