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本願寺(西本願寺) その2



浄土真宗本願寺派本山龍谷山 本願寺(西本願寺) その2(ほんがんじ) 2008年05月18日訪問

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本願寺 唐門

 西本願寺の建物の配置は真宗建築の典型となっている。境内図に従って見ていくと、まず堀川通に面して阿弥陀堂門と御影堂門が並ぶ。境内に入ると阿弥陀堂が北、御影堂が南に建てられている。二つの建物を比較すると阿弥陀堂の方がやや小振りな建物であることが分る。 阿弥陀堂は宝暦10年(1760)に再建されている。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートルで重要文化財に指定されている。中央に阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。
 重要文化財に指定されている御影堂は寛永13年(1636)に建立された東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートルの強大な建造物である。中央に親鸞聖人の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事が行われる場所とされている。御影堂は寛政12年(1800)の寛政の大修復及び平成大修復(1999年~2008年)と2回の修復を行っている。

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本願寺 御影堂と阿弥陀堂
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本願寺 御影堂

 御影堂の西南には近世書院造を代表する書院群が続く。その中央には203畳敷きの大広間を持つ、国宝の対面所がある。上下段の境の欄間に雲中飛鴻の彫刻があるので鴻の間と呼ばれている。上段の床には、狩野派の渡辺了慶筆による張良が四賢人を率いて恵帝に謁見する障壁画が逆遠近法で描かれている。華麗で重厚な空間に仕上がっている。下段左右の襖絵と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため、400年の年月を経た現在でも美しい色を残されている。対面所は元和3年(1617)の西本願寺の火災後まもなく再建された建築で、当初は御影堂の南にあったものを寛永10年(1633)に現在地に移築したといわれている。そのため、現在では対面所を含む書院を豊臣秀吉の伏見城の遺構とするのは俗説とされている。

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本願寺 唐門へ続く北小路門
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本願寺 唐門へ続く北小路通 左は興正寺 右は西本願寺

 白書院は対面所の北裏にある賓客を迎えるための正式の書院であり、西から東へ三の間、二の間、一の間からなる。一の間は紫明の間ともいわれる最も重要の間で、上下段に分 かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜に関する故事が描かれている。また、三の間は華麗な孔雀を描き、孔雀の間ともいわれている。この三の間は畳を上げると板敷きで、能舞台としても使用できるように工夫されている。
 対面所の西側には、襖に濃彩で種々の垣根と秋花や菊を描いた菊の間、飛翔する雁の群れや水辺に遊ぶ雁を描いた雁の間、そして雀の間と続く。これらの間も国宝に指定されている。
 西和夫氏の「京都で建築に出会う」(彰国社 2005年)の西本願寺書院P129では、寛永10年(1633)の対面所の移築によって、白書院と雁の間などの別々の建物を合したとしている。Google Mapでこの書院の屋根伏せを見ると確かに複雑な屋根の架け方になっている。このような建立の経過のため白書院は寛永10年以前から存在していたと考えられている。
 対面所の南に面する庭には、で寂如上人が元禄7年(1694)に造立されたと伝えられている切妻造りの能舞台がある。対面所が見所となる。現存するものとしては日本最大級の能舞台で重要文化財に指定されている。

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本願寺 唐門
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本願寺 唐門

 対面所の東側には虎溪の庭が広がる。聚楽第から運んできた石によって作られたと言われるように桃山時代の様式をよく伝える江戸初期の枯山水庭園である。御影堂の屋根を名山・盧山に見立て、中国江西省の盧山にある渓谷から名付けられている。北側の巨石で表された枯滝から砂礫の川が流れ出し、やがて大海に注ぐ光景が表現されている。緑泥片岩を中心とした庭石や、日本庭園では珍しく見事な蘇鉄が植えられている点で目を引く構成となっている。

 黒書院は対面所及び白書院の北東に位置し、明暦3年(1657)の建立とされている。黒書院は江戸時代初期の数奇屋風書院の代表例として伝廊とともに国宝に指定されている。白書院が表向きの接客空間で、金地障壁画や彩色透彫の彫刻などで意匠を凝らしているのに対し、黒書院は門主の生活の場としての内向きの空間として造られている。屋根は前者の瓦葺きに対して杮葺きとし、内部の意匠は水墨の障壁画、土壁、面皮柱、棹縁天井などを用いた空間となっている。東側の一の間(11畳)は門主のための部屋として使われ、西の二の間(20畳)のほか、広敷の間、鎖の間、茶室などがある。一の間の床、棚、付書院なども草庵風の造りとなっている。建物の東北隅は、一部を床を張らない土庇とし、外部空間を屋根内に取り込んでいる。一の間や二の間、茶室の水墨画は狩野探幽によるものである。
 伝廊の西側の中庭には国宝の北能舞台が建てられている。北能舞台は、懸魚に天正9年(1581)の墨書があり、正確な建立年代は不明ながら江戸時代初期のものと考えられている。そのため現在する日本最古の能舞台とされている。この舞台は、下間仲孝が駿府で徳川家康から与えられ、本願寺に寄進したものと言われている。白書院は見所とし、正面入母屋造、背面切妻造の檜皮葺きと古式さを感じさせる舞台となっている。
 この黒書院と北能舞台の北側、そして御影堂と阿弥陀堂の裏側には百華池を中心とした庭園・百華園が広がる。

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本願寺 唐門

 このような書院への入口として、唐門と大玄関門が北小路通に面して造られている。
国宝に指定されている唐門は、四脚門形式、屋根は檜皮葺き、正背面は唐破風造、側面は入母屋造で黒漆塗の柱や梁に極彩色に彩られた彫刻と精緻な飾金物により建築と言うよりは巨大な工芸品という趣がある。牡丹に唐獅子、竹に虎、麒麟に孔雀など数々の彫刻が施され、その豪華で精巧な様を眺めていたら、時間が経つのも忘れてしまうことから、日暮らし門とも呼ばれている。
 伏見城の遺構とも伝わるが、建立年代ははっきりしない。寺の記録では元和3年(1617)の火災の翌年に、旧御影堂門を移築したものとされている。

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本願寺 大玄関門
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本願寺

 唐門の西側には、対面所の大空間を満たす客を向かい入れるために設けられた巨大な大玄関門が建つ。この門は第20世廣如上人が幕末も近い弘化4年(1847)に新築したものである。左右に門番屋を持つ重厚な門で、十万石以上の大名家の格式に準じたものと言われている。門より南西側の平屋の木造建物は、馬を繋ぎおく所として使用されたことより馬繋ぎと呼ばれている。普通の寺院では見かけない施設であり、本願寺の門徒が幅広い層に渡っていることの証であろうか。
 大玄関門の先には本瓦葺き入母屋造りの妻入りに唐破風を設けた大玄関が来客者を迎える。この建物は宝暦10年(1760)親鸞聖人五百回忌の時には、その姿を見ることができたためこれよりあまり遡らない時期に造られたものと考えられている。

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本願寺 興正寺から眺める飛雲閣

 西本願寺の広大な境内の東南隅には滴翠園と呼ばれる庭園がある。この庭には滄浪池と名付けられた池があり、この池に面して飛雲閣が建てられている。初層は唐破風と入母屋を左右に配し、二層は寄棟造りを中心に千鳥破風を配し、三層は宝形造りの楼閣が載る。各階は平面の大きさを変え、屋根などのデザインも左右相称を避け、実に変化に富んではいるものの、見事に調和した建物に仕上がっている。
 飛雲閣も望楼として造られているため、鹿苑寺の金閣や慈照寺の銀閣と比較される。金閣や銀閣はほぼ正方形に近い平面を持ち、宝形屋根を持つ建物であるのに対して、飛雲閣は複雑な平面を窓などの開口部と屋根の架け方で調和を取っているため、その美しさを語るにしても同列に扱うことが難しい。特に1階の平面の複雑さは、西和夫氏の「京都で建築に出会う」(彰国社 2005年)のP114に掲載されている平面図からも伺える。この建物が単一の目的で創られたのではないことが伝わる。

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本願寺 興正寺から眺める飛雲閣

 1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、八景の間、茶室憶昔席などがある。憶昔席の部分のみは建築年代が明確で、寛政7年(1795)茶人の藪内竹蔭らによって増築されている。2階は周囲の板戸に三十六歌仙の像を描いた歌仙の間、3階は摘星楼と名付けた8畳で、下階が書院風に造られているのに対して草庵風の意匠となっている。
 昔より豊臣秀吉の聚楽第の遺構と伝えられてはいるが、現在では江戸時代の建物と推定されている。前述の「京都で建築に出会う」でも、元和年代(1615~1623)に聚楽第から移築したと考えるより、1620年頃に独自の建築として西本願寺の中に新築したと見ている。

 飛雲閣から西にのびる渡り廊下で結ばれた先には黄鶴台という建物がある。寄棟造り杮葺の建物で、内部は床の高さが異なる三つの室から構成されている。一番高い部屋は脱衣室で、階段を下りると控えの間があり、その奥が浴室となっている。10畳ほどの板張りで、隅に唐破風付きの蒸し風呂があり、床板のすき間から蒸気が出る仕組みになっており、上の窓や板戸の開閉することにより温度を調節していたとされている。

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本願寺 太鼓楼

 最後に境内の北東隅には、法要の合図や時を報せるために打たれていた太鼓を備える重層の太鼓楼がある。太鼓を打って時を報せることは、山科本願寺においても行われていたようで、江戸時代初期には境内の南東隅に太鼓を吊るした建物があったようだ。その後、宝暦10年(1760)の親鸞聖人五百回忌に際して境内の大規模な整備が行われており、現在の太鼓楼はこの頃に建立されたものと考えられている。なお寛政元年(1789)に第17世法如上人の時に修復が行われ、新たな太鼓が備えられることとなった。そのため二つの太鼓が残されている。なお古い方の太鼓は奈良の西大寺の遺品と言われている。
 慶応元年(1865)3月10日、新選組は屯所を壬生から西本願寺に移し、境内の北東にあった北集会所(現在の参拝会館)と太鼓楼を使用している。智積院の項でも書いたように、織田信長とは敵対関係にあった本願寺も、豊臣秀吉との間には均衡が保たれていたと思われる。天満本願寺には大阪城に近接する良い土地を与え、京都では顕如に自由に敷地を選ばせている。ほとんどの寺院を強制的に寺町に移転させたのに対して、本願寺だけ特別に扱ったようにも見える。しかし慶長5年(1600)の関が原の戦に勝利した徳川家康は、慶長7年(1602)後陽成天皇の勅許を背景に、東本願寺に烏丸六条に寺地を寄進し、教如は東本願寺の第12世に就任させている。家康は、いわゆる本願寺の分立を行っている。このような経緯もあって西本願寺は長州との深い縁もあり、幕末の尊皇攘夷運動の中で長州藩を支援することもあった。東山にあった翆紅館は西本願寺の所有であり、文久3年(1863)1月27日には土佐藩 武市半平太、長州藩 井上聞多、久坂玄瑞ら、6月17日には長州藩 桂小五郎、久留米藩 真木和泉らが集まり、攘夷についての打合せが行われている。新選組はこの西本願寺の中に、嫌がらせを含めて本拠を移している。慶応3年(1867)6月15日に不動堂村へ屯所を移すまでの間、境内で大砲を打つなど、乱暴を繰り返したとされている。新選組が使用した北集会所は、明治6年(1873)姫路市の本徳寺に移設されたため、この境内の中では太鼓楼だけが新選組に関わるものとなっている。なお明治維新後は島田魁が太鼓番をしたという有名な話が伝わる。

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本願寺 龍谷大学

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本願寺 七条通に面して門が建つ

「本願寺(西本願寺) その2」 の地図


大きな地図



本願寺(西本願寺) その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  西本願寺 阿弥陀堂 34.9921 135.7516
02  西本願寺 御影堂 34.9914 135.7516
03   西本願寺 書院 対面所 34.9908 135.7509
04   西本願寺 書院 白書院 34.991 135.7509
05   西本願寺 書院 黒書院 34.9912 135.751
06   西本願寺 北能舞台 34.9911 135.7509
07   西本願寺 虎溪の庭 34.9909 135.7512
08  西本願寺 唐門 34.9903 135.751
09  西本願寺 飛雲閣 34.9905 135.7524
10  西本願寺 大玄関門 34.9903 135.7502
11   西本願寺 百華園 34.9927 135.7526
12  西本願寺 太鼓楼 34.9927 135.7526

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